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2025年3月2日
共にいる神

ローマの信徒への手紙8章31-39節 根塚幸雄災害対策委員会委員長

 一昨年の1月1日、能登で大地震が発生しました。わたしは大きな衝撃を受けました。特に、自分以外の家族全員(奥様と子ども)が能登に帰省し家ごと崩れ家族全員が亡くなったというニュースを聞きショックを受けました。その後、悲惨な能登地域の光景と情報が知らされました。東日本大震災では、あと少しで家族の手に届かずに流されて亡くなった方、手はつないだが助けきれなかったなど、思い出しただけでも苦しくなります。災害でなくても病気や事故で家族や親しい友人を亡くす方もいる。世界を見れば、人間の作った武器によって一瞬で命を奪われる方もいる。なんて悲惨なのでしょう。その悲しみの中におられる方に懸ける言葉は出てきません。ただただ、主なる神の憐みと癒しがその方を癒し励まし立ち上がる力を与えられるのを祈るのみです。

 東日本大震災の時、連盟から金子千嘉世先生が福島と岩手の仮設の支援をしてくださっていました。神奈川連合からも仮設での奉仕にボランティアを派遣して私も参加しました。福島の教会の外で金子先生が土を採取していました。私も手伝おうとしたら、「来ちゃダメ」と厳しく怒られました。その土は放射線を測定するために定期的に金子先生が教会の周りの土を採取して、測定する機関に持って行っていたのでした。 金子先生は数年後、癌で主の元に召されました。夫と娘さんを残して。わたしは、あれをやり続けていなかったら死んでいなかったのにと思いました。金子先生は行く度に私に言いました。来てくれるのはとても嬉しい。「けれど神奈川にも大地震がきっと来るから、ちゃんと備えをしておきなさい」と。この言葉は、私が神奈川連合の災害対策委員会の一人として活動を続ける原動力になっています。被災して苦しむ人が出てほしくない。万が一、被災して苦しんでいる方、悲しんでいる方がいるなら何かの力になりたい。イエス様が自分を犠牲にしてまでわたしを愛してくださったのだから、わたしも何かの力になりたい。そう思うのです。

2025年2月23日
逃げ込むため

ヨシュア記20章1-6節 三宅真嗣牧師

 私たちは人生の中で苦しみを味わうことがあります。神は苦しみを負って生きる私たち人間とどう関わってくださるのでしょうか?神とはどんなお方でしょう?

 

1.不完全な私たちを憐れむ

 ヨシュアはモーセから引き継いだこととして、逃れの町を定めることがありました。申命記に書かれている具体的な例として、二人の人が森に行って木を切ろうとしていました。その時、斧の先端が柄から外れて飛んで行き、友人の頭にぶつかり殺してしまったなら、不注意ではあったかもしれませんが、故意ではなかったため、その犯罪者は逃れの町で生きることができます。過失については、どんな人でも犯してしまう可能性があります。「すべてのイスラエルの人々、ならびに、彼らのもとに寄留している者のために指定された町であり、過って人を殺したすべての者が逃げ込むための町である。」(9)異邦人でも奴隷でも適用され、逃れの町に入って保護されることになっています。失敗してしまう不完全な人間に対して、神は細やかな配慮をもって逃げる場所、生きる場所を作ってくださっています。

 

2.究極的救いを与える

 もし過失によって人を傷つけてしまった場合どうすればいいのでしょうか?クリスチャンの幸いは神に祈ることができることです。祈ったからといって、時計の針を戻すことはできませんが、万物の創造主であり、時間も空間も支配する全知全能なる神にゆだねることができるのです。さて、次のようにあります。「現職にある大祭司が死ぬまで、その者はその町にとどまらなければならない。その後、人を殺した者は自分の町、自分の家、自分が逃げ出して来た町に帰ることができる。」(6)大祭司であるイエス様が十字架で死んでくださり、私たちを赦し、本当の故郷である天国に導き、完全な救いをお与えくださるのです。

2025年2月16日
お金という賜物

第一テモテの手紙6章17-19節 三宅友子副牧師

 スチュワードシップ月間なので「経済と信仰」についてお伝えします。誘惑の多い社会の中で、欲望に負けずに、教会を建て上げているテモテたちへのパウロからの手紙からです。

