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2025年6月29日
心の渇きを癒すイエスキリスト

ヨハネ福音書7章37-39節 氷川英俊神学生

 イエスは、水の祭りでもある仮庵の祭りの最終日で、祭りが最も盛り上がっている最中に、神殿の中で「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)と宣言しました。イエスは祭りの参加者たちに、本当に必要な物は水による潤いではなくイエスキリストを信じることによる心の潤いであると言われたのでした。これは事実上のメシア宣言とも言えます。水による喉の潤いは一時的なものですが、イエスキリストによる心の癒しは永遠に続く本当の潤いです。イエスキリストを信じれば誰でも心の渇きが癒されます。続けてイエスは「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる」(37)と言われました。イエスキリストを信じた者は、自分の心の渇きが癒されるだけでなく、周りに人の心の渇きも癒すのです。そして39節にはこれはイエスを信じた人々が受けようとしている霊について言われたと書かれています。イエスを信じることによって聖霊が与えられます。しかし自分が潤っていなければ他人を潤すことはできません。日々御言葉に接して心を潤わせておく必要があります。また、世の中には自分の心が渇いていることにさえ気付いていない人が多くいます。自分が本当に求めているものが何なのか気付かず、お金などを求めて生きている人が多くいます。また、渇きに気づいていても自分の力でどうにかなると思っている人も多くいます。そのような人がイエスのもとに来るのは簡単なことではありません。しかし心の潤いを保ちながら祈り続けることによって、その人の内から湧き出てきた聖霊が周りの人々に必ず働いてくださります。一人でも多くの人がイエスキリストのもとに来て、イエスキリストを救い主であると信じることができるように、皆様とともに祈っていきたいと思います。

2025年6月22日
清い心の幸い

マタイ福音書5章8節 三宅真嗣牧師

 この一週間の生活の中で、どんな願いを持ったでしょうか?欲しいものとして、物、お金、健康、教養、知識や技術など挙げられます。さて、イエス様は「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。」と語っておられます。清い心とは何でしょうか?

 

1.心の深い部分にある願い

 私たち人間は服装や髪型、容姿などの外見、社会的な肩書、年収など人が見える外側を良くしようとする欲求があります。聖書が常に問題にするのは、「外面」ではなく「内面」です。自分の心が汚れているという自覚があるなら、いつメッキが剥がれ正体がばれるのではないかという不安や緊張感があり、神が自分の本性を見ているとしたら、恥ずかしさ、みじめな気持ちも起こります。聖書によると、私たちはもともと神に似せて造られた尊厳ある存在であり、神の性質を身に着けていました。ところが、罪を犯した結果、神の性質を失ってしまいました。私たちは、心の深いところでは、神に立ち返り、失った心の清さを取り戻しいという願いがあるのではないでしょうか?それに気付いてゆくことが、主の弟子として生きる順当なステップです。

 

2.神の最大の関心事

 「人は目に映るところを見るが、私は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7)とあります。神は外側に見えるものではなく、見えない心に目を注いでおられるお方です。「神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」Ⅰテサロニケ4:3 しかし自分の努力や意思の力ではなかなか清い心を保つことが困難です。それを可能にする方法があります。聖霊が私たちの内に入って、私たちの心を清めてくださることです。清さは私たちと聖霊なる神との共同作業です。私たちが心を開いて、聖霊を求める時、聖霊が清めという御業を行ってくださるのです。神は清い心を求める者を喜び、向き合って下さいます。

2025年6月15日
町名+キリスト教会

使徒言行録11章19-30節 三宅友子副牧師

 今月末の信徒会を前に、聖書から地域教会のモデルを見てみましょう。

 

 アンティオケア教会は迫害にあって逃げて行った人たちが中心になって始まりました。また、殻を破ったからこそ形成されていった群れです。ユダヤ人以外には聖書の話はしなかったのに、新しくギリシャ人にも語り掛けたとあります。人間の歴史は繰り返すばかりですが、神様に導かれると新しいことが起こります。これまで神様の話をしたことのなかった方が、誰かに伝えるようになり、すぐそばの誰かのために手をおいてお祈りしてあげる、そういう出来事が起こってくるのです。

 エルサレム教会から遣わされたバルナバは、「揺るぎない心で主にとどめっているように」と、皆を励ましました。これはイエスさまが弟子たちに言われた「わたしの愛にとどまりなさい。」と重なります。そして、パウロと共に一年間、み言葉を教えました。そのうち、アンティオケア教会はエルサレム教会を物質面でサポートすることへと導かれました。数年後には、伝道旅行に中心人物を遣わすほどになり、聖書の中に名前の残る強い影響力のある教会となりました。しかし、そんなアンティオケア教会も今は存在していません。実は、使徒言行録に記されている教会は一つも残っていないというのです。地域教会というものは始まり、盛んになり、閉鎖したり、消滅したりします。役目が終わればなくなるのです。けれども、キリストへの信仰は広がり続け、受け継がれ続けてきました。地上がある限り続くのは、各地域教会ではなく、普遍的な教会です。永遠の御国へと導かれる時まで、キリストへの信仰の群れは続くのです。

 

 地域教会に属する私たちは、その存続のためにだけに、教会活動をするのではないのです。普遍的教会、キリストのからだ全体をご覧になっている神様に、私たちの人間関係、経験、賜物を用いて頂く、これから5年間のアイディアを頂いて、信徒会に集いましょう。

2025年6月8日
証印

エフェソ書1章11-14節 三宅真嗣牧師

 自分に対して否定的になることはないでしょうか?さて、聖書は神によるラブレターと言われています。神は私たちを愛するがゆえに、どんなことをしてくださったのでしょうか?

