top of page
2026年3月8日
私である

ヨハネ福音書18章1-11節 三宅真嗣牧師

 十字架に架かり、三日目に復活されたイエス様とはどんなお方なのでしょうか?どうして私たちはこの方を信頼し、救い主として信じることができるのでしょうか?

 

1.何もかも知っておられる方

 イエス様は弟子たちと最後の食事をし、彼らを励ましてから一緒に出かけて行きました。園に入ると、そこへ松明や灯や武器をもった大勢のローマ兵がやって来ました。イエス様は絶体絶命に陥ったということなのでしょうか?「イエスはご自分の身に起こることを何もかも知っておられ、」(4)ました。イエス様はこの後、逮捕、裁判、十字架刑があることを知っていながら、あえて自ら進んで行動しています。イエス様は一人一人のことを知っておられ、私たちの人生の最初から最後までご存じであり、全知全能なる神として、導いておられます。ヨハネ福音書は二千年間、神の言葉として読み継がれていますが、今なお、迫害下にあるクリスチャンたちはイエス様の言葉に励まされています。「体は殺しても命を殺すことができない者どもを恐れるな。」(マタイ10:28)とあります。すべてを知っておられるイエス様を信頼し、安心感を得ることができるのです。

 

2.「私はある」という方

 ヨハネ福音書の特徴は、イエス様が神であることを強烈に表していることです。敵対者たちを前にしてイエス様は「『私である』と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。」(6) 神様にはお名前があり、モーセに自己紹介しておられます。「私はいる、という者である。」(出エジプト3:13) その意味は「あらゆる存在の根源」ということであり、そのように自己紹介できるのは神様しかおられません。ところでキリスト教へのこんな疑問があります。「なぜ二千年も前に十字架上で死んだキリストが、私たちの救いに有効なのですか?」 時間的空間的な隔たりもあり、十字架と私たちは何の関係もないように感じてしまいます。時間と空間を超越して存在しておられるのが神であり、あらゆる存在の根源なる方が私たちに呼びかけて下さっております。聖書は、その方に信頼することで、救われると語っているのです。

2026年3月1日
約束の地

創世記23章1-20節 三宅真嗣牧師

 「信仰」と聞くとどんなイメージを抱きますか?世間では、科学的な根拠がないのに、やみくもに信じているというイメージがあるかもしれません。さて、アブラハムの言動が記されてる最後の章は土地の売買契約をしたという話です。神に従ってきた彼は、どんなゴールを目指していたのでしょうか?

 

1.死を架け橋に到達する地

 「アブラハムはサラのところへ行き、その死を悼んで泣いた。」(2)原語によるとアブラハムは声を出して泣いたということです。キリスト教信仰はマインドコントロールではないということが、信仰の父アブラハムが豊かな感情を持っていたことから分かります。彼が取得のため行動した唯一の土地は墓地でした。次のようにあります。「あなたがたは、つかの間現れ、やがては消えてゆく霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生きて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」(ヤコブ4:14-15) すべては主の御心次第であり、使命があれば生き、終われば天国に帰るというのがクリスチャンの人生観です。お墓は洞窟とありますが、墓に入る穴は天国の入り口であると理解することができます。アブラハムはサラの死を悼みましたが、死を通して、神の御許に帰るという信仰を持ち、墓地を購入したのでした。

 

2.本当の故郷である天の御国

 アブラハムは社会常識を持っており、正当な順序を踏んで墓地を購入しています。土地の所有者エフロンから銀400シェケルという法外な値段が提示されましたが、アブラハムはのちに非難や問題が起こらないよう公明正大に購入することになりました。この世の価値観を持つ人々の場合、死んだら終わりと考え、生きている間に、できるだけ多くを稼ぎ、楽しさを味わいたいと思うものですが、アブラハムはそうではありませんでした。「彼らはさらにまさった故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。事実、神は、彼らのために都を用意しておられたのです。(へブル11:16)アブラハムは一貫して御国を目指し、その信仰と約束に生きるスタイルを貫いてきた人物であり、神は恵みによって生きたアブラハムに永遠の都を用意しておられるのです。

2026年2月22日
恵みの備え

創世記22章1-20節 三宅真嗣牧師

 「お金持ちにならなくても、健康で、家族仲良く暮らせればそれで十分です。」そんな幸福感を多くの人は抱いているでしょう。逆に言うなら、苦しみや悲しみに遭いさえしなければ、十分幸せを感じることができます。さて、アブラハムは井戸を手に入れ、神に礼拝を捧げ、幸せを感じていたはずです。そんな折、神はアブラハムに試練をお与えになったのですが、彼はどのように受け止め、神への信仰を表わしたのでしょうか?