1.「富」についての真理

 私たちは少なからず、「富」という賜物を神様から預かっています。イエス様は、お金持ちの青年を慈しんで、その目線を神に向けるよう促されました。信仰=禁欲主義だと勘違いする場合もありますが、神様を知れば知るほど、「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる父」であるという信頼が生まれます。富そのものを神とするのではなく、それらを与えてくださる神に望みを置くという積極的な信仰を持つことで、富そのものへの誘惑や傲慢さからも解放されるのです。私たちの手元にある金額は、一つの判断材料ではありますが、父なる神様のみこころであればどちらにしても必要のすべては与えられます。

2.「富」の用い方 スチュワードシップ

 お金という賜物を託された者は、「善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。」と命じられています。父なる神様が神の子どもたちをいつもケアしてくださるように、私たちは家族のために「富」を使います。そして、「良い行い」として、旅人や巡回伝道者をもてなすために「富」が託されていると手紙全体から教えられます。また、「真の命を得る」という未来のための「富の管理目的」も示されています。自分の信仰が保たれるために、しっかりと「富」を使いましょう。遠くに住む家族に神様を伝えるための旅費や、宣教師たちの支援など、クリスチャンだけができる、良い使い方です。青葉教会から宣教に出かける人々が起こされる場合、それは「富」を大いに用いるチャンスではないでしょうか。

 私たちは「お金があれば安心、なければ不安」という価値観を持ってしまっています。今後、個人的にも教会としても、もし経済的に不安になることがあれば、「お金は不確か、神様が確か」と告白してみましょう。そして、「お金という賜物」を託されている者として「真の命を得るために」富を用いていきましょう。

2025年2月9日
任務完了

ヨシュア記19章49-51節 三宅真嗣牧師

 仕事をするうえで、大切にしていることがあるでしょうか?さて、ヨシュアは高齢者になり、彼に与えられた使命の総仕上げの時期になりました。どんなことを大切にして使命を全うしたのでしょうか?

 

1.目的を明確にする

 約束の地カナン入植については、ヨシュアはモーセから受け継いだ働きでしたが、そもそもモーセはどのような使命を神から与えられたのでしょうか?神の目的は、イスラエルを礼拝の民とし、全世界のための祭司となって、とりなし祝福する国にするということでした。ヨシュアはその目的を引き継ぎ、イスラエル中央にあるシロという場所に会見の幕屋を設置しました。そこに神の臨在を表す契約の箱が置かれ、犠牲の捧げものがされ、モーセの律法が朗読され、神託がありました。シロの天幕の場所は神の御心を聞く場所であり、勝利の秘訣である信仰を強められてゆく場所でした。ヨシュアは決してブレたりすることがなく、神中心の国家を築くことをいつも念頭に置いていたのでした。

 

2.創造主の視点を持つ

 イスラエル十二部族に対する土地の割り当てがありました。彼らは同じイスラエル民族ですが、それぞれの部族には個性がありました。またイスラエルの国も、砂漠、山地、平原、海辺があり、暑かったり、寒かったり様々です。土地の配分には、一つ一つの部族に対する神の配慮がありました。ヨシュアはそのような創造主が人を高価で貴いと評価する同じ視点をもって、祭司エルアザルと一緒に、土地の割り当てという大きな仕事を成し遂げました。ところで、ヨシュアはどんな勲功を得たのでしょうか?彼が得たのは狭い山地であり、汗しながら開墾し、晩年を生きました。最後まで見事な締めくくりでした。創造主なる神の視点を持って、人を見、接してゆくヨシュアの仕事ぶりを聖書は模範として示しているのです。

2025年2月2日
開拓の心得

ヨシュア記17章14-18節 三宅真嗣牧師

 聖書で言うところの「幸いな人」とはどんな人なのでしょうか?さて、ヨシュアはヨセフ一族に土地の割り当てを行いました。私たちはヨセフ一族を反面教師として、幸いな人の生き方を学ぶことができます。彼らにどんな間違いがあったのでしょうか?

