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2026年5月24日
転換

使徒言行録3章1-10節 三宅真嗣牧師

 良い薬と良くない薬の違いは何でしょうか?簡単に一言で言うなら、良く効くかどうかではないでしょうか?どれだけ効能書きが立派でも、実際に、悪化している状態が改善しないなら、良い薬と言えません。さて、教会の設立者であり、私たちを導く聖霊なる神とはどのようなお方なのでしょうか?二千年前、実際に起こった出来事から、学んでゆきましょう。

 

1.人の期待を超えた恵みを与える

 人々に施しを求めるため、神殿の門のところに運ばれ、置いてもらっていた生まれながら足の不自由な男がいました。生きてゆくために人に施しを求めているだけで、それ以上、何の望みもなく、受動的に毎日を過ごしていました。私たちは物乞いをしたことはないかと思いますが、時間と空間という限界の中生きているということには変わりません。現実の世界の中で、希望や夢がどんどんしぼみ、無気力になってしまうことがあります。ペトロは男に言いました。「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(6) すると、くるぶしに力が入り、足全体がバネにようになって、躍り上がり、立って歩き回り、踊り出しました。聖霊によるものであり、人間の能力を超えて、人々の心に働きかけ、くじけそうになる心を強め、弱った部分を強くし、立ち上がらせることを可能にするのです。

 

2.神に栄光を現わす者への転換

 病人の本当の悩みは、病気による痛みや体の不調ではなく、孤独感、将来を見通せない閉塞感にあります。その男は体の解放だけではなく、心の解放があり、喜びが湧き上がり、賛美をしながら境内に入って行きました。今現在、たとえ体の不調があったとしても神が私を愛しておられることを体験するなら、自然に賛美が口からあふれ、喜びが湧き上がってくるはずです。聖霊によって触れられるなら、人は絶対に変わることができるというのが私たち教会の確信です。イエス様の名には、人々を満たすあらゆる祝福が詰まっており、その名によって、喜び、平安、愛、力、希望を受けることができるのです。

2026年5月17日
将来のために

ヨハネ福音書16章4b-15節 三宅友子副牧師

 3年半の間、弟子たちと一緒に過ごされたイエス様は、まだ十字架に架かられる前に、弟子たちの将来的な働きをイメージして語られました。タイミングを見極めながら、言葉を選んで、語ってくださっています。私たちにも、全てをご存じの神様が、ちょうど良い分をくださいます。私たち自身が神様のそのような関わりを沢山経験しておけば、誰かに関わる時も羊飼いなる神様と歩調を合わせることができます。

 

 イエス様は弟子たちが将来、伝道する時に、「罪について」「義について」「裁きについて」伝えることになると知っておられました。そして、伝えるけれども、なかなか分かってもらえないということも知っておられました。私たちなら、どんな解決策を思い浮かべるでしょうか?①プロの伝道師に会う機会を作る。②教会に集いやすいイベントを用意する。③言葉ではなく、態度で伝える。などでしょうか。イエス様は将来の弟子たちに必要なのは「もう一人の助け主」だと、この時語られました。イエス様の準備は周到です。神様のご計画は完璧です。皆さんが、家族に伝えたいなら、聖霊の助けが必要です。友人、知人に伝えたいなら、弁護者の働きが必要です。

 罪について、義について、さばきについてとは、Ⅰテモテに出てきた「秘儀」ですね。まさにイエス様が救い主であるというミステリーであって、そのことを人に明らかにされるのは助け主聖霊だということです。教会の信仰告白にも含まれている事柄です。私たちはこの信仰を励まし合うために、見えないものを明らかにし続けるために、教会に集っています。そして、もちろんイエス様が思い描いておられたように、新しい方々、家族、友人にこの3つのことが明らかにされていくのです。

 

 私たちはイエス様が思い描かれた将来という時におります。クリスチャンには皆聖霊がうちに住んでおられます。この方こそが、神様が共にいるということを実体験させてくださるお方です。ペンテコステの前の週、信仰のために、伝道のために、弟子たちのように聖霊を待ち望む1週間を過ごしてまいりましょう。

2026年5月10日
結びの縁

マタイ福音書5章27-32節 三宅真嗣牧師

 結婚という言葉を聞いて、どんなイメージを抱きますか?暖かさと明るさ、家庭を築いてゆく力強さ、一方、お互いに年を重ねてゆく寂しさ、死別の悲しみなど様々です。さて、神は結婚を特別で重要な関係であることを示しておられます。イエス様は結婚についてどんなことを語っているのでしょうか?

