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2024年4月7日
新しい出発

ヨシュア記1章1-18節 三宅真嗣牧師

 春は様々な変化がある季節であり、緊張を感じている人もいるかもしれません。モーセという偉大な指導者の後継者となったヨシュアは恐れと不安を抱え、緊張していました。どのように乗り越えたのでしょうか?

 

1.神の約束を信じる

 神はヨシュアに何度も繰り返し語り掛けている言葉があります。 「強く、雄々しくあれ」6・7・9節 そして、次にように励ましておられます。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」(5) 神がヨシュアに語ったのは祝福の約束でした。神の約束は必ず成就するというのが、ヨシュア記のテーマとなっています。「主がイスラエルの家に告げられた恵みの約束は何一つたがわず、すべて実現した。」(21:45)

私たちもまた、人生の様々な変化の中で、「どうしたらいいのだろうか?」と、うろたえたり、自分に自信を失って、うなだれたりすることがあるかもしれません。しかしながら、イエス様のゆえに私たちは祝福に導かれているのです。「強く、雄々しくあれ」と主は語っておられます。

 

2. 神のみ言葉を守る

 ヨシュアとイスラエルの民にとって、カナンの地で待ち受けていたのは、激しい戦いでしたが、神がヨシュアに命じたのは、「み言葉を守れ」という 不思議な命令でした。「馬をそろえろ」、「軍事訓練をしろ」、「弓、槍の手入れをしておけ」ではありませんでした。「わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。」(7)と約束されました。どうしてめそめそしていたヨシュアが、敵を震えあがらせるような働きをすることができたのでしょうか?彼がみ言葉に忠実だったということに、秘密がありました。私たちがヨシュア記から学ぶことができるのは、「神に従うなら強い。そして祝福の中、生きられる。」という単純な法則です。ヨシュアが祝福の中、生きることができたように、神は私たちに祝福の人生を用意して下さっているのです。

2024年3月31日
復活がなければ・・

Ⅰコリント15:12-20 三宅真嗣牧師

 

 キリスト教には明るさがあると感じます。クリスマスは冬至が終わって、どんどん日が長くなり、日差しがゆっくりと強まってゆくタイミングで行われます。そしてイースターというイベントも命を感じる春に行われます。イースターにどのような明るさの内容があるのでしょうか?

 

1.将来の希望

 将来にどんな希望があるでしょうか?年齢問わず、どんな人にも将来に希望があり、喜びを感じることがたくさんあります。しかしながら、現実問題として、どんな人の人生でもいつか終わりが来ます。「死後、自分がどうなってしまうのだろうか?」という疑問に対して、どんな人でも恐れと不安を感じます。私たちが死ななければならない理由を聖書は、罪があるからであると語ります。ですから罪の問題さえ解決できるなら、私たちは生きることができるわけです。イエス様は私たちの身代わりとなって十字架の死を遂げ、三日目に肉体をもって復活して下さいました。この出来事を信じることによって、私たちは神から罪なしと認められ、天国に招かれ、永遠の世界に入るのです。

 

2.生きる喜び

 童話ムーミンに登場するスナフキンはこんなことを言ってます。「旅をするのに、大きなカバンはいらない。口ずさむ歌があればいいんだ。」私にとって人生の旅をするのにあたって、口ずさむ歌とはイエス様です。寂しい時、悩む時、不安な時、イエス様への愛の歌を口ずさむなら、心満たされ、勇気が与えられます。クリスチャンが喜びある人生を送ることができる秘訣がまだまだあります。ある牧師は、イエス様を信じる者は、約束手形を手にしているようなものだと語っています。死という区切りを経て、神が私たちを天国の世界に招き入れ、用意された財産を授けてくださるのです。イエス様は墓を破って死者の中から復活した最初の方となって下さいました。この出来事に希望と喜びの源があるのです。