 

1.祝福に満足できない

 神の不思議な導きがあり、十二部族の中でエフライムがイスラエルの長となりました。ヨセフ一族であるエフライム族とマナセ族に与えられた土地は豊かな広い土地でした。ところが、彼らはそれに満足できず、ヨシュアに抗議しています。もっと多く欲しいとなると、他の部族の土地を奪うような形になり圧迫することになります。本来、長子の特権は周りの人を祝福するためにありますが、エフライムはそうしなかったばかりか、自分に与えられている祝福にも満足できませんでした。ところでクリスチャンとしての成熟度はどのように測ることができるでしょうか?その人が感謝に溢れた生活をしているかどうかに表れています。喜びと満足があり、神への感謝が口からあふれる人こそ成熟した人です。

 

2.受動的な態度

 ヨシュアは対応に苦慮したことと思います。プライドだけは高く、何もしようとしないヨセフ族に、頭ごなしに怒鳴るのでもなく、冷たくあしらうのではなく、あなたたちは数が多いというなら、森を切り開いて土地を広げたらいい。また主に従い、カナン人を追い出せばいい、と励ましています。ヨセフ族の問題は主の命令に対しても能動的でなかったことでした。「カナン人に苦役を課したが、追い出すことはできなかった。」(13)とあります。カナン人を労働力として利用するため自分のもとに留めていました。それがのちに、偶像礼拝をする切欠となり、信仰をどんどん弱らせてゆく結果となったのでした。御言葉に能動的にならなくなった途端、罪に対して無力になると聖書は警告しています。

2025年1月26日
祝福の泉

ヨシュア記15章13-19節 三宅真嗣牧師

 教会が主の御心に従って成長してゆくためにどうすればいいのでしょうか?今日の聖書箇所から将来に備えてすべき二つのことを学んでゆきましょう。

 

1.信仰の勇士を求める 

 カレブは「主が私と共にいてくださるなら、主が約束してくださったとおり、私が彼らを追い払います。」(14:12)と宣言した通り、次々と強敵を撃破してゆきました。その時、カレブは85歳を超えた高齢者であり、いくら壮健だからといっても、これから二十年、三十年、現役のまま前線で戦うことはできません。ユダ族が決められた相続地をしっかりと治めてゆくために、次世代を担うリーダーを発掘する必要がありました。そこで登場したのがオトニエルという人物でした。私たちの教会もまた、信仰の勇士たちによって支えられてきたし、今も多くの信仰の勇士たちが活躍しています。私たちが地上から去った後も、主の宣教を担ってゆく人材がいるなら、主の祝福はずっと続いてゆくのです。

 

2.根源的なものを求める

 ユダ族が治める地域の多くは砂漠地帯であり、水資源に不足していました。王族を輩出するユダ族が相続した地は悪条件の地であったということは不思議な神の摂理です。植物も生物も悪条件のもとで強く成長することができるのです。オトニエルはキルヤト・セフェルを討ち破って占領し、カレブの娘アクサを妻として迎えることになりました。土地があっても、水源がなければ作物は育たないため、アクサは何よりも泉を求めています。私たち教会にとって大切な真理が教えられています。とかく私たちは表面的なことばかり気になってしまいますが、教会にとって、何はなくとも必要なのはイエス様を求める心です。イエス様は私たちを潤す命の泉のようなお方であり、この方がおられる所に、癒しと回復があり、祝福があるのです。

2025年1月19日
やっぱり聖書

テモテへの手紙Ⅱ3章10-16節 三宅友子副牧師

 テモテへの手紙は、パウロが若い奉仕者に送った手紙です。後継者の一人であるテモテに伝えたい大切なことが書かれています。

 

 教会にとって困難な時期がやってくるのを感じ取りながら、若いリーダーにパウロが勧めたことは「聖書こそが、どの時代においても、教会を助ける」と言うことです。テモテはどう受け取ったでしょうか。「慣れ親しんできた聖書こそに留まれ」とさまざまな経験をしてきたパウロに明言されて励まされたのではないでしょうか。

 聖書は働き人、神に仕える人を整えるのです。どのような善い行いもできるように十分に整える力がみことばにはあります。この信仰が受け継がれて、教会は2000年間存続し続けました。迫害も通り、時代の波をかぶって揺れ動きましたが、聖書が教会にあったから、続きました。神に仕える人が消え去ることはありませんでした。

 パウロが「聖書」と言う時、もしかすると、手紙の読者の中には「また聖書?!」という反応があったかもしれません。もっと新しい力強く時代に合った格好いい指針を示してほしいと求める人々がいたかもしれませんが、パウロはやっぱり「聖書」と記しました。聖書はどのように人に影響を与えるのでしょうか。まず第一に「キリストへの信仰を通して救いに至る知恵を与え」ます。イエス様こそが救い主だというのは、聖書を読んではっきりする知恵です。最高の知恵です。そして、クリスチャンを教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。

 

 パウロもテモテも聖書を大切にして教会形成をしました。私たちも聖書を大切にして信仰生活、教会生活を送りましょう。神に仕える者として、「どうぞお語りください」と耳を傾け、ご自身の訓練のために、奉仕者としての整えのために、聖書を開いていきましょう。新しい年、聖書を読もうと決心される方はおられますか?パウロのように若い奉仕者に聖書の大切さを伝えたい方はおられますか?