 

1.神を宿す者とする

 イエス様は天に帰る際、弟子たちに「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)という言葉を残しています。イエス様の心である聖霊なる神が私たちを宮として住んでくださるからであり、肉体では離れても、いつもイエス様と共にいることができるのです。私たちに霊的いのちを吹き込み、御言葉を悟らせ、素直な心を与え、信仰生活を生き生きさせるのが、聖霊の働きです。伝道することに困難さを覚えることないでしょうか?何十年、祈っても何の変化も見えないこともあり、ありえないスピードでその人が救い主を受け入れ、心が変えられてゆくこともあります。人の知恵や思惑、伝達技術と違う力が働いているとしか考えられないことがあります。聖霊は人々の心に働き、救い主を信じるよう導き、信仰生活を生き生きしたものに変えるのです。

 

2.神の栄光の器とする

 教会は目に見える地域教会と目に見えない天国まで続く関係の二つを意味しています。教会(エクレシア)は「呼び集められた者たち」という意味で、神が私たちを選んでくださったということが示されています。聖霊によって、愛において鍛えられ、聖徒として整えられ、イエス様の御心を表す情熱が与えられ、喜びを感じることができるのが、地域の教会でもあります。さて、私たちの命には意味と目的があり、神の栄光を褒め称えるために存在しています。芸術家は自分が生み出す作品によって、名を挙げます。神は私たちを神の最高傑作品として作ってくださり、愛の対象とされているだけでなく、私たちを通してご自身の栄光を輝かせてくださるのです。

2025年6月1日
憐れみの幸い

マタイ福音書5章7節 三宅真嗣牧師

 クリスチャンが身に着けてゆくべき性質とは何でしょうか?クリスチャンの性格は様々ですが、共通して身に着けてゆくべき性質があります。それが憐れみ深い者になることです。そのために、神はどんなことを私たちにしてくださったのでしょうか?

 

1.神の憐れみ

 「あわれみ」という言葉を国語辞典で調べると、「気の毒に思う」「かわいそうに思う」と書かれています。同情心、慈悲の心、親切心、優しさであるなら、クリスチャンでなくても、多くの人たちが持っている感情です。イエス様が示す「憐れみ」とは、自分の罪の重さを知ってこそ、身に着けることができる性質です。すべての人は罪人であり、神の義に到達できる人は一人もいません。しかし、イエス様は私たちの罪の身代わりとなり、十字架に架かり、一方的な恵みによって赦してくださいました。神は良い方であり、憐れみ深い方です。父なる神が私を憐れんでくださったという意識の中で、安心感を覚えることができ、人に対して憐れみの心で接することができるのです。

 

2.聖霊の助け

 ヘブライ語で言う「憐れみ」(ラハミーム)は「「子宮」と同意語となっています。お母さんにとって自分の胎から出たわが子への思いは特別なものであり、切るに切れない、いとおしさと思いやりが込められています。上下の関係ではなく一体した関係の中で交わされる感情です。しかしながら、元来、罪人である人間には、備わっていない崇高な感情であり、どんなに心を振り絞っても出てきません。まず神からその憐れみを頂かなければ、憐れみを人に示すこともできません。それを可能にするのが、聖霊の助けです。神は私たちに聖霊を注いでくださり、人間の努力や意思ではできなかったことを可能にしてくださいます。そして神は憐れみ深い者に、憐れみを示して下さるのです。

2025年5月25日
義を求める幸い

マタイ福音書5章6節 三宅真嗣牧師

 イエス様は義に飢え渇く人は幸いであり、不安、緊張、あせりもなく、究極的な安心感と満足があると約束しています。どのようにして満たされるのでしょうか?

 

1.イエス様の救いを信じる

 「義」という言葉の意味を辞書で調べてみると、「人のふみ行うべき正しい筋道」とあります。パウロは、人の行うべき正しい筋道が分かってはいても、その通りできない状態になっていることを告白しています。すべての人は神に対し罪を犯し、義において破綻している状態です。

さて、イエス様は次のように語っています。「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(5:20)律法学者やファリサイ派の人々は、自力で神が定めた義に到達しようと試みた人々です。彼らにまさるとは、イエス様の救いを信じることです。「キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマ8:2)とあります。イエス様によって律法の要求が満たされ、義とされるという恵みがあるのです。

 

2.イエス様と共に生きる

 イエス様の弟子の特徴は、義に飢え渇きを覚え、求め続けるということです。教会は病院に例えることができます。みんな罪という病気をもっていて、病院に集まっています。治療を施してくださるのは、名医と呼ばれるイエス様であり、どんな深刻な病気を抱えている人に対しても、匙を投げることなく、親身になって向き合ってくださいます。この地上にいる間、治療が施され、地上を去ってゆく時に、めでたく退院を迎え、その人なりの完成が与えられ天国に帰ることができるのです。イエス様の弟子として重要なのはイエス様と共に生きることであり、イエス様によって変えられ続けることにあります。

2025年5月18日
イエスが与えたいもの

ヨハネ福音書16章4-15節 三宅友子副牧師

 そもそも弟子たちはなぜ、ペンテコステを待つ気になったのでしょうか。それは前もってイエス様が聖霊について期待をさせたからです。

 

 この場面で、弟子たちは悲しみでいっぱいでした。イエス様は救い主として、その弟子たちの悲しみを受け止めつつも、それだけで終わらないお方です。救い主にしか与えることのできない新しい真実を告げられたのです!「助け主である聖霊が弟子たちのところに遣わされることは益である」と。

三位一体の神であられるから、人となられたイエス様と聖霊は同じ神です。同じご性質、方向性、関わり方をなさる方です。ただ聖霊は、肉体をお持ちではありません。この方がなさるのは、クリスチャンの心に宿ることです(内住)。霊であられる聖霊が心に住むことを通して、三位一体の神は共におられることを実現しておられます。

 内住される聖霊がなさるのは、イエス様が弟子たちになさったのと同じです。弟子たちの証しが弱められることがないように、証人としてついていてくださるのです。聖霊の満たしは、神の人格との関係に浸ることだと言えます。

そして、聖霊は、聖書に記されている真理に目が開かれるようにしてくださいます。「神の前での罪」に気づかせ、「キリストが神の義であられること」に気づかせ、「裁き主が既にサタンを裁かれたこと」を理解させるのです。

 これらは、ノンクリスチャンがイエス様を信じる時の助けであると同時に、クリスチャンが天国に行くまで続けられている聖霊の関わりです。地上でイエス様が語りつくせなかったことを、聖霊がすべて明らかにしてくださるのだから大丈夫なのです。信仰は、神様との信頼関係です。お互いに認めて、受け入れて、喜んでいる関係こそ、最大限にその力が発揮されます。あなたの悲しみに対して、「実を言うと、弁護者である聖霊に頼るのが一番です」とイエス様は語られるのではないでしょうか。

2025年5月11日
へりくだる幸い

マタイ福音書5章5節 三宅真嗣牧師

 クリスチャンになって以来、どんな心境の変化があるのでしょうか?よく言われることとして、「生きるのが楽になった」という意見があります。その秘訣として、へりくだるという姿勢を挙げることができます。どんな恵みがあるのでしょうか?