2024年3月24日
十字架がなければ・・

ヨハネの福音書19章23~30節 三宅友子副牧師

 四つの福音書全てに十字架の場面が記されています。十字架がなければ、どんな違いがあるのでしょうか?例えば、イエス様ご本人にとって地上の苦しみがなくなります。裸にされることもなく、弟子の裏切りを経験することもなく、母マリヤを悲しませることもないのです。弟子たちにとっても、愛するイエス様と離れることなく、突然の死別という大きな痛みを経験せずに済みます。イエス様を十字架につけなければ、ピラトも律法学者や祭司たちも後世に至るまで悪口を言われずに済みます。この地上のことだけ考えていれば、イエス様の十字架はなくてもいいものでした。いやむしろあってはならないものでした。

 では、なぜ神様は「あってはならないもの」をみこころとされたのでしょうか?十字架がなければ、み言葉の信ぴょう性はなくなってしまいます。30節で「父なる神様に託された救い主としての働きが完成した」と宣言されています。十字架がなければ、罪の解決がなく、私たちの人生から神様との親しいつながりが消えます。私たち自身が「渇く」「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と言い続けることになるのです。十字架がなければ、過去の傷をどこまでも引きづっていくことになります。弱さも欠けもさらけ出してありのままで生きるなどあり得ない緊張感の中、平安なく生きることになるでしょう。

今日ここに集う私たちの霊的関係も、イエス様の十字架の贖いが基礎にあります。十字架の下では血縁関係も全て超えて、「自分たちのためにキリストが死んでくださった」というその意識のゆえに結び合わされるのです。そして、特に生涯の終わりに十字架は大きな影響を与えます。人は皆、死んだら終わり、地獄に行くしかないからです。十字架がなければ、永遠のいのちがないからです。

 

 イエス様は渇かれました。私たちが満たされるためでした。イエス様は成し遂げられました。私たちが神の子とされるためでした。イエス様は身代わりの十字架の上で息を引き取られました。それは私たちがこうして神様と永遠に生きるためでした。あなたにイエス様の十字架が必要ですか?

2024年3月17日
アーメンである方 

ヨハネ黙示録3章14-22節 三宅真嗣牧師

 今春、私たち家族が横浜に来てから十年目を迎えることになりました。我が家の子供たちも、進学、進級をすることになり、成長している姿を見ることができ嬉しく思っています。ところで、イエス様は私たちのどんな心や態度を見て、お喜びになるのでしょうか?

 

1.イエス様だけが主であると認める心

 ラオディキアは金融業で栄えた豊かな町でした。ラオディキアは、「人間の統治」という意味があります。人工的に造った町で、10キロ離れた温泉地から、パイプで繋げて水を確保してました。教会の雰囲気としては、事なかれ主義で、真理を求める気持ちも薄く、真理のために戦うこともありませんでした。いつの間にか、イエス様がいなくても自分たちの力で豊かになれるのでは?と勘違いしていたようです。イエス様は、「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(16) と叱責しています。人間が決める価値観や判断による生き方でなく、私の方に向き直りなさいとイエス様は語ります。イエス様はアーメンなる真実なお方です。私たちも真実な心で、イエス様に向き合うことが必要です。

 

2.イエス様に心を開いて歓迎する

 ラオディキアは19世紀以降の現代の教会を表しております。「人間の統治」という言葉の通り、人間が価値観を決め、正誤を判断し、法律を定め、社会を築こうとする特徴があります。「神は死んだ」「宗教はアヘン」 というセンセーショナルな言葉が交わされるようになり、その影響が教会の中にも入り込んできました。イエス様は教会に語ります。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(20) 教会の中にイエス様がいない状態であり、イエス様が戸を叩き、呼びかけています。聖書に書かれていることをそのまま信じて受け入れ、神に信頼する者をイエス様はお喜びになります。単純な信仰を持ち、これからもイエス様を歓迎する教会になってゆきましょう。

2024年3月10日
3.11私たちは決して忘れない

Ⅱコリント1章3,4節 柳瀬洋先生

 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。

 