 

1.大切なものを捧げる

 神様は「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして私が示す一つの山で、彼を焼き尽くすいけにえとして献げなさい。」(2)と語られました。アブラハムにとって、息子イサクは将来のすべてであり、神の約束実現に欠かせない要素でした。未来があってこそ、過去や現在を犠牲にすることもできますが、もしそれを失ったら、すべてが空しくなるのではないでしょうか?モリヤの山は、エルサレムの神殿の場所にあり、救い主イエス様が神の小羊として献げられた地でもありました。神様の要求は、横暴に思われますが、神は独り子イエス様を捧げることの悲しみを友であるアブラハムと共有したいとお感じになったのかもしれません。アブラハムは父なる神と同じ思いの中で、最も大切な息子を捧げることとなりました。

 

2.最後まで従いきる

 イサクから「焼き尽くすいけにえにする小羊はどこですか」(7)と尋ねられた時、アブラハムは心えぐられるような痛みを感じたことでしょう。対する答えは「神ご自身が備えてくださる」(8)でした。どんな時も、神は私たちの必要を満たし、助け、祝福を備えて下さいます。人生にどんなことが起こるのか私たち人間には知りえないことばかりですが、むしろ将来が何も見えないから、神様に頼り、御声を聞いて従ってゆくことができます。アブラハムが最後まで従いきったように、父なる神は、御子イエスキリストを私たちのために捧げきって下さいました。イエス様の十字架上での叫び、「わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?」(マルコ15:34)と、私たちのために苦しみ、愛を示してくださいました。

2026年2月15日
使えば使うほど

マタイによる福音書25章14-30節 三宅友子副牧師

 このタラントのたとえ話は「スチュワードシップ月間」にはよく読まれています。スチュワードシップは「天の国」の事柄だということです。天の国はこの地上にいる間から既に始まっている永遠の御国のことです。イエス様のご支配が及ぶ国のことです。このたとえ話に登場する主人は神様のこと、イエス様のこと、僕たちは主の弟子である私たちです。

 

 さて、青葉教会という群れにも主は豊かな豊かなタラントを預けておられます。何か一つのイベントをし終わった時、青葉教会ってすごいなあとお互い感心しますね。これら全てを神様が預けてくださったということですから、父なる神様は決してケチではありません。使えば使うほど、豊かにしてくださるということを私たちは実感しています。そして、イエス様のご支配が及ぶところは教会だけではありません。誰ともかかわらずに、あなたの賜物がもし土の中に埋まっているとしたら、主人を悲しませることになってしまいます。

 たとえ話の僕たちの働きの結果、最も報いを受け取ったのは誰でしょうか?戻ってきたご主人です。もともとお金は主人のものでしたから、倍になったものは主人の手に返すのです。これはスチュワードシップでとても重要なポイントです。「賜物を使いましょう!」というだけではなく、誰のために使うのかということです。教会の中ではもちろん「主のため」に奉仕をします。けれども、家庭においても、地域においても、職場においても、あなたの働きが「主のため」につながっていることをご存じでしたか?祈りも賛美も、奉仕も献金も、イエス様が受け取ってくださることこそが重要なのです。

イエス様は良い方です。永遠の国でさえ、この地上のことを覚えていてくださり、「わたしの名のために良くやった」と報いてくださるのです。

「思いがけない時に戻ってこられる主人」への用意をしましょう。「主に報告する時を楽しみに」用意をされていますか?

 

 私たちは預かったすべてのものを、青葉教会のためだけではなく、キリストの教会という全体のために差し出しましょう。社会の価値観や、儲けが目的の商売をするのとは違う視点で、ご自身の賜物を差し出していきましょう。あなたの賜物は使えば使うほど、主人であるイエス様の喜びとなるのです。

2026年2月8日
誓いの井戸

創世記21章22-34節 三宅真嗣牧師

 人生最後に家族に言葉を残すとしたら何を語るでしょうか?墓標に刻まれる文字で一番多いのが、「感謝」だそうです。さて、アブラハムは生まれ故郷を離れ、寄留者として過ごしてきましたが、何を大切にしてきたのでしょうか? 