 

1.主の守り

 この地上において、最も重要とされるのが、パワーであり、自分を強くアピールするほどに、人に評価され、うまくいきやすいというのが、この地上の法則です。どうしてイエス様の言葉を実行して、幸いな人生を生きることができるのでしょうか?サウル王はダビデがどんどん戦果を挙げ、民衆からの人気が上昇してゆくのを見てねたみ、憎むようになり、殺害しようとしました。そして幾度となく、ダビデを殺そうとしても叶いませんでした。この地上で本当の権力を持っておられるのは、神です。神の御心に従えば、どんな敵からも、どんな困難からも守りがあると聖書は約束しているのです。神に信頼するゆえに、神の守りがあり、自分を過大に見せようとしなくても、自分を偽ってその場その場をやり過ごそうとしなくても、心穏やかに生きることができるわけです。 

 

2.主の祝福

 へりくだるという心の態度は、成長のプロセスの中で、身に着けてゆくことができると言えます。イエス様は弟子としての成長プロセスとして語ったことは、まず、心貧しくなり、自分が無力であることを知り、自分の罪に悲しむ者が、卑屈になるのではなく、正しい心の態度として神の御前でへりくだることができるようになるのです。神はへりくだる者を守り、祝福をお与えくださいます。クリスチャンになって以来、生きるのが楽になったという意見は、多くの人が体験しているからです。自分を守ることに必死になり、あくせくして食い扶持を求めなくても、神にへりくだる者に神は、豊かな祝福を備えてくださるのです。

2025年5月4日
悲しみの幸い

マタイ福音書5章4節 三宅真嗣牧師

 イエス様とはどんなお方でしょうか?親しみやすさもありますが、おそらく身近にいる弟子にとっては、驚きの人だったことでしょう。今日のみ言葉も驚きです。この言葉にどのような意味があるのでしょうか?

 

1.神に近づく

 どうして悲しむ人々が幸いなのでしょうか?「『悲しみを経験しない人々は幸いである』の間違いでは?」と思ってしまいます。イエス様が語ったこの「悲しみ」という言葉は、何となく、気持ちがブルーになる ふさぎこむ、気持ちが乗らない、だるさを感じるという意味の言葉ではなく、悲嘆に暮れ、絶望のどん底にいるような心の状態を意味する強い悲しみを表わしています。さて、みなさんがクリスチャンになる時、何かきっかけがあったのでしょうか? 神様は「悲しみ」という名のロープを使って、御許に引き寄せてくださることがあります。この地上に生きる者すべて、自分で解決しえないことを経験します。そんな時、私たちは神に向くようになるのです。神は悲しみを通し、私たちを御許に引き寄せてくださいます。

 

2.イエス様と心を一つにする

 私たちが覚えておきたいのは、イエス様は安全地帯におられて、人々が悲しみに遭い苦しんでいる姿を傍観しているのではなく、イエス様こそ悲しみの人だったことです。イエス様の生涯の最後にあったことは、人の罪を背負って十字架に架かり、神に罰せられたことです。ところで、もし、イエス様がこの悲しみの道を通ってくださらなかったら、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」という言葉も私たちの心に強く響かなかったのかもしれません。自分の悲しみ、痛みや孤独感を知っている人が寄り添ってくれることによって私たちは深い慰めを感じることができます。同時に、私たちも悲しみの人に寄り添い、イエス様の慰めを共有することができるのです。

2025年4月27日
貧しさの幸い

マタイ福音書5章3節 三宅真嗣牧師

 幸せについてどのようなイメージがあるでしょうか?イエス様は群衆に口を開いて語り出しました。それは幸せに関することでした。私たちを幸せに導こうとなさる神とはどんなお方でしょうか?

 

1.祝福で満たす神

 イエス様は「心の貧しい人々は幸いである。」(3)と語っておられます。それは、自分に足りなさを感じている人のことです。能力、知性、健康、品性においても、不足を感じている人は幸いであるという意味です。「どうしてそんな人は幸いなのか?」と疑問に思ってしまいます。反対に、心貧しくなれない場合、どうなるでしょうか?謙虚になって、周りの意見に耳を傾けることができず、人を非難するばかりで、自ら省みることができません。結果的に、いつも不満や緊張があり、心の満たしを得ることができないわけです。自分の弱さ、足りなさにとことん気付く時、人ははじめて、神に求めるようになります。人は心の空白が大きければ大きいほど、神に接近し、足りない分だけ、満たされるのです。心の貧しさを知り、神に求めることは、祝福の第一歩となります。神様は求める者を祝福し、心満たしてくださるお方です。

 

2.ご自分の民を守る神

 心の貧しい人々の幸いとは具体的にどんなことだろうか?「天の国はその人たちのものである。」(3)と約束されています。神の国とは、神の支配がある場所とか領域を意味します。私たちが福音を受け入れる以前、自分が中心であり、自分の価値判断で正しい、正しくないと決めていました。クリスチャンになって以来、神が中心であり、神の御心や価値観に従って、神の喜びが私の喜びとなり、神の悲しみが私の悲しみとなるような心で生きるようになりました。神と結ばれることで、すべてのことを自分で解決しなければならないという不安や焦りからも解放され、主に従いさえすれば大丈夫という安心感をもつことができるのです。

