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<2020年 礼拝メッセージ>

2020年12月27日
目を向けるお方

「目を向けるお方」マタイによる福音書14章22-30節

 今年最後の礼拝となりました。この一年どのような年だったでしょうか。コロナ禍で今までとは違う一年でした。ですから、今までと違う神様の導き・恵みを感じた2020年ではないでしょうか。教会に集まることが厳しい中、デジタル機器を利用して年間通して礼拝を捧げられたことは大きな感謝であります。

マタイによる福音書14章後半に湖の上を歩くイエス様の場面があります。この物語は、マルコ・ヨハネの福音書にもある物語です。しかし、ペトロが湖の上を歩いたことが書かれているのはこのマタイの福音書のみです。舟を出した弟子たちが逆風に悩まされているところに、イエス様が湖の上を歩いて来られます。彼らは初め訳がわからず幽霊だと思い恐れをいだきますが、そんな彼らを察したイエス様は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と優しく声をかけて彼らを安心させます。嬉しくなったペトロは、そちらに行っていいかと尋ね、イエス様に「来なさい」と言われ、その言葉を信じて思いきって、湖の上に足を踏み出し湖の上を歩く経験をします。この大胆でおもしろい体験をするペテロはとても素敵ですが、途中で強い風に目が奪われイエス様から目が離れた瞬間湖に沈みかけますがイエス様は、暖かい手でペトロを助け上げられます。そしてペトロを離す事なく、共に舟まで歩いて行かれます。イエス様にまっすぐ目を向けて進む時、湖の上でも沈む事なく歩けます。しかし私たちは、逆風に勝てるほど強くありません。社会の強い逆風に悩まされ、深い穴に落ちてしまいそうになります。そのような状態にある私たちに、イエス様から近づいてくださり優しく私たちを捕まえて離す事なく共に歩んでくださいます。主は、いつも私たちのそばにいてくださる事は、希望であり、慰めであり、幸せな事です。私たちは、そのイエス様にいつも目を向けてしっかりと見つめて方向を見失わないようにしましょう。

松倉善浩

2020年12月24日
布にくるんで

ヨハネ第一の手紙 4章9-10節

   神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

 

 日本人にとって、聖書の話、特にクリスマスの話はどう心に響くのでしょうか?コロナの時期、多くの人が共感しているのは鬼滅の刃というアニメです。そこには、人の命の儚さと自己犠牲の精神の偉大さが描かれています。クリスマスの物語は、現代の日本人の心に響く内容がそのままそっくり重なっていると感じます。イエスさまの誕生は、死と重なっているような出来事でした。家畜の餌箱の飼葉桶の中で眠っておられたイエス様。当時の家畜小屋は、洞窟のような場所でしたが、イエス様は十字架の上で死んだ後も岩山を掘ってできた空間に収められています。飼い葉桶は、木製ではなく、石をくり抜いてできた用具であり、まるで赤ちゃん用の棺桶のようです。赤ちゃんイエス様もまるで死者のように布に包っている状態であり、十字架で死んだ後、亜麻布でぐるぐる巻きの状態で葬られていたことと重なります。つまり、イエス様の誕生の光景に、すでに死の影が映されているのです。ヨハネの手紙には、「わたしたちの罪を贖ういけにえとして」地上に来られたからであると伝えています。

 さて、新型コロナのワクチンが、様々な医薬品メーカーから続々と開発されているが、感染治療の際、試されている方法があるそうです。コロナウィルスから回復した人の血液を利用するという治療です。回復した人の血液にはウィルスに対する抗体があり、血液に含まれる免疫力が、弱った体の中で、働き、抵抗力をまして、体が強められ、病気を克服してゆくことができるのです。安全で効果的な治療方法と言われています。イエス様は自己犠牲の心で、死ぬために生まれてくださったお方。さらに死を乗り越え、復活して下さったお方。私たちは、その方の血によって、死の病から回復され、永遠の命を受けることができます。クリスマスは、死から命に移される恵みが現わされた出来事です。

2020年12月20日
​幸いなクリスマス

羊飼いたちと共に、今年、私たちもクリスマスを喜び、感謝しましょう。聖書に記されているクリスマスの喜びは、コロナ渦においても変わらない幸いです。

 