 

1.自己中心という罪を持った者同士

 神は最初の人アダムとその妻エバとの関係を喜び、尊び、結婚制度を大切にしました。しかし本来素晴らしい関係でしたが、悪魔の攻撃対象でもあり、性の混乱が地上世界に顕著に表れています。浮気や不倫があり、多くの人が悩み、心の痛みや不安定さを抱えてしまいます。創世記によると、人が罪を犯し、地上に罪の呪いが始まってゆく時、神はエバにこう語っています。「あなたは夫を求め、夫はあなたを治める。」(創世記3:16) 求めるとは「夫が大好き」というロマンティックなものではなく、夫に対して願望や期待を向けることであり、強い支配欲という意味として理解できます。しかし一方の夫は、さらに強い力で、女を押さえつけ、横暴に支配するようになるということです。自分の心の中にある罪の現実であり、罪の呪いであるとイエス様は語っておられます。

 

2.お互いに目や腕のような大切な存在

 聖書は男尊女卑の思想があると誤解されることがありますが、国家的リーダーであるモーセは、女が家畜や道具のように捨てられることのないように、女性の人権を守るために、正当な理由なしに、家から追い出してはいけないと語っています。私たちの心に、罪の本質である自己中心があるので、妻や夫に対して、「ちゃんとした妻であるなら」「立派な夫であるなら」そうあるべき、すべきと人を支配しようとします。たとえ信仰歴が長くても、罪の性質は結婚生活の中でいろいろ現われるので、何となくモヤモヤがあるのかと思います。しかし私たちが、ハッキリ言えることは、私のためにイエス様が十字架に架かって死んでくださったということです。イエス様の持っている愛に倣い、私たちも一番身近にいる人を愛するように導かれているのです。

2026年5月3日
アンガーマネジメント

マタイ福音書5章21-26節 三宅真嗣牧師

 みなさんは、自分の感情をコントロールすることができるでしょうか?どんな人でも心を治めることは困難です。さて、イエス様は山上に集まった人々に、神の教えについて語っています。どんな教えだったのでしょうか?

 

1.心にある罪にまで掘り下げる

 十戒に、「汝、殺すなかれ」という戒めがあり、イスラエル国家の屋台骨となる大切な教えでした。ところが、時間の経過とともに、ユダヤ教の教師たちが、これを解説し始め、それがタルムードとして聖典となり、神の律法より権威あるものとなってしまいました。「人を殺した者は裁きを受ける」という人の教えは表面化したものだけを裁けばいいと解釈されてしまいます。イエス様は、人の心にある誰かに対する憎しみやさげすむ心にこそ問題があるとしています。実際に人に手を出したわけではなく、汚い言葉をぶつけただけであっても、その人はゲヘナの火に投げ込まれるとイエス様は語り、心の中にある自己中心という罪にまで掘り下げるよう命じておられます。

 

2.罪悪感をそのままにしない

 怒りは人間の自然な感情であり、生きている限り怒りを感じるものですが、怒りに振り回されて人生を台無しにしてはいけないと一般的に言われるところです。日曜日の朝、礼拝に来る前に、自分に恨みを抱いている人と仲直りしなさいとイエス様は語ります。「自分が恨みを抱いている人」ではなく「自分に恨みを抱いている人」とあります。すなわち、自分がその人を傷つけ、苦しめ、損害を与えてしまったという自覚がある場合、そして、その人に対して、そのまま何もせず、謝罪の気持ちも伝えていないのなら、礼拝する前に、その人に「ごめんなさい」と謝ってきなさいということです。私たちは神様が喜ばれることをし、悲しまれることを是正するように導かれています。「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。」(ローマ12:1)人と人との間に神様を置いてゆくことで、私たちは感情をマネージメントしながら、幸せに生きることができるのです。