 今日は3月10日、2011年3月11日に発生した東日本大震災から明日で13年です。私は音楽家ですから、音楽を通してどのように被災者の方々に向き合ってきたか、どのように主の導きと恵みをいただいたかを証したいと思います。
 被災地支援には、行政だけでなく多くの人の力と思いやりが必要です。それぞれに果たすべき役割があり、出番(時期)があります。それをわきまえなければ、かえって人々を傷つけることにもなってしまうのです。だから、私たちキリスト者は祈りのうちに主の導きを求めなければなりません。

 困難や悲しみ苦しみの解決は大きなテーマですが、人が主イエスの福音に出会うことは最も重要なことです。それは私たちキリスト者にしか成し得ないことです。 確かに大震災は多くの人の命を奪い、人々の日常を奪いました。しかし、このことがなかったなら主イエス・キリストの福音を聞くことがなかった人、キリストに出会うことがなかった人々もおられるのです。
「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)という告白を私は何度も聞きました。


 福音宣教には役割分担がありますが、音楽にも大きな使命と可能性があると信じています。その証をさせていただきます。それが皆様の励ましとなり、福音宣教への熱い心となることを願っています。

2024年3月3日
み言葉を宣べ伝える

テモテへの手紙二4章1~5節 内田一郎執事

 本日は、会堂感謝礼拝として礼拝を守ります。最初に今の会堂を建築することになった経緯等を証しを交えてお話しさせて頂きます(巻頭言では省略)。

 そして、会堂感謝というときに、この会堂が神さまに喜ばれる教会として用いられているか、私たちは神さまに喜ばれるために何をするように求めておられるのか、そのことをもう一度確認していきたいと思います。会堂が与えられている喜びだけでなく、この会堂を神さまはどのように使うことを望んでいらっしゃるでしょうか。

1.教会とは、イエスさまを神の子と告白する群れ

イエスさまは、マタイ16:13で「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と言われました。それは、ペテロが、イエスさまのことを「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したからです。教会の基礎となるのは、イエスを神の子、救い主と言い表す信仰の告白です。その信仰を告白するものの群れ、それ自体が教会だとおっしゃっています。教会の大小をイエスさまは言っておられません。その教会の中心に神さまがおられるか、その群れである私たち一人一人が神さまのみ旨を求めているかが問われています。

2.み言葉を宣べ伝える

 その群れである私たちは、何をしなさいとイエスさまは求めておられるでしょうか。

ペトロはイエスさまが復活されて以降、大きな働きを始めます。ペテロの熱心な説教に耳を貸す人たちが増えてきたのをうれしく思わない議員たちが、ペテロにイエスの名によって話をするなと釘を刺しますが、ペテロは「私たちが見たことや聞いたことを話さないではいられない」(使徒言行録4:13~20)、というのです。み言葉を宣べ伝えるのは順風満帆の時ばかりではないのです。ペテロやパウロは、「折がよいとき」より「折の悪いとき」のほうが多かったと思います。そのような中で、み言葉を宣べ伝えていきなさいとイエスさまは私たちに求めておられます。それがイエスさまのみ旨だからです。

 今年の主題「福音宣教を味わい楽しみながら教会を広げよう」を、もう一度思い起こしましょう。家庭で、職場で、この世での生活のすべての場面で、「折が良くても悪くても」宣べ伝える機会が与えられています。それぞれが与えられた賜物を用いて、み言葉を宣べ伝えていく、そのことが教会の群れである私たちに与えられている神さまからの使命、み旨であると信じます。

2024年2月25日
ダビデの鍵を持つ方

ヨハネ黙示録3章7-13節 三宅真嗣牧師

 私たちクリスチャンは、日常生活の中で、み言葉によって励まされ、知恵が与えられ、難しい問題が起こった時でも、主により頼んで解決が与えられることがあります。イエス様はフィラデルフィア教会に励ましの言葉を語っています。どんな言葉でしょうか?