 

1.臨在を求める

 「臨在」とは見えない神がおられ、私たちの傍らにいてくださるという意味です。ところでアブラハムが人生の中で、幾度か命の危機を感じたことがありました。その際、アブラハムを助けたのは、彼の知恵、財産、仲間ではなく、神様の介入があったからでした。彼自身、そのことを感じ、臨在こそ大切とし、祭壇を築き、肝に銘じたのでした。そして、アブラハムに向き合った者たちも、彼の背後には神がおられるということを感じざるを得ませんでした。「アビメレクと将軍ピコルはアブラハムに言った。『あなたが何をなさっても、神はあなたと共におられます。』」(22) 政治的にも軍事的にも優位に立つアビメレクが将軍を伴い、礼節を尽くしてアブラハムと友好関係を結ぶためにやってきました。とても不思議な光景ですが、神の臨在がいかに力強いものであるかが分かります。「主我らと共におられる」と呼ばれる神が私たちに力を与え、守ってくださるのです。

 

2.主の名を呼ぶ

 アブラハムが寄留者として苦労したのは、水の問題があり、大半が砂漠地帯であるパレスチナで生きるために水の確保が絶対必須でした。アブラハムは苦労して、井戸を掘り当て喜んでいたところ、先住民族がやって来て、井戸を奪われてしまいました。そこで、アブラハムのアビメレクに抗議をし、快く返還されることになりました。ところで、神がもともとアブラハムに約束した土地は見渡す限りの地でしたが、25年経ってようやく手に入れたのは、井戸一つでした。もし私だったら、「もっとスピード感を持って、次々と約束を果たしてください。」 と不満を神様に申し上げるかもしれません。ところが、アブラハムは「一本のタマリスクの木を植え、そこで永遠の神、主の名を呼んだ。」(33) とあります。聖書はアブラハムを通して、どんな時も誓いを果たしてくださる主の御名を呼ぶことの大切さを伝えているのです。

2026年2月1日
泣き声を聞かれ

創世記21章8-21節 三宅真嗣牧師

 どんな場面で悩むでしょうか?病気や老化現象、仕事上のことなど様々ですが、やはり、一番身近にいる人間関係、特に家族間の感情のもつれによる悩みはより深いかと思います。アブラハムの家族間でいざこざが起こってしまいました。神はどのように関わってくださったのでしょうか?

 

1.神は人の悩みを担う

 妻サラは、女奴隷のハガルによって子どもを儲けることを提案し、思惑通り、アブラハムとの間にイシュマエルが産まれました。アブラハムにとって大きな喜びとなりましたが、14年後、サラがイサクを産むと、家庭内に不穏な空気が漂い始めました。イサクが3歳となり、乳離れの日に盛大な祝いが開催されました。サラはイシュマエルがイサクをからかう様子を見て、このまま放っておいたらとんでもないことが起こってしまうと想像したのか、サラはアブラハムに「この女奴隷とその子を追い出してください。」と言いますと、アブラハムの悩みが始まってゆきました。神は、この世は過ぎ去るので、家庭問題など気にするな!とは仰っていません。家庭の悩みに関しても、神が介入して下さり、頭を抱えていたアブラハムに寄り添っておられます。信仰者に与えられた恵みは、一人で悩まなくても良いことであり、神の導きがあることです。

 

2.神は祝福に目を向けさせる

 ハガルとその息子イシュマエルは、アブラハムの天幕から離れて旅立ちましたが、突然、母と少年が荒野に放り出されたようなものでした。「革袋の水がなくなると、彼女は子どもを一本の灌木の下に行かせ、自分は矢の届くほど離れた所に行き、彼の方を向いて座った。子どもが死ぬのを見るのは忍びないと思ったからである。彼女は彼の方を向いて座り、声を上げて泣いた。」(15-16)とあります。聖書中、最も切なさを感じる場面の一つです。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子どもの泣き声を聞かれた。」(18) 神は世の中で弱さを感じ、生きる難しさを感じるような小さな者たちに心を寄せ、助けるお方です。さて、その後、神は二人を、楽園に連れて行ったと書いていません。しかし、神は荒野で彼らを養っておられます。神は生活の現場にいる私たちに語り掛け、祝福し、養ってくださるのです。