1.喜びの知らせを聞く幸い

代々待ち望まれた救い主誕生の知らせを羊飼いたちが最初に聞きました。天使が一人だけではなく、軍勢のように沢山遣わされました。神様は大事なことを伝える時にはその人に届くように、大胆に、まっすぐメッセージを伝えてこられます。誰からどう見られている人か、社会的にどのような立場の人か、そんな基準は神様にはないのでしょう。「救い主があなたがたのためにお生まれになりました」今日、この聖書のみことばをお聞きになったこと自体が幸いです。あなたは神様にとって、この時の羊飼いと同じく「良い知らせが伝わるべき方」なのです。

 

2.神に応答し、救い主に会う幸せ

一連の出来事を受け止めて、飼い葉おけに寝かせてある乳飲み子を探し当てた羊飼いたちは「天に栄光、地に平和」という天使の賛美をマリヤたちに伝えたことでしょう。天使たちが宣言した平和は強い力によって戦争を抑止する平和ではなく、敵意、憎しみをもつ私たちを内側から造り変える平和です。私たちが抱えているいろいろなものを飼い葉おけのイエス様の前に差し出したら、イエス様は何も言わずに受け止め、それを持って十字架にかかってくださったことを見せてくださるのです。「その打たれた傷によって癒される」という御言葉があります。心の中にある憎しみ、恨み、罪、その一つ一つで十字架のイエス様を刺し通してしまうような祈りをささげたら、十字架の血潮が心を癒し、それらが取り除かれていきます。すべての問題の根源である罪が解決されるなら、自由に神様と親子関係を楽しめる者にされ、その平和が周りの人にも広がっていくことでしょう。

 

クリスマスの幸いは、喜びの知らせを聞き、それが自分の身の上に実際に起こる幸いです。飼い葉おけで待っていてくださる救い主に会いにいきましょう。

2020年12月13日
待ち望む幸い​ イザヤ30章18節

今年のクリスマスのテーマは「幸いなクリスマス」です。私たち教会はこの時期、待降節を迎え、待つことに幸いを見出してゆく時期を過ごしています。どんな幸いなのでしょうか?

 

1.安心することができる幸い

イザヤ預言はキリスト誕生700年前に書かれた書物です。その時代、アッシリア帝国は北イスラエルを滅ぼし、さらに、南ユダに襲い掛かろうとしていました。エルサレムにいた王や高官たちは恐怖を感じ、そわそわ落ち着かなくなり、「南の大国エジプトに頼ったら、この難局を切り抜けることができるだろうか?」と苦慮していました。微妙なパワーバランスの中で、どう安全を保ってゆくのか、現代にも共通する課題です。クリスチャンであっても、日常生活の中で、いろんな出来事に悩み、沈黙することができず、解決のために行動しなければという衝動にかられることが多々あります。神は私たちが自分や自分を取り巻く状況を見て、あわてることなく、神を見上げ、静かに祈るべきことの大切さを伝えています。

 

2.神の憐みを受ける幸い

イザヤの時代、沈黙できない人々に対して、神はなんと語っているのでしょうか?「それゆえ、主は恵みを与えようとして あなたたちを待ち それゆえ、主は憐れみを与えようとして 立ち上がられる。」(18 )神に聞かず、自分勝手な思いを語り、行動しようとする民に、神は「『それゆえ』あなたは滅ぼされるだろう。私はあなたを見捨てる。」と語っておられません。むしろ、主は恵みを与えようとして立ち上がり、その憐れみのゆえに、あなたを助けると約束しているのです。主の恵みによって救われるというのは、聖書が示す一貫したメッセージです。主は私たちを憐れみ、救いのために立ち上がってくださるお方です。主を讃えながら、待ち望むことは幸いです。

2020年12月6日
この身に起こる幸い ルカによる福音書1章39~55節

マリヤとエリサベトの幸いなクリスマスを思い巡らせましょう。

 