2025年4月20日
いのちの恵み

マタイ福音書28章1-10節 三宅友子副牧師

 イースターおめでとうございます。

 受難週でも語られましたが、キリストは誰よりも「死」の恐ろしさ、孤独さ、みじめさを体験されました。私たちの罪を身代わりに負い、その報酬である死を経験してくださいました。このような死を経験されてから復活されたキリストが、再会を約束されています。イエス様はどんな思いを込めておられたのでしょうか。「また会うことができる」のは「いのちの恵み」です。

 まず真っ先に墓にやってきた女性たちは、理屈では説明がつかないけれども、「私には救い主イエス様が必要!」そんな信仰を持っていたのでしょう。キリストは再会してくださいました。そして、「きょうだいたちにも会いたい」と伝えられました。自分を裏切り、見捨てていった愛弟子たちにも、再会を望まれるのです。このイエス様の愛、いかがでしょうか。キリストとの再会は、このように悪化した関係、裏切り、無理解でさえ乗り越えて、なされます。キリストの十字架と復活において罪が完全に解決されているからです。キリストがくださる「復活後のいのちの恵み」は、「神の前での再会の恵み」です。

 今のいのちが続くだけでは、課題は残ったままです。神様は「痛み」も「恐れ」もあるまま永遠に生きるよう導かれるのではなく、「復活のいのちの恵み」を用意してくださいました。イエス様は一粒の麦として死なれ、ご自分も私たちも復活できるようにしてくださった救い主です。そして、受け取る私たちも自分の我を明け渡し、神様の基準でやり直そうと、自分に死ぬことです。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。」キリストは信じる私たちに「復活のいのちの恵み」を生きるよう呼びかけておられるのです。新しいいのちを共に歩む救い主です。キリストはどれほどあなたと会いたいと願っておられることでしょうか。

2025年4月13日
栄光の姿

マルコ福音書15章33-41節 三宅真嗣牧師

 パウロは「この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」(ガラテヤ6:14)と語っています。私たちクリスチャンがイエス様の十字架を誇りとするのはなぜでしょうか? 

 

1.犠牲となる小羊の姿

 もし私たちが、イエス様の十字架の現場にいたとしたら、どのような行動をしていたでしょうか?私たちが抱えている罪の問題は自己中心と言うことです。積極的にイエス様を十字架につけることに加担しなくても、沈黙していたのかもしれません。神の子が十字架に付けられ、人々はイエス様に呪いの言葉、蔑み、憎しみ、怒りをぶつけました。あるいは沈黙することで積極的にイエス様の側に立つことができませんでした。私たちの犯している罪は、救い主を十字架に釘付けするほど血なまぐさい罪なのです。罪赦されるためには、救い主が十字架に架かり、血を流されなければなりませんでした。イエス様が黙って十字架に架かって死んでくださったことによって、救いの道を開いてくださったのです。

 

2.父なる神に叫ぶ姿

 人は最期を迎える時、本音が現れるものです。死を迎える時、自分の運命を嘆くのか、人に対する恨みが口から出てくるのか 心の中にあるものが溢れてきます。主イエスは十字架の上で、ご自分を傷つける人々に呪いの言葉を語らず、また、自分を裏切った弟子たちに怒りをぶつけ、文句を言ったわけでもありませんでした。さて、百人隊長は職業上、たくさんの死刑囚の最期を見てきました。神は人の目には見えませんが、イエス様は父なる神に向かって叫び、死にゆく姿を、百人隊長は見て、胸を打たれ「『まことに、この人は神の子だった』と言った。」(39) 私の罪のため イエスが身代わりとなり、父なる神に叫んでくださいました。まさに十字架のイエス様こそ、栄光の姿です。

2025年4月6日
慰めの香り

マルコ福音書14章3-9節 三宅真嗣牧師

 無駄に思えるようなことが後に、有益なものに変わったという経験はありますか?さて、一人の女性が登場し、イエス様に高価な香油を注いでいます。イエス様にとってどんな意味があったのでしょうか?

 

1.十字架に向かう孤独感を癒す

 女の行為に弟子たちは憤慨し、「何のために香油をこんなに無駄にするのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」(4-5)と言いました。常識的に考えるなら、弟子たちの意見はもっともであり、もっと賢い資産運用ができたはずというのが私たちの常識的考え方です。さて、この出来事があったのは、十字架に架かる直前でした。イエス様にとって苦しかったのは、十字架の出来事もありますが、それ以上に、身近にいる弟子たちが、自分の心を何も察することができず、理解してくれなかったことでした。ナルドのアロマオイルがインターネット販売されていて、以下のような効能が書かれていました。「心に静けさをもたらしてくれます。この世の中に常にある試練や苛立ち、苦悩から超越し、私たちに平和と落ち着きを与え、安定をもたらしてくれる香りです。」イエス様は深い孤独を感じながらも、ナルドの香りに慰められたのでした。

 

2.使命を全うするための決意を支える

 イエス様は弟子たちに事前にご自分の死を予告しており、その意味を伝えようとしていました。弟子たちは、この言葉の意味を理解できず、唯一この女だけが、イエス様から何かを感じ取っていたのかと思いますさて、弟子たちは、後にこの時の出来事を教会の人々に伝え、福音書という形で現存することとなりました。彼らはこの時、イエス様の孤独感も理解できず、使命を果たそうとするイエス様に寄り添うこともできなかったことを振り返りました。イエス様は罪の世に飛び込み、人々の罪の贖いのため十字架の道を歩んでくださったのでした。

2025年3月30日
何の神か

詩編77編14節 竹下公也氏

  私たちは毎日、いろいろな場面で「神」という言葉を聞きます。最近 わたしの耳にとまったのは、「神」アプリという言葉です。私のスマホで「神」アプリを検索すると、「神アプリ」というタイトルの漫画や、スマホに絶対入れたい定番アプリ、などが出てきます。また「マジ神」という言葉も聞いたことがありますが、これもスマホで調べてみると、ある介護専門会社の社内資格で、高い専門性を持っている介護士を指す言葉だそうです。神対応という言葉も聞きますが、これは想像を超えた良い対応を指す言葉のようです。このように私たちは「神」という言葉をよく使い、聞きますが、もちろん神社に祀られた日本の神々に対しても使いますが、日常を超えた対象や、すごく良いものに対しても「神」という言葉を使っているようです。