2026年4月26日
完成するため

マタイ福音書5章17-20節 三宅真嗣牧師

 新しいものが登場すると古いものは不要になり、捨ててしまうことがあります。イエス様は律法なんて古臭いルールはいらないと言ったのではなく「完成するために」(17)に来たと仰っています。律法にどんな益があるのでしょうか?

 

1.イエス様を深く知る

 「律法と預言者」という言葉がありますが、これは旧約聖書全体を示しています。ところで、皆さんは、旧約の神は恐ろしい裁きの神で、新約になると優しい神になるというイメージを持っておられるかもしれません。旧約聖書は分厚い書物で、その中で、長々と書かれている系図、儀式についての細かいルール、また刑法が書かれており、現代に生きる私たちにはあまり関係のない話のように感じてしまいます。しかしこんなことが言えるのではないでしょうか?系図が書かれていることで、聖書の話はファンタジーではなく、リアルな話しであること、また律法を定める神には感情があり、意思があり、人々への関心があることが分かります。また会見の幕屋(のちの神殿)は、やがて来るべきメシアのひな型に過ぎず、イエス様が本体であり、自ら神の小羊のいけにえとなって十字架で死んでくださったことで、律法の要求は満たされたのです。

 

2.イエス様に似る者となる

 もし、私たちが、主の十字架の贖いに確信が持てなかったとしたら、自分で頑張る信仰生活になっていたはずです。周りから評価されたいと思って、どんどん十戒以外に厳しいルールを自分に課すようになるかもしれません。見てくれだけの宗教行為は無意味であり、むしろ愛なる神から人を引き離そうとする有害な行為であるとイエス様は当時の宗教家を断罪しました。私たちは完成された人であるイエス様を目指すよう生きている者であり、神と人とを愛する律法を喜んで実行する者とされています。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6: 20) 私たちは自分の栄光ではなく、神の栄光を現わし、神の愛に応えてゆく者とされているのです。

2026年4月19日
愛すること・従うこと

ヨハネ福音書21章15-19節 三宅友子副牧師

 今日は復活後のイエスさまと弟子との関係を見てみましょう。復活を通してイエス様と弟子との関係は、正真正銘の永遠の関係となりました。

 

 聖書には神様と人との関係性を「羊飼いと羊」として捉える場合があります。不漁だった弟子たちに魚をあふれるばかりに与え、一緒に食事をされるイエス様。詩編23篇の「主はわたしの羊飼い」と重なる恵みです。その後ペトロに個人的に声をかけられます。みんなの主であるばかりではなく、「あなたの主」としてほしいと、イエス様は丁寧にコミュニケーションをとりにこられました。ペトロの回復は、イエス様の死と復活による罪の赦しと新しいいのちが個人的に与えられるのでなければあり得ません。全てを見せることのできる、隠すことの必要がない関係を、神様は人に求められるお方です。イエス様が個人的に声をかけられ、あの時のことを思い出す呼びかけや言葉を用いられ、しかも三度も同じことを聞かれて、ペトロは心を痛めています。イエス様の前にすっかり丸裸のペトロです。神様の愛は、そこに明確に降り注いでいます。

 ペトロが謙遜に主への愛を告白した後、すべきことが告げられます。このペトロへの導きは、弟子である私たちすべてへの主からの願いではないでしょうか。「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい。」つまりキリスト者の群れを牧しなさいという意味です。愛しているなら、働きを一緒にしてほしいと願われるのが、イエス様です。ペトロが世話をした羊たちとはどんな人たちだったのでしょうか。ペトロはこの後、使徒言行録で3000人にみことばを語り、異邦人伝道を真っ先にいたします。離散したユダヤ人たちを心にかけ、各地の長老たちに良い牧会を促します。彼がこのイエス様の言葉に従って生涯を送ったことが伝わってきます。皆さんにとって、どなたが「主の小羊」ですか?小羊を養う私たちのことを、大牧者であるイエス様が癒し、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。