 

1.門を開いておいた

 「あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。」(8) フィラデルフィア教会は、イエス様を否定しない、すなわち積極的に肯定した教会です。伝道はイエス様を肯定することであると言えます。 「イエス様は私の救い主です。そして、あなたの人生にもイエス様が必要です」とイエス様の名を肯定して伝えることが伝道です。フィラデルフィア教会は弱小でひ弱でしたが、伝道する教会であり、イエス様はこの教会に宣教の門を開いておられました。この教会を時代の型として見る場合、17世紀から19世紀の教会であり、この時代、世界宣教が拡大しました。その働きの担い手となったのは、一般庶民であり、小さな宣教団体でした。イエス様は力のない者に力を与えることができるお方です。

 

2.わたしもあなたを守ろう

 フィラデルフィアは七つの中でも一番小さな町でしたが、ヨーロッパとアジアを結ぶ幹線道路が通っていたので、人、物、情報が行き来しました。教会にもいろんな人が出入りし、いろんな情報も入ってきたことでしょう。正しい情報もあれば、そうではない情報もあり、もし偽りを信じて受け入れてしまったら、弱い教会はたちまち混乱し、消滅してしまったことだったでしょう。弱い者が勝利する秘訣は、イエス様のみ言葉を守ることです。イエス様は、み言葉を守る者を守ると約束しています。

 私たちが生きているのは、情報化の時代であり、何が正しいのか分からなくなるような混乱の時代です。聖書のみ言葉を正しいとして、こだわって守る教会を患難の時にあって主イエスは守ってくださいます。

2024年2月18日
4つの捧げもの

Ⅱコリントの信徒への手紙9章6~12節 三宅友子副牧師

 

 先週、私たちは天の父によって養われるということを聖書全体から確認しました。主の扶養家族とされているということは大きな安心を与えます。その土台に立ったうえで、主の家族としての応答を見ていきましょう。頂くばかり、世話をしてもらうばかりではなく、私たちの側の応答があってこそ、関係の伴う信仰が成り立ちます。私たちの信仰は、何かを得るためのものではなく、父なる神様との関係を持つことだからです。特に経済面において応答する方法を4つ、ご紹介します。

 

①一つは十分の一献金です。自分の手で働いていることさえ、神様の助けなしにはできません。ならば、神様が「十分の一はわたしのもの」と仰ることに、逆に「十分の九も自分のために使っていいのですか!」と言ってもいいくらいです。そして、神様のものを神様に返しただけなのに、従った時の祝福の約束が半端ありません。

②2つ目の献げ物は、初物です。これは「こんなにして頂いて、ここまで導かれました!収穫を得るまでに至りました!」という感謝の報告のようです。

③3つ目は、施しです。これは人に差し上げるものです。最近では能登半島地震の復興のための募金なども含まれるでしょう。箴言19:17「弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。」絶対にお返しがないだろう人、そのような力がない人、弱者に差し出したものに対して、神様が報いてくださると。ですから、私たちはその人からの見返りは気にせず募金することができます。差し上げることができます。父なる神様が知っておられるからです。

④4つ目は種を蒔くような献げ方です。教会の働きの為に十分の一以上の献げ物をすることです。一粒の種を蒔くと、いくつの実がなりますか?作物の種類にもよりますが、病気ではない限り30倍、60倍、100倍の実を結びます。そして、この4つ目の献げ方だけが、自分のものを神様に献げる行為だということです。十分の一献金は、神様のものをお返しするということですし、初物もお礼を込めてのお返しです。そして、施しは神様ではなく人に向かって差し上げるものです。だから、この種を蒔くように献金をすることが唯一自分のものを神様に献げることなのです。もともとは神がささげるべき種をその人の手に渡しておられたのですが、神様の目的通りにその種が差し出されたことで、神様は大いに用いることができるのです。十分の一以上の献金は神様への投資です。

 献げ物をする時、私たちの心には感謝、従う心、人を憐む思い、神様に期待する思いが沸き起こります。神様は好意を持つ者の期待を裏切る方ではありません。

特に会堂建築のための献金は、種にあたるのではないでしょうか。新会堂が建ったことで、皆さんはどのような恵みを頂きましたか?どれほどの祝福を頂きましたか?この会堂の中で、言葉には言い表せない神様の恵みを頂き、神様のご栄光を拝してきたのではないでしょうか?