1.クリスマスの幸いは目に見えないことを信じることから

エリサベトは5か月隠れた後、自分の身に起こったことを感謝し、「人々の間からわたしの恥を取り去る主の恵み」として告白しています。マリヤが天使の言葉を信じるに至ったのは、昔から語り伝えられたメシア預言の言葉と重なっていたことや、親類のエリサベトの妊娠でした。マリヤが信じた内容は「処女であるにも関わらず、聖霊によって身ごもり、救い主の母となる」ということです。処女降誕には重要な意味があります。もしも、マリヤが性的関係を誰かと持ったためにイエス様が生まれたとしたら、イエス様はただの人間だということです。男と女から産まれた原罪のある人間は、罪からの救い主にはなれないのです。神ではないのです。イエス・キリストは神であり、人であるという両方が必要でした。マリヤに聖霊が臨んだように、あなたにも聖霊が降られますようにとお祈りしています。あなたは罪からの救い主イエス様を必要とされているのでしょうか。それとも、素晴らしい人間イエス様を求めておられるのでしょうか。あなたを罪から救うために必要なこととして全能の神が成してくださったと受け止めて、幸いなクリスマスを迎えましょう。

 

2.クリスマスの幸いはこの身に起こる

母マリヤやエリサベト、そして赤ちゃんイエス様やヨハネがこの後どうなっていくのかを知っている私たちは神様がくださる幸いって何なのかなと思います。マリヤとエリサベトが受け取った幸いは「関係の幸い」と言うことができます。この二人の再会、同じ信仰を持ち、恵みを頂いた者同士の3か月の交わりが幸いでした。神様との関係そのものを、彼女たちは信頼して「幸い」として受け取りました。神様の言葉、神様との関係そのものを「幸い」として受け取る時、その身にも幸いが起こるでしょう。エリサベトとマリヤにとっては、それは子を授かるという文字通りのその身に起こる事柄として与えられました。彼女たちは苦しみをこの後通ります。母として心引き裂かれるような辛さも経験します。それでも、神との関係は途切れず、その苦しみを共に歩んでくださる神によって「幸いな者」なのです。聖書では神様と人との関係を結婚と重ねて表現している箇所がありますが、結婚の幸せとは何でしょうか。結婚したら決して病気にならず、いつもお金も十分にあるということが結婚の幸せではなく、健やかな時も病める時もどんな時も、一緒に歩んでくれる人がいるという幸せ、関係が与えられる幸せだと言えるでしょう。神様は御子イエス様を送って、私たちにそのような幸い、神が共にいるという幸いを信じた者に与えることにされたのです。神が与える救いは、神との関係が永遠に続くという幸いのことなのです。

 

 小坂忠さんの証し

1975年のある日、僕は家族と妻の実家にいて、夕食を楽しみにしていた。突然、家全体に子供の叫び声が響いた。声の方に行ってみると台所の床の上で娘が叫びながらもがいていた。熱いスープのお鍋をひっくり返して、娘が熱湯をかぶるという事故が起きたのだ。病院で看護師さんが彼女のTシャツを脱がせようとすると火傷でただれた皮膚が剥けてしまう。火傷はそれほどひどかった。医師たちは火傷に偽皮膚をはり、体中に包帯を巻いた。包帯がとれるまでの間、心が休まらない日々が続くことになったのである。ある日、妻の祖母が訪ねて来てくれた。祖母は熱心なクリスチャンだった。娘のために教会の牧師に祈ってもらおうと僕は祖母に連れられて初めて教会に行くことになった。しかし、教会に入ることには抵抗があった。到底僕などは歓迎されるはずはない。何しろヒッピーのドラッグ野郎だ。ところが、祈り会が終わると不思議に僕の心は平安になっていた。

 それから娘の包帯がとれる日が来た。何とそこには生まれた時のような新しい皮膚が再生していたのだ!わき上がってくる喜び。その時、不思議なことに僕は牧師の祈りを思い出したのだ。あの祈りに神が応えてくれたんだと自然に思えたのだ。

 それ以来教会に礼拝に行くようになった。とある日曜日、牧師のメッセージは、イエス・キリストの十字架についてだった。その話を聞きながら、僕は娘の事故のことを思い出していた。苦しんでいる娘の姿を見ているのが辛くて耐えられなかった。どんな代償がかかろうとも、その痛みを止めるためなら何でもしたことだろう。しかし、父である神はどうしてひとり子を助けなかったのだろう?考えているうちに、それがどんなに大きな愛であったかがようやくわかったのだ。