 一方、キリスト教の神はどのようなお方でしょうか?詩編77編14節には「主の御業を思い起こし、昔からの奇跡を思う」とあります。ここに現れる神は、歴史を通して具体的に働かれ、人間との関係の中でご自身を示されるお方です。この神は人格を持つ存在であり、私たち一人一人を愛しておられます。自然や物理的な力を超越し、私たちと契約を結び、救いを提供されるお方です。この違いを考えるとき、私たちが信じる神がどれほどユニークな存在かが見えてきます。 詩編77編15節には、「あなたは奇しき業を行われる。」と書かれています。ここで語られる「奇しき業」とは何でしょうか?それは神が人間の歴史に介入し、救いと回復をもたらす力の現れです。この詩編が旧約時代の出来事を指している一方で、私たちは新約聖書を通して、最も偉大な神の奇跡であるキリストの復活を知っています。

  レントの期間は、私たちがキリストの十字架と復活を待ち望む時です。復活は単なる歴史的な出来事ではなく、神の力が完全に示された瞬間です。この力は、私たち一人一人の人生に直接関係があります。復活を信じる信仰は、私たちが困難や試練の中にあっても希望を持ち続ける力となります。私たちの神が何者であるかを改めて考え、信仰の中で希望を新たにしましょう。

2025年3月23日
二つの道

ヨシュア記24章14-15節 三宅真嗣牧師

 「自立する」「自立を促す」とはどのようなことなのでしょうか?さて、ヨシュアは最晩年を迎え、世を去る時が来たことを感じ、人々に別れのメッセージを伝えています。大切なことを二つ学びましょう。

 

1.主の恵みを思い出す

 聖書に登場する人物の生涯を見てゆく時、すべての人が最後まで純粋な信仰を貫いたというわけではないということに気付きます。ある学者によると、信仰者が最後まで立派に走りぬいてゴールを切ったのは、3人に1人の割合だそうです。その点から考えるなら、ヨシュアは見事なまでに、信仰を貫き、ゴールテープを切った生涯でした。彼はイスラエルの民のことを思い、自分が地上から去ったあと、イスラエルの民がしっかり自立して、人に頼るのではなく、浅はかな知恵によらず、富や軍備によらず、神に頼るべきことを伝えています。民を集め、遺言として語ったのが、神がどれほど私たちを憐れみ助けてくださったかの出来事の話でした。最後まで信仰を貫くことができるための重要なポイントは主の恵みを思い出すということです。

 

2.主に仕えることを選ぶ

 ヨシュアは、「あなたがたが仕えようと思うものを今日、選ぶがよい。しかし、私と私の家は主に仕える。」(14-15)と語っています。突き放すような言い方であり、冷たく感じるかもしれません。しかし、イスラエルの民は機械ではなく、自由意志を持った高貴な存在として認めているがゆえに、選択しなさいと語っているわけです。聖書には「己の腹を神としている」(フィリピ3:19)という表現があります。これは自分の欲望に従って生きているという意味であり、私たちは何かに依存する体質があり、何かの奴隷になりやすい存在です。ヨシュアは神に仕えて、自由な者となり、幸いな道を選びなさいと語っています。イエス様こそ救い主であり、私たちはこの方に仕えることを喜ぶことができるのです。

2025年3月16日
途上のイエスに

途上のイエスに」マタイによる福音書10章35-52節 三宅友子副牧師

 レントの期間、何より大切なのは、イエス様が十字架と復活に向かっておられたことを覚えることです。受難告知の後のイエス様のご様子を見てみましょう。

 

1.偉くなりたい弟子たち

 最初はすべてを捨てて従った弟子たちですが、そのうち、仲間内で誰が偉いかということが気になってしまいます。私たちも「この関係に神様に導いてくださった!」と感動しながら、関係を始めたにも関わらず、様々な思いが湧いてくることがあります。信仰においては、先頭を行かれるのはどこまでもイエス様です。そして、全ての場面、全ての環境で、私たちは信仰によって歩んでいるキリストの弟子です。まずイエス様に仕え、そして皆に仕える者です。祈りを忘れて、自分の思い通りに事を運ぼうとしないように気をつけましょう。結婚生活、家庭生活、教会の、そして、地域も、国も、世界の先頭も「十字架」と「復活」を成し遂げられたイエス様が歩いておられるのではないでしょうか。

 

2.癒してほしいバルティマイ

 イエス様の歩みの途上に、次に現れたバルティマイにイエス様は立ち止まられます。上着を脱ぎ捨て、躍り上がって、近づく彼に、「何をしてほしいのか」と尋ねられました。弟子たちにも仰ったあの言葉です。ご自身のことを、どんなふうに受け止めているのか、イエス様に何を期待して近づいてきたのか、それを言葉にするよう引き出されます。「十字架」と「復活」の方向に弟子たちを巻き込み、群衆を巻き込み、バルティマイも巻き込んでいかれるイエス様です。

 

 様々なレントの過ごし方があります。それぞれのイエス様への願いや表現があります。それをどう受け止めるか決めるのは、神様です。今、イエス様に「何をしてほしいのか」と言われたら、あなたは何と言いますか?そして、主はどんなやりとりをしてくださるのでしょうか。

2025年3月9日
ことごとく成就

ヨシュア記21章41-45節 三宅真嗣牧師

 クリスチャンになって、どんな変化があり、どんな感覚があったでしょうか?神が私たちにどんな恵みをお与えになるのでしょうか?