 これからも神様に期待して種を蒔き続けましょう。あなたの献げ物に目を留めて、喜んでくださる神様に心を込めてお献げましょう。

2024年2月11日
主の扶養家族

Ⅰ列王記17章1~16節 三宅友子副牧師

 聖書全体から父なる神様がどのように私たちを養ってくださるのかをお分かちしましょう。

 

①まずは、「自分で働く」ことによって養われることが言われています。自分で働くのに「神に養われる」というのはおかしいでしょうか?神様の支えがあってこそ、私たちは毎日働くことができるのです。

②神様は人を用いて、別の人を養うこともなさいます。1テモテ5章には、まずは家族が、そして身寄りがなければ教会がやもめの世話をしなさいと勧めています。それぞれの力に応じて養い合いながら過ごすように、パウロは教会を牧会していたテモテに教えました。

③社会全体が困っている人を養うことも聖書には記されています。思い出すのは、ルツ記などに見られる落穂ひろい。畑の収穫物を一粒残らずとってしまうのではなく、畑を持たない人が拾えるようにするルールです。アハブ王の時代はこういうことでさえ、機能していなかったのでしょう。それで、ここに登場するやもめのように、あと一握りしか粉と油がないという人たちが存在してしまったのでしょう。

④最後には超自然的な神業によるものです。カラスに養われる、マナが降ってくる、油がなくならない壺などの方法で神に選ばれた者たちは養われました。人の文化圏の外、自然の法則の外におられる神様が、神に従う人をご自身の方法で養われるのです。「私の仕えている神は生きておられます」とエリヤは告白しています。

 

 神こそが養ってくださると信頼すると、私たちのうちにどんな変化が与えられるでしょうか。自分のことだけを考えて守りに入る必要も、明日の心配をする必要もなくなります。お金が中心ではなくなります。イエス様もこのように約束なさいました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」今日与えられた働きをなし、あとは神様にお任せしましょう。

2024年2月4日
七つの星を持つ方

ヨハネ黙示録3章1-6節 三宅真嗣牧師

 皆さんは、どのような切っ掛けで、クリスチャンになったのでしょうか?いずれにしても、「人生のパートナー・イエス様と生きるとはどういうことなのか?」と考え、バプテスマの日を迎えたことでしょう。さて、イエス様はサルディス教会にどんなことを語ったのでしょうか?

 

1.悔い改めの祝福

 サルディスという町は、丘の上にあり、高い城壁で囲まれ、難攻不落の城塞都市でした。ところが、ペルシャによって、あっけなく陥落され滅ぼされた歴史があります。理由は、どんなに大軍が襲ってきても、この城壁は絶対に破られることはないというおごり高ぶりがあったからでした。この教会は、間違った異端の教えが入り込んでいたわけでも、偶像礼拝が行われたわけでもありません。豊かな町の豊かな教会で、迫害もなく、何の問題もなく、平和な教会です。しかしながら、彼らの問題は、イエス様に対する愛や情熱を失い、神様から心が遠く離れてしまい、喜びや感謝を失っていました。イエス様が命じているのは救いの原点に立ち返り悔い改めることです。悔い改めは、神との交わりを再び回復する方法であり、祝福です。

 