 

 永遠のお付き合いをさせて頂く死を超えた関係においては、私たちもペトロのように救い主イエス様によって「愛」と「従順」を引き出していただきましょう。

2026年4月12日
塩・光として

マタイ福音書5章13-16節 三宅真嗣牧師

 皆さんはどんなことが得意ですか?教会の組織の中では、聖書を教える教師、会計、音楽、植栽、食事、ちらし作成などいろんな役割があり、神様はそれぞれの得意分野を用いているのですが、イエス様が私たち一人一人に共通して命じておられる役割があります。

 

1.清めの塩としての役割

 クリスチャンが地上で生きる目的は、腐敗を防止することにあります。クリスチャンだからといって、一点のシミもない完璧な人は一人もいませんが、会話が人間関係を悪化させ、破綻させるように向かっている場合、イエス様はあなたがそのコミュニティの中で、腐敗にストップをかける役割を果たしなさいと命じておられます。岩塩から塩を取り出す場合、塊を砕き、砂と塩を分けて、砂は外に投げ捨てます。もしクリスチャンが人間社会の中で、みんなと一緒に誰かの悪口、蔑み、差別、呪いを言葉にしているなら、あるいは卑猥な冗談や不道徳な性関係などをしている場合、塩気を失った塩として神に捨てられ、同時に、仲間たちからも、インチキクリスチャンとして愛想つかれ、軽蔑され、踏みつけられるとイエス様は警告しています。

 

2.キリストを照らす役割

 クリスチャンは、「死んだらすべてが消滅するだけ」という人生観を持っていません。死んで地上を去っても天国で生き、どんな状況になっても孤独ではなく、相談できるイエス様という友がいます。それが希望の光となっており、たとえ性格的に大人しい、消極的、コミュ力が弱いということであっても、周囲に影響力を及ぼす者とされています。「あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである。(16)とありますが、立派な行いとは、人ではなく神が思う立派さであり、隠れてとりなして祈る姿、否定的な言葉を避け、見下したりせず、相手を尊重する気持ちを持つことです。自分ではなく、イエス様の愛、憐れみ、忍耐、知恵深さを前面に表すことで、家庭や職場、そして教会に神の国が築かれてゆくのです。

2026年4月5日
喜びあふれ

ルカ福音書24章13-35節 三宅真嗣牧師

 春は大きな変化があるので、ウキウキするという人もおり、変化に馴染めず、気持ちが沈むという人もいるかと思います。さて、2000年前、エルサレムの都で大きな出来事があり、気持ちの整理がつかず、沈んでいる二人が、エマオに向かって旅をしていました。そこに歩幅を合わせるようにイエス様が寄り添い、会話をしています。イエス様とはどういうお方でしょうか? 

 

1.強めてくださる方

 二人の弟子がエルサレムから11キロ離れた場所にエマオに向かって歩いていました。この時、イエス様にまつわる一切の出来事について話し合っていましたが、最新情報である「イエスが生きておられる」という内容を仲間の女たちから聞いて、むしろ頭は混乱し、戸惑い、苦しくなってきて、とにかくエルサレムから離れようと思ったのかと想像します。その時、「イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた。」(15) 二人にとってイエス様はすでに過去の人であり、生きているはずがないという思いが強かったので、隣にいる人が本人であることが分かりませんでした。イエス様はその人たちの心に響く言葉がけをし、聖書に示しているメシアとしてのご自分のことを解き明かすと、彼らが抱えていた心配はなくなり、混乱は治まり、どんどん内面から立ち直ってゆき始めました。

 