 

1.使命を与える

 ヨシュア記は、戦いの歴史であり、イスラエル2がカナン人を打ち負かし、滅ぼすことが記述されています。これは弱肉強食の世界を描いたわけではなく、神がカナンの罪が極みに達したことを見届け、イスラエルを神の道具として用いて、裁きを下したという内幕がありました。そして、イスラエルが神の用いられたもう一つの理由は、世界を祝福するためです。イスラエル民族が神の祝福を世界に広げてゆく器として整えるためレビ人が神の奉仕をすることになりました。さて、私たちそれぞれに、そして私たち教会に神は使命をお与えになっておられます。私たちが生き、活動しているのは神の祝福を広げてゆくためにあるのです。

 

2.のろいを祝福に変える

 そもそもレビ族の最初の人レビとはどういう人だったのでしょうか?ヤコブとレアの間に産まれた3番目の息子であり、この人物は素行の悪い人でした。ある場所の有力者の息子シェケムが、レビの妹ディナを犯し辱めました。シェケムはディナと結婚することを求めたところ、レビはある計略をめぐらし、兄のシメオンと共に剣を取り、土地の人々を襲い、殺害し、町にあるものを略奪しました。彼らは怒りに任せ、徹底的な報復攻撃をしてしまったのでした。父ヤコブはレビとシメオンに「私は彼らをヤコブの中に分け/イスラエルの中に散らす。」(創世記49:7)と預言しています。さてカナン定住の時、レビ族は一つに固まるのではなく、方々に散って、神様の働きをすることになりました。栄誉あることであり、神によって呪いが祝福に変わったことによります。私たちクリスチャンもまた、呪いのもとに生きていましたが、イエス様の十字架によって逆転劇が起こり、人を生かし、祝福する者に変えられたのです

2025年3月2日
共にいる神

ローマの信徒への手紙8章31-39節 根塚幸雄災害対策委員会委員長

 一昨年の1月1日、能登で大地震が発生しました。わたしは大きな衝撃を受けました。特に、自分以外の家族全員(奥様と子ども)が能登に帰省し家ごと崩れ家族全員が亡くなったというニュースを聞きショックを受けました。その後、悲惨な能登地域の光景と情報が知らされました。東日本大震災では、あと少しで家族の手に届かずに流されて亡くなった方、手はつないだが助けきれなかったなど、思い出しただけでも苦しくなります。災害でなくても病気や事故で家族や親しい友人を亡くす方もいる。世界を見れば、人間の作った武器によって一瞬で命を奪われる方もいる。なんて悲惨なのでしょう。その悲しみの中におられる方に懸ける言葉は出てきません。ただただ、主なる神の憐みと癒しがその方を癒し励まし立ち上がる力を与えられるのを祈るのみです。

 東日本大震災の時、連盟から金子千嘉世先生が福島と岩手の仮設の支援をしてくださっていました。神奈川連合からも仮設での奉仕にボランティアを派遣して私も参加しました。福島の教会の外で金子先生が土を採取していました。私も手伝おうとしたら、「来ちゃダメ」と厳しく怒られました。その土は放射線を測定するために定期的に金子先生が教会の周りの土を採取して、測定する機関に持って行っていたのでした。 金子先生は数年後、癌で主の元に召されました。夫と娘さんを残して。わたしは、あれをやり続けていなかったら死んでいなかったのにと思いました。金子先生は行く度に私に言いました。来てくれるのはとても嬉しい。「けれど神奈川にも大地震がきっと来るから、ちゃんと備えをしておきなさい」と。この言葉は、私が神奈川連合の災害対策委員会の一人として活動を続ける原動力になっています。被災して苦しむ人が出てほしくない。万が一、被災して苦しんでいる方、悲しんでいる方がいるなら何かの力になりたい。イエス様が自分を犠牲にしてまでわたしを愛してくださったのだから、わたしも何かの力になりたい。そう思うのです。

2025年2月23日
逃げ込むため

ヨシュア記20章1-6節 三宅真嗣牧師

 私たちは人生の中で苦しみを味わうことがあります。神は苦しみを負って生きる私たち人間とどう関わってくださるのでしょうか?神とはどんなお方でしょう?

 

1.不完全な私たちを憐れむ

 ヨシュアはモーセから引き継いだこととして、逃れの町を定めることがありました。申命記に書かれている具体的な例として、二人の人が森に行って木を切ろうとしていました。その時、斧の先端が柄から外れて飛んで行き、友人の頭にぶつかり殺してしまったなら、不注意ではあったかもしれませんが、故意ではなかったため、その犯罪者は逃れの町で生きることができます。過失については、どんな人でも犯してしまう可能性があります。「すべてのイスラエルの人々、ならびに、彼らのもとに寄留している者のために指定された町であり、過って人を殺したすべての者が逃げ込むための町である。」(9)異邦人でも奴隷でも適用され、逃れの町に入って保護されることになっています。失敗してしまう不完全な人間に対して、神は細やかな配慮をもって逃げる場所、生きる場所を作ってくださっています。

 

2.究極的救いを与える

 もし過失によって人を傷つけてしまった場合どうすればいいのでしょうか?クリスチャンの幸いは神に祈ることができることです。祈ったからといって、時計の針を戻すことはできませんが、万物の創造主であり、時間も空間も支配する全知全能なる神にゆだねることができるのです。さて、次のようにあります。「現職にある大祭司が死ぬまで、その者はその町にとどまらなければならない。その後、人を殺した者は自分の町、自分の家、自分が逃げ出して来た町に帰ることができる。」(6)大祭司であるイエス様が十字架で死んでくださり、私たちを赦し、本当の故郷である天国に導き、完全な救いをお与えくださるのです。

2025年2月16日
お金という賜物

第一テモテの手紙6章17-19節 三宅友子副牧師

 スチュワードシップ月間なので「経済と信仰」についてお伝えします。誘惑の多い社会の中で、欲望に負けずに、教会を建て上げているテモテたちへのパウロからの手紙からです。

1.「富」についての真理

 私たちは少なからず、「富」という賜物を神様から預かっています。イエス様は、お金持ちの青年を慈しんで、その目線を神に向けるよう促されました。信仰=禁欲主義だと勘違いする場合もありますが、神様を知れば知るほど、「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる父」であるという信頼が生まれます。富そのものを神とするのではなく、それらを与えてくださる神に望みを置くという積極的な信仰を持つことで、富そのものへの誘惑や傲慢さからも解放されるのです。私たちの手元にある金額は、一つの判断材料ではありますが、父なる神様のみこころであればどちらにしても必要のすべては与えられます。