2.神の御心を行う祝福

 サルディス教会の豊かさの中で、信仰が死にかけているという状態は、宗教改革時代の教会にもみられました。国民がクリスチャンであるのは、個人が主へ応答したからではなく、国王や諸侯により国教化されたからです。しかし少数ながら、信仰を政治問題ではなく、個人のこととしてゆこうとする運動が行われています。カルヴァン、ツヴィングリーたちの働きがあり、改革派、長老派が生まれ、幼児洗礼を受けた人に、再洗礼を受けるよう呼びかけました。つまり、心で信じて、口で告白する信仰を大切にする運動です。イエス様は、一切の権能で教会を治めておられる方であり、その方の御心を行うことは祝福です。

2024年1月28日
食事をしなさい

ヨハネによる福音書21章1~14節 三宅友子副牧師

 ここでの弟子たちは「イエス様も信じられない、自分たちの能力もあてにならない」状況でした。そこに復活のイエス様が現れ、「子たちよ」と呼びかけておられます。イエス様はいつも父なる神様と一つであられましたが、ここはまさにそのようなところです。

 

 「食べ物がない」そのことを確かめてから、イエス様は「舟の右側に網を下すよう」指示されます。彼らは従いました。神様の御業への参加方法は「イエス様のことばに従う」ということです。理解しきれず、信じ切れずにいる、その時にも「みことば通りにする」と、「主だ」と分かった弟子たちの姿があります。

イエス様は炭火を起こして待っておられました。パンも魚も食べるばかりになっています。火を囲んで、イエス様を囲んで、弟子たちはどんなに癒されたことでしょうか。イエス様が再臨なさるその時まで続ける象徴的な実体験である晩餐式を思い出させます。ご自分を差し出して、食べて、生きて欲しいとのイエス様の強い思いが伝わってきます。「さあ、来て、食べなさい」十字架の主は招いておられるのです。「命のパンであるわたしを食べれば、あなたがたは永遠にいきるのです」と。

 また黙示録3章のみ言葉も思い起こします。イエス様に心のドアを開いたら、共に時間を過ごすことを楽しむ時がやってきます。弟子たちは炭火を囲みながら、イエス様と食事をして、和解を受け取りました。イエス様の弟子であるという彼らの本来の立場が回復されるための時間となりました。

 

 信仰生活、教会生活には、礼拝と飲食が必要だということです。私たちは、イエス様に「子たちよ、食べるものがありませんね。」と心配して関わって頂ける存在です。その主の関わりの中で、私たちは「主だ!」とイエス様を確信するのです。弟子たちがバラバラにならずに一緒にいたように、主を愛する人たちとの交わりの中にいましょう。

2024年1月21日
目は燃え盛る炎

ヨハネ黙示録2章18-29節 三宅真嗣牧師

 イエス様に対するイメージとは言えば、幼子を抱き寄せる姿などを思い浮かべます。今日開かれたイエス様は、「目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている」(18)お姿をしています。ティアティラ教会へ語るイエス様のどんな性質が表われているでしょうか?

 

1.燃え盛る炎のような目を持つ方

 ティアティラは工業の町であり、主要幹線道路とつながっていたので、貿易で栄えた豊かな町でした。ティアティラ教会は、最初よりもますます互いに愛する愛が深まってゆき、熱心に奉仕をし、生き生きしていた教会でした。ところが、偶像礼拝を持ち込む「イゼベルという女のすることを大目に見ている。」(20)ことが問題とされました。愛情が深くて、お行儀が良くて、忍耐強い場合、悪いことをしている人がいても、厳しく指摘できないことがあるのかもしれません。霊的姦淫をそのままにしたことで、内部から腐食が始まり、崩壊の危機がありました。イエス様は燃え盛る炎の目で教会を見つめ、教会が崩壊しないように、検察官のような立場で、取り扱うべき罪を明らかにしています。

 

2.しんちゅうの足で立つ神の子

 ティアティラを時代区分で言うなら、中世の教会を表します。その時代、ローマ教皇が絶対的な権威を持つようになり、暗黒時代と言われています。教皇をイザベルに例えて解釈するなら、その教えに従う者たちを「女の子供たち」とする比喩的な言い方で断罪しています。富が教会に集まり、教会の建物は大聖堂で、立派でしたが、教皇の声は、聖書のみ言葉より権威があるとされる間違いが行われました。ティアティラという言葉は、「継続された犠牲」という意味があります。「この女の教えを受け入れないあなたがたに別の重荷(犠牲)を負わせない。」(24)とあります。イエス様は、しんちゅうの足で立ち、裁判官のような立場で、権威をもって裁いてくださるお方です。