2026年1月25日
約束

創世記21章1-7節 三宅真嗣牧師

 「信頼できる人」とはどういう人でしょうか? AIによると、「小さな約束でも必ず守る」とあります。さて、私たちはどうして聖書の神を神としているのでしょうか?やはり、約束を守り、有言実行の神だからです。私たちはアブラハムの妻サラを通して、神の誠実さを知ることができます。

 

1.サラを心にとどめ気にかける

 世間では宗教とは精神世界のことを扱っており、心の安らぎをもたらす、悪く言うなら、気休めに過ぎないというイメージを持たれますが、聖書の神は現実世界に生きる私たちに語り、実行なさるお方であることが示されています。さて、長い人類歴史の中で、お世継ぎの問題は大きく、妻が子を産まない場合、悪く言うなら、舅姑、親戚一族から役立たずと見なされることがありました。確かにサラは多くの財産を持つアブラハムの正妻ですが、お世継ぎを産むこともなく、弱さを感じ、心傷つく人生を送っていました。神は弱いサラに寄り添い、顧み、赤ちゃんを与えました。神は私という小さな者においても、顧みて下さっていることを覚えてゆきたいものです。私たちの日常は、上手くいったり、行かなかったりですが、そんな私たちに神は心を寄せて、最善を図り、良きことをしてくださる方なのです。

 

2.サラに喜びの笑いをお与えになる

 90歳のサラが100歳のアブラハムの子を産んだという出来事をどう受け止めたらいいのでしょうか?ある牧師は次のように書いています。「多くの人々は奇跡を反自然と考えています。しかし、自然界の法則が停止したり、破壊されたりするのではなく、それを超えた超自然的な力が働く時、奇跡は起こります。それは全能の神のある目的遂行のためになされるものです。その目的とは人間の救いです。救いという目的に向かっての神の特別な御業なのです。」(尾山令仁著)イサクの話は私たちの救いに関係していることです。その子孫に救い主なるイエス様がお産まれになり、十字架の贖いによって救いの門を開いて下さいました。神は同様に私たちに対しても、ご計画をお持ちであり、時を定め、救いの喜びをお与えくださいます。神は私の心の中にある自分に対するネガティブなイメージを取り除き、笑いを与えてくださるのです。

2026年1月18日
聖書に心があらわれる

詩編19篇8-14節 三宅友子副牧師

 「今年こそは聖書を読もう」と決心された方もおられるでしょうか?み言葉がどれほど素晴らしく、慕い求めるに値するか、確認しておきましょう。

 

1.聖書に神様の心が現れている

 三位一体の神はただひとりの神です。父なる神、子なる神、聖霊なる神は完全に一致しておられます。発せられるみ言葉と神ご自身も一つです。私たちは神様ではありません。このお方は私たちとは全く違う存在です。ですから、神の心である聖書も私たちの心と一致するものではありません。「当然」と思えないことも、私たちが欲しないことも書かれています。聖書を開く時、み言葉を読み、み言葉に生きたいと思う時、まず「これは神様の言葉なのだ」としっかりと意識することが必要です。聖書には神様の心が現れています!

 

2.聖書に私たちの心が洗われる

 聖書を読むということは、私たちの心を神の御前に置くことです。罪に気づけるというのが、読者への報いです。知らずに犯した過ち、隠れた罪、本人は思い込んでしまって「悪いことをしている」とさえ思いつかないようなものです。「傲慢」になっている人は、本人の自覚があまりありません。むしろ、それが正しいと思っています。自分中心、あるいは他人の評価基準が基礎となってしまうのが、私たちです。でも、み言葉を前にすると神様中心なので、そのずれに気付けるのです。聖書を読み、み言葉を黙想する時、何か心のうちを探られるように感じることがありませんか?隠れたものをあらわにして、解き放つという作業を、聖霊なる神がみ言葉によってなさるからです。

 

 イエス様を罪からの救い主として信じた時、神の子どもであるという立場は完全に瞬時に与えられました。そこから、私たちはイエス様に似た者へ成長していくという過程を歩んでいます。神様は今年もこの聖書を与えて、私たちを全き者としようとされています。この神様に同意されていますか?