 そのとたんに涙が溢れ出し、「僕もこの神の愛が必要だ。救いが必要だ。それを受けるのは今しかない」と思った。僕はイエス・キリストを受け入れるために祈った。そして、イエス様は僕の人生も、音楽も、僕のすべてを変えてくれた。

 小坂忠さんは、今現在もクリスチャンアーティストとして活躍されています。夫婦で一生涯をかけて、日本中にプレイズソングを広め、深める働きをしてこられました。私自身、忠さんたちが日本の各地で行ってくれたミュージックセミナーに参加して讃美について、ピアノ奏楽について学びました。その時火傷をした娘さんも今ではゴスペルシンガーとして活躍されています。忠さんが証しの最後に書いておられる「そして、イエス様は僕の人生も、音楽も、僕のすべてを変えてくれた。」というのはこの45年間ずっと続いていることです。神様との関係が忠さんの、またご家族の中心になっていったのです。

 

 神様との関係が豊かであれば、あなたの身に起こることが「幸い」だったと賛美することになるでしょう。与えられることが「主が目を留めてくださったことなのだ」と明らかになるでしょう。神様が私たちの魂に、そして心に注いでくださる救いは、一切を包み込んで讃美へと変えてしまうほどの恵みです。私たち自身を幸いにしてくださるのも、また私たちの周りにいる方々を幸いにしてくださるのも、主です。ある意味、主の仰ったことを信じるというのは、神様の前に降参するような思いにも似ています。「あなたが必要です。あなたのお言葉通り、この身になりますように。」と今日、与えられた御言葉を受け入れる祈りをささげて、私たちも幸いなクリスマスを迎えましょう。

11.28.2020

最初のクリスマス

ルカによる福音書2章6~15節

今日からアドヴェントに入ります。今年のクリスマスは、新型コロナウイルスの影響で、チラシ配布や恒例の愛餐会、祝会も中止となりました。にぎやかなクリスマスではありません。しかし、最初のクリスマスも、宿屋に泊る余地がないため、寒い夜、汚い馬小屋に落ち着くしかなかったヨセフ、マリアと、世間の人たちから差別扱いされていた羊飼いだけで、静かにイエスさまの誕生を祝いました。改めて読むと、イエスさまの誕生は何とみじめなことかと思います。しかし神さまのご計画は私たちの思いをはるかに超えるものなのです。

(羊飼い)

イエスさまの誕生を一番早く知らされた羊飼いは、誰からも邪魔者扱いされ罪びととして差別扱いされていました。この羊飼いたちのところに、まず天使が現れて、「いと高き所には栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ。」と伝えました。あなたたちは、決して罪びとなんかではない、神さまの御心にかなう人だ、言い換えれば、一人前の人としての扱いをされていなくても、神さまはあなたたち羊飼い一人ひとりを愛して、大切に思っていると言ってくれたのです。私たちの思いを超えて、一方的に、今を生きる私たちをも愛してくださっています。

(宿屋)

ヨセフとマリアを泊めてくれる宿屋はありませんでした。満員で泊める部屋がなかったのです。宿屋は私たちの心、宿屋が満員のように、私たちの心も不安、心配事、欲望でいっぱい、イエスさまを選ばずに自分の大切なものを選びます。私たちの心の部屋をからっぽにして、心を貧しくして、イエスさまを受け入れなさいと、神さま私たちを招いてくださっています。

(飼い葉おけ)

馬小屋「しか」泊るところがない、不衛生な飼い葉おけ「しか」、イエスさまを寝かせるところがありませんでしたが、神さまは「しか」ではなく、何よりもこの、馬小屋を、どこよりも汚れた粗末な飼い葉おけを選ばれたのです。羊飼いのように差別され、虐げられ、苦しんでいる人たちの悲しみ苦しみをよくわかって下さり、世の最も底辺に降りて来てくださり、愛してくださるイエスさまが、いつも共にいる、そのことを伝えたかったのが、最初のクリスマスです。

今年のクリスマスは、コロナ禍でのクリスマスですが、イエスさまの誕生の出来事に心をとめて、今日から始まるアドヴェントの時を過ごしてまいりたいと思います。(内田一郎)

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