2.「富」の用い方 スチュワードシップ

 お金という賜物を託された者は、「善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。」と命じられています。父なる神様が神の子どもたちをいつもケアしてくださるように、私たちは家族のために「富」を使います。そして、「良い行い」として、旅人や巡回伝道者をもてなすために「富」が託されていると手紙全体から教えられます。また、「真の命を得る」という未来のための「富の管理目的」も示されています。自分の信仰が保たれるために、しっかりと「富」を使いましょう。遠くに住む家族に神様を伝えるための旅費や、宣教師たちの支援など、クリスチャンだけができる、良い使い方です。青葉教会から宣教に出かける人々が起こされる場合、それは「富」を大いに用いるチャンスではないでしょうか。

 私たちは「お金があれば安心、なければ不安」という価値観を持ってしまっています。今後、個人的にも教会としても、もし経済的に不安になることがあれば、「お金は不確か、神様が確か」と告白してみましょう。そして、「お金という賜物」を託されている者として「真の命を得るために」富を用いていきましょう。

2025年2月9日
任務完了

ヨシュア記19章49-51節 三宅真嗣牧師

 仕事をするうえで、大切にしていることがあるでしょうか?さて、ヨシュアは高齢者になり、彼に与えられた使命の総仕上げの時期になりました。どんなことを大切にして使命を全うしたのでしょうか?

 

1.目的を明確にする

 約束の地カナン入植については、ヨシュアはモーセから受け継いだ働きでしたが、そもそもモーセはどのような使命を神から与えられたのでしょうか?神の目的は、イスラエルを礼拝の民とし、全世界のための祭司となって、とりなし祝福する国にするということでした。ヨシュアはその目的を引き継ぎ、イスラエル中央にあるシロという場所に会見の幕屋を設置しました。そこに神の臨在を表す契約の箱が置かれ、犠牲の捧げものがされ、モーセの律法が朗読され、神託がありました。シロの天幕の場所は神の御心を聞く場所であり、勝利の秘訣である信仰を強められてゆく場所でした。ヨシュアは決してブレたりすることがなく、神中心の国家を築くことをいつも念頭に置いていたのでした。

 

2.創造主の視点を持つ

 イスラエル十二部族に対する土地の割り当てがありました。彼らは同じイスラエル民族ですが、それぞれの部族には個性がありました。またイスラエルの国も、砂漠、山地、平原、海辺があり、暑かったり、寒かったり様々です。土地の配分には、一つ一つの部族に対する神の配慮がありました。ヨシュアはそのような創造主が人を高価で貴いと評価する同じ視点をもって、祭司エルアザルと一緒に、土地の割り当てという大きな仕事を成し遂げました。ところで、ヨシュアはどんな勲功を得たのでしょうか?彼が得たのは狭い山地であり、汗しながら開墾し、晩年を生きました。最後まで見事な締めくくりでした。創造主なる神の視点を持って、人を見、接してゆくヨシュアの仕事ぶりを聖書は模範として示しているのです。

2025年2月2日
開拓の心得

ヨシュア記17章14-18節 三宅真嗣牧師

 聖書で言うところの「幸いな人」とはどんな人なのでしょうか?さて、ヨシュアはヨセフ一族に土地の割り当てを行いました。私たちはヨセフ一族を反面教師として、幸いな人の生き方を学ぶことができます。彼らにどんな間違いがあったのでしょうか?

 

1.祝福に満足できない

 神の不思議な導きがあり、十二部族の中でエフライムがイスラエルの長となりました。ヨセフ一族であるエフライム族とマナセ族に与えられた土地は豊かな広い土地でした。ところが、彼らはそれに満足できず、ヨシュアに抗議しています。もっと多く欲しいとなると、他の部族の土地を奪うような形になり圧迫することになります。本来、長子の特権は周りの人を祝福するためにありますが、エフライムはそうしなかったばかりか、自分に与えられている祝福にも満足できませんでした。ところでクリスチャンとしての成熟度はどのように測ることができるでしょうか?その人が感謝に溢れた生活をしているかどうかに表れています。喜びと満足があり、神への感謝が口からあふれる人こそ成熟した人です。

 

2.受動的な態度

 ヨシュアは対応に苦慮したことと思います。プライドだけは高く、何もしようとしないヨセフ族に、頭ごなしに怒鳴るのでもなく、冷たくあしらうのではなく、あなたたちは数が多いというなら、森を切り開いて土地を広げたらいい。また主に従い、カナン人を追い出せばいい、と励ましています。ヨセフ族の問題は主の命令に対しても能動的でなかったことでした。「カナン人に苦役を課したが、追い出すことはできなかった。」(13)とあります。カナン人を労働力として利用するため自分のもとに留めていました。それがのちに、偶像礼拝をする切欠となり、信仰をどんどん弱らせてゆく結果となったのでした。御言葉に能動的にならなくなった途端、罪に対して無力になると聖書は警告しています。

2025年1月26日
祝福の泉

ヨシュア記15章13-19節 三宅真嗣牧師

 教会が主の御心に従って成長してゆくためにどうすればいいのでしょうか?今日の聖書箇所から将来に備えてすべき二つのことを学んでゆきましょう。

 

1.信仰の勇士を求める 

 カレブは「主が私と共にいてくださるなら、主が約束してくださったとおり、私が彼らを追い払います。」(14:12)と宣言した通り、次々と強敵を撃破してゆきました。その時、カレブは85歳を超えた高齢者であり、いくら壮健だからといっても、これから二十年、三十年、現役のまま前線で戦うことはできません。ユダ族が決められた相続地をしっかりと治めてゆくために、次世代を担うリーダーを発掘する必要がありました。そこで登場したのがオトニエルという人物でした。私たちの教会もまた、信仰の勇士たちによって支えられてきたし、今も多くの信仰の勇士たちが活躍しています。私たちが地上から去った後も、主の宣教を担ってゆく人材がいるなら、主の祝福はずっと続いてゆくのです。

 