聖書を読むというのは、人生の歩みの中で岩を見つけた時のようです。道が示され、守られ、隠れたことがあらわになって、救い出されます、口を大きくあけて、みことばによって心を洗って頂きましょう。

2026年1月11日
わたしにはできる

フィリピ書4章13節  鉄井三千夫先生

 霊的な経験をすると、今までの考え方が大きく変わり、全く新しくなります。ずっと持っていた人生への考え方や態度が突然、今までとは全く違う考えと生きていく動機に支配され始めます。

 

 私たちは小さい頃から自分の道は自分で切り開けと言われてきていて、誰かに頼るのは弱い者のすることだからそうしないようにと教育されてきました。しかし、私たちにはどうしようもない限界があります。できないこともたくさんあります。もし今あなたのそばに全知全能の方がおられたら、その方に頼るのに何か問題があるでしょうか。でも私たちの心にはそのような存在を認めたくないという思いもどこかにあるようです。

 

 私は以前AAというアルコール中毒患者を救う団体と働いたことがあります。アルコール中毒患者の行動は頑固な自我、そして自己中心による極端な暴走の結果であると言われています。彼らには何よりもまず、頑固な自分本位の考えを捨て去らなければならないと話をします。しかし神の助けなしには、自分を捨て去ることなどもちろんできません。だから神の助けが必要なのです。神を自分の主とすることが必要なのです。

 

 深い恨みを抱いて過ごす人生、あるいは不満を抱いて生きる人生には、空しさ、不幸以外に行き着くところがありません。もしあなたに神にすべてを委ねる心があれば、神はその手の中で、あなたの暗い過去をあなたの最大の資産とし、他の人に生命と幸福を約束する鍵としてくださいます。私が目にした最初の聖書の言葉にはこう書かれていました。I can do all things through Christ which strengthens me (KIV).

 

 このフィリピの信徒への手紙の中でパウロはどのような境遇の中でも自分は生きていけると書いています。彼はキリスト者を迫害する者でした。その彼が復活したキリストと出会いました。その霊的な体験が彼を全く違うキリストを伝える人物へと変えました。

2026年1月4日
同じ轍    

創世記20章1-18節 三宅真嗣牧師

 同じ失敗を繰り返してしまうことはないでしょうか?さて、信仰の父アブラハムもまた人間であり、私たちと同じように失敗を繰り返していることが分かります。この出来事からどんなことが示されているのでしょうか?

 

1.人は失敗を犯す

 アブラハムの人生を見てゆく時、さすが信仰の父だと思う場面もあり、どうしてこんなことをしてしまったの?とあきれてしまう場面もあります。アブラハムは、ソドムの町が滅ぼされた後、西に移動し、ゲラルという場所にたどり着きました。彼はエジプトでの失敗を繰り返すように、妻サラを自分の妹として偽って自己保身に走ってしまいました。アビメレクはサラを召し入れることになると、その夜、神が夢の中に現われ、強制的にストップをかけることになりました。アブラハムは100歳となり、約束の子イサクが与えられるという重要な出来事が起ころうとしていたタイミングでした。技術においては円熟期がありますが、罪に関しては、地上にいる限り、人は簡単に犯してしまうということが分かります。聖書はその事実を伝え、人は地上にいる間、不完全な者であることを伝えています。

 

2.神は回復を与える

 聖書は一つの原則があることを伝えています。神に頼ると成功するが、自分に頼ると失敗するということです。彼は自分の知恵に頼ろうとした時、神の導きを見失い、失敗してしまいました。いずれにしても、「主は、アブラハムの妻サラの件で、アビメレクの家の女たちの胎をすべて堅く閉ざしておられた」(18)ました。ゲラルの出生率は一時的に、0になってしまいました。どんなに富があり、高度な文明があり、強い軍隊があっても、半世紀子どもが産まれなかったら、その民族は確実に滅びてしまいます。命の創造は神様の御業であり、祝福です。さて、神様はゲラルの人々を回復するため、アビメレクに次にように語っています。「彼は預言者であるから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。」(7)神が欠点のあるアブラハムをお用いになるなら、イエス様の祈りはどれほど効果があるでしょうか。私たちは大祭司であるイエス様によって、癒され、究極的な回復が与えられるのです。

© 2023 by COMMUNITY CHURCH. Proudly created with Wix.com

bottom of page