2025年1月12日
​可能性

ヨシュア記14章6-15節 三宅真嗣牧師

 クリスチャンになって以来、物事の見方や捉え方にどのような変化があったでしょうか?さて、聖書はカレブを通して、信仰の素晴らしさを伝えています。どんな信仰を持っていたのでしょうか?

 

1.忠実

 かつてモーセがカナンに入る前、12部族から代表を偵察に送り出したことがありました。12人の中で10人は否定的な報告をし、ヨシュアとカレブは、神は私たちに約束通り地を受け継がせてくださると、肯定的に報告しました。神に逆らう民に神は怒りを発し、40年の荒野の旅の末、カナンに入ることをお許しになりませんでした。一方、神はカレブの信仰をお褒めになり、「主に従い通した」と評価しました。これは信仰の表われであり、真骨頂です。私たち人間はマジョリティの意見に引きずられてしまいやすく、主義主張を弱めたり、引っ込めたりすることがあります。40歳だったカレブはその時、思ったとおりに報告しており、大勢の意見に流されませんでした。カレブは信仰の人生において、神に対して忠実でした。

 

2.大胆

 カレブは40年の荒野の道を歩み、ヨルダン川を渡ってから5年間、カナン人との激しい戦いを経て、彼の信仰はますます大胆になってゆきました。「今日、私は八十五歳になりました。今日もなお、モーセが私を遣わした日のように健やかです。戦いのためであれ、日常の務めであれ、今の私の力は当時と同じです。(10-11)ヨシュアの反応は次のようです。「カレブを祝福し、ヘブロンを相続地として与えた。」(13)教会では、「先取りの信仰」という言葉を使います。私たちは、神に対して確信を抱き、すでに与えられたと信じて大胆に祈り求めることができ、神はその願いを実現させてくださいます。そのようにして、神の偉大さが褒め称えられ、人々が神に目を向けるようになるのです。

2025年1月5日
スタート

出エジプト記20 章8-11 節 三宅真嗣牧師

 クリスチャンにとってリフレッシュ方法の一つは礼拝を捧げることです。日曜日に礼拝を捧げることを「安息日を守る」と言いますが、どんな効果があるのでしょうか?

 

1.原点回帰

 今年、青葉教会は教会組織して30周年を迎えます。神がして下さった恵みを思い起こしながら、新たなスタートを切るための準備をしてゆく年となるよう願っています。さて、神様は天地を6日で創造し、7日目に休まれたと創世記に書いてあります。神が7日目に休まれたように、この日、人は安息の時を持つよう命じられています。神に愛され、価値ある者として創造されたことを覚えるため、原点に立ち返るべく安息の時を持っています。と申しますのは、私たちは、いつの間にか、元々の意味、目的、存在意義を見失ってしまうことがあるからです。イエス様の流された血によって死の災いが過ぎ去り、私たちは救われました。礼拝はセレブレーションであり、神救いを喜び、感謝をささげる時となっています。それは神の御心となっております。

 

2.祝福の体験

 イスラエル人はエジプトで奴隷であり、牛や馬などの家畜と同価値であり、用なしになった時点で殺されるような儚い存在なので、休むこと=恐怖になっていたかと思われます。今日本で生きる私たちにとって、仕事を休むことで誰かから鞭打たれることはないでしょうが、休むことが罪悪感になってしまう場合があります。神は私たちが神の最高傑作であり尊厳と価値ある存在であることを伝えるために、強制的に休むように命じました。宗教改革者カルヴァンは次のように言っています。「われわれのうちに主がみ業を行なわれるために、われわれ自身のもろもろの業をやめる。」私たちが手を休める時に、神が働かれ、祝福を注いでくださるのです。

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