2.根源的なものを求める

 ユダ族が治める地域の多くは砂漠地帯であり、水資源に不足していました。王族を輩出するユダ族が相続した地は悪条件の地であったということは不思議な神の摂理です。植物も生物も悪条件のもとで強く成長することができるのです。オトニエルはキルヤト・セフェルを討ち破って占領し、カレブの娘アクサを妻として迎えることになりました。土地があっても、水源がなければ作物は育たないため、アクサは何よりも泉を求めています。私たち教会にとって大切な真理が教えられています。とかく私たちは表面的なことばかり気になってしまいますが、教会にとって、何はなくとも必要なのはイエス様を求める心です。イエス様は私たちを潤す命の泉のようなお方であり、この方がおられる所に、癒しと回復があり、祝福があるのです。

2025年1月19日
やっぱり聖書

テモテへの手紙Ⅱ3章10-16節 三宅友子副牧師

 テモテへの手紙は、パウロが若い奉仕者に送った手紙です。後継者の一人であるテモテに伝えたい大切なことが書かれています。

 

 教会にとって困難な時期がやってくるのを感じ取りながら、若いリーダーにパウロが勧めたことは「聖書こそが、どの時代においても、教会を助ける」と言うことです。テモテはどう受け取ったでしょうか。「慣れ親しんできた聖書こそに留まれ」とさまざまな経験をしてきたパウロに明言されて励まされたのではないでしょうか。

 聖書は働き人、神に仕える人を整えるのです。どのような善い行いもできるように十分に整える力がみことばにはあります。この信仰が受け継がれて、教会は2000年間存続し続けました。迫害も通り、時代の波をかぶって揺れ動きましたが、聖書が教会にあったから、続きました。神に仕える人が消え去ることはありませんでした。

 パウロが「聖書」と言う時、もしかすると、手紙の読者の中には「また聖書?!」という反応があったかもしれません。もっと新しい力強く時代に合った格好いい指針を示してほしいと求める人々がいたかもしれませんが、パウロはやっぱり「聖書」と記しました。聖書はどのように人に影響を与えるのでしょうか。まず第一に「キリストへの信仰を通して救いに至る知恵を与え」ます。イエス様こそが救い主だというのは、聖書を読んではっきりする知恵です。最高の知恵です。そして、クリスチャンを教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。

 

 パウロもテモテも聖書を大切にして教会形成をしました。私たちも聖書を大切にして信仰生活、教会生活を送りましょう。神に仕える者として、「どうぞお語りください」と耳を傾け、ご自身の訓練のために、奉仕者としての整えのために、聖書を開いていきましょう。新しい年、聖書を読もうと決心される方はおられますか?パウロのように若い奉仕者に聖書の大切さを伝えたい方はおられますか?

2025年1月12日
​可能性

ヨシュア記14章6-15節 三宅真嗣牧師

 クリスチャンになって以来、物事の見方や捉え方にどのような変化があったでしょうか?さて、聖書はカレブを通して、信仰の素晴らしさを伝えています。どんな信仰を持っていたのでしょうか?

 

1.忠実

 かつてモーセがカナンに入る前、12部族から代表を偵察に送り出したことがありました。12人の中で10人は否定的な報告をし、ヨシュアとカレブは、神は私たちに約束通り地を受け継がせてくださると、肯定的に報告しました。神に逆らう民に神は怒りを発し、40年の荒野の旅の末、カナンに入ることをお許しになりませんでした。一方、神はカレブの信仰をお褒めになり、「主に従い通した」と評価しました。これは信仰の表われであり、真骨頂です。私たち人間はマジョリティの意見に引きずられてしまいやすく、主義主張を弱めたり、引っ込めたりすることがあります。40歳だったカレブはその時、思ったとおりに報告しており、大勢の意見に流されませんでした。カレブは信仰の人生において、神に対して忠実でした。

 

2.大胆

 カレブは40年の荒野の道を歩み、ヨルダン川を渡ってから5年間、カナン人との激しい戦いを経て、彼の信仰はますます大胆になってゆきました。「今日、私は八十五歳になりました。今日もなお、モーセが私を遣わした日のように健やかです。戦いのためであれ、日常の務めであれ、今の私の力は当時と同じです。(10-11)ヨシュアの反応は次のようです。「カレブを祝福し、ヘブロンを相続地として与えた。」(13)教会では、「先取りの信仰」という言葉を使います。私たちは、神に対して確信を抱き、すでに与えられたと信じて大胆に祈り求めることができ、神はその願いを実現させてくださいます。そのようにして、神の偉大さが褒め称えられ、人々が神に目を向けるようになるのです。

2025年1月5日
再スタート

出エジプト記20 章8-11 節 三宅真嗣牧師

 クリスチャンにとってリフレッシュ方法の一つは礼拝を捧げることです。日曜日に礼拝を捧げることを「安息日を守る」と言いますが、どんな効果があるのでしょうか?

 

1.原点回帰

 今年、青葉教会は教会組織して30周年を迎えます。神がして下さった恵みを思い起こしながら、新たなスタートを切るための準備をしてゆく年となるよう願っています。さて、神様は天地を6日で創造し、7日目に休まれたと創世記に書いてあります。神が7日目に休まれたように、この日、人は安息の時を持つよう命じられています。神に愛され、価値ある者として創造されたことを覚えるため、原点に立ち返るべく安息の時を持っています。と申しますのは、私たちは、いつの間にか、元々の意味、目的、存在意義を見失ってしまうことがあるからです。イエス様の流された血によって死の災いが過ぎ去り、私たちは救われました。礼拝はセレブレーションであり、神救いを喜び、感謝をささげる時となっています。それは神の御心となっております。

 

2.祝福の体験

 イスラエル人はエジプトで奴隷であり、牛や馬などの家畜と同価値であり、用なしになった時点で殺されるような儚い存在なので、休むこと=恐怖になっていたかと思われます。今日本で生きる私たちにとって、仕事を休むことで誰かから鞭打たれることはないでしょうが、休むことが罪悪感になってしまう場合があります。神は私たちが神の最高傑作であり尊厳と価値ある存在であることを伝えるために、強制的に休むように命じました。宗教改革者カルヴァンは次のように言っています。「われわれのうちに主がみ業を行なわれるために、われわれ自身のもろもろの業をやめる。」私たちが手を休める時に、神が働かれ、祝福を注いでくださるのです。

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