2024年1月14日
まだまだ広がる主の天幕

マルコの福音書16章15-18節 三宅友子副牧師

1.イエスを信じる者が広げていく

 神様は「天幕を広げる」ことを人類の歴史全てを通して実行なさってきました。最初はアブラハムを選び、イスラエル民族を通して、神様ご自身を世界に現わしておられました。そして直接イエス様が来られて、父なる神様をお伝えになりました。その後もクリスチャンを通して、教会を通して、神様の国を広めていこうとしておられます。伝道は、救いか裁きかを分ける働きですが、裁きの宣告によって「そうだったのか!」と気づくことにもなります。なんとかして、どうにかして、信じる方向へ、救われる方向へと導こうとされている主の思いがあります。

 

2.伝道にしるしが伴う

 イエス様は弟子たちが伝道していく時にしるしが伴うと約束されました。しるしによって、復活されたイエス様が生きて確かにご支配されていると肌で感じることができます。

人間に影響を与える霊の中には「悪い霊」と「良い霊」があります。イエス様だけを主と告白するのは「良い霊」であり、自分自身や他のものを神とするのは「悪い霊」です。悪い霊に支配されている人はそこからの解放が必要です。伝道現場では様々なことが起こります。青葉教会で馴染みのあるものは「病の癒しのためにお祈りする」ことです。主の癒しは現代も生きて働かれる神への信仰を呼び起こします。

 

 ぜひ、誰かに神様を伝えようとする時に、必要であれば主の癒しを祈ってもいいか尋ねてみましょう。もし心を開いてくだされば、その場で手を置いてお祈りしてください。それは主のみこころです。私たちはこれからも主の天幕を広げていきます。それが使徒言行録時代からの変わらない教会の使命です。主は共に働いて、私たちが語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになります。主は「わたしは復活して今も生きている神である」と告げたいのです。

2024年1月7日
真夜中の賛美

使徒言行録16章16-34節 三宅真嗣牧師

 聖書は、私たちに語り掛けている重要なテーマがあります。それは神の国に生きることです。今日、開かれた聖書箇所にも神の国が表されていますが、パウロとシラスはどのような行動をしたのでしょうか?

 

1.神の国を求める

 パウロたち宣教チームは、小アジアから海を渡り、フィリピにて伝道を開始しました。そこで、トラブルに巻き込まれ、当局に捕らえられました。鞭打たれ、足に木の足枷をはめられ、暗い牢に入れられました。いつ釈放されるか分からないし、明日、死刑になるかもしれない状況でした。通常なら、もだえ苦しみ、不平不満が口から出てくるはずです。ところが、パウロたちは次のように行動しました。「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」(25)いちばん奥の牢の空間が、神の国になり、主の平安と喜びを感じる場所になりました。神は見えませんが、今も生きておられます。その方に賛美を捧げ祈ることを通して神の国を求めることの大切さを聖書は語ります。

 

2.神の国を共に味わう

 人間には感情とは違う霊の領域があり、賛美によって霊が喜びに満たされるという経験をすることができます。牢の囚人たちは、暗闇の中で不思議な感覚、光や温かさを感じたのかもしれません。すると突然、大地震が起こり、牢の戸が開き、すべての囚人の鎖も外れました。看守たちは囚人たちが脱獄したと勘違いし、絶望し、剣で自害しようとした時、パウロは大声で、「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」(28)と叫びました。そして、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(31)と諭しました。主を信じるということを通して、神の支配領域に入ることができ、平安と喜びを味わうことができるのです。教会は神の国を感じ、味わい、共有しております。

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