2.使命を与える方

 二人の弟子が、主だと思った瞬間、お姿が消え見えなくなりました。寂しさ、虚しさが残ったのではなく、メラメラと燃える信仰の炎が心にあることを認め合ったのでした。主は私たちに平安をお与えになりますが、すべて満たされ、何の心配もない中での平安ではなく、たとえ、病気、死、迫害の中でも与えられる平安です。彼らは、来た道を引き返し、夕日を背に、東に向かってエルサレムに戻っていきました。弟子たちは復活の主という信頼できる方につながることによって恐れない心が与えられたのでした。イエス様から使命が与えられ、恐れず、勇気をもって生きることができるようになったのです。

2026年3月29日
十字架がなければ

ヨハネ福音書19章28-30節 三宅友子副牧師

 イエス様の十字架上の言葉は7つありますが、最後が「成し遂げられた」です。父のみこころが成し遂げられたということ、旧約聖書の預言が成就したということ、罪のための完全ないけにえがささげ尽くされたということ、サタンと悪霊に対する勝利宣言、罪深い人類と神との関係の回復。これらすべてが十字架の受難によって成し遂げられました。

 新生298「十字架の影に」の作詞者、ファニー・クロスビーは生後6週間の時に病気にかかり、藪医者の治療により光と闇しか見えない視覚障害者になってしまいました。中学2年生で盲学校に通い始めたファニーは、卒業後、その学校の教師となり、有名な作曲家の歌詞を書いてアメリカ全国民が口ずさむほど有名になり、お金もたくさん手にしました。しかしファニーの心は虚しく満たされない状態だったと言います。それを解決するためにファニーは祈り礼拝に参加しました。十字架について語られた牧師のメッセージの後、賛美の中で自分の心の中にいつもあった虚しさと苦しみの正体に気付いたのです。イエス様の十字架だけが、神様を離れサタンに捕らわれた自分の罪から解放することができることを知ったのです。31歳でクリスチャンになりました。

 このファニーによって書かれた原詩では内容が詳しく、情景が目に浮かぶような表現が使われています。原詩の2節以降は「Near the cross(十字架の近くで)」で始まり、おりかえしの部分が「In the cross, in the cross(十字架の中で、十字架の中で)」と繰り返し歌われ、「十字架」が強調された霊的な歌詞となっています。ファニーにとって、十字架の近くに置かれることこそが喜びであり、十字架のイエス様こそが救いであり存在のすべてであったのです。日本語訳で確認できることは、①キリストの十字架はいかなる罪も清め尽くすこと。②十字架によってみ神の愛が分かること。③人生の中で険しき坂を登る時に、模範として私たちの先を十字架目指して歩まれたイエス様がいるということ。④十字架のもとで天国を見ることができるということです。

 さあ、私たちも十字架のもとにとどまりましょう。そこに全てを持っていきましょう。罪も、飢え渇きも、問題も、死さえも。十字架の主が解決をお持ちです。主は私たちの唯一の救い主です。

2026年3月22日
大祭司の御前で

ヨハネ福音書18章12-27節 三宅真嗣牧師

 初めて誰かが自分のために祈ってくれたことを覚えていますか?緊張がほどけたとか、安心感があったなどいろんな反応があります。さて、イエス様は神の大祭司であり、私たちのためにいつもとりなし祈ってくださるお方です。どんなお方なのでしょうか?

 

1.律法の守護者

 今日のストーリーに大祭司が三人登場します。一人は神の大祭司イエス様であり、他の二人はユダヤの大祭司カイアファであり舅のアンナスです。アンナスはユダヤ宗教界の黒幕であり、神殿活動を牛耳っていました。イエス様が連行された時、大祭司は正当な尋問をしようとしたのではなく、イエス様の発する言葉尻を捉えて、不正があるとわめき、罪に定め、処刑しようと企てていました。イエス様は大祭司に対して、私の話したことを聞いた人々に尋ねなさいと語っていますが、「どのような過ちや罪であれ、人が犯した罪は一人の証人によって確定されることはない。人が犯したどのような罪も、二人または三人の証人の証言によって確定されなければならない。」(申命記19:3)とあるからでした。神の大祭司は律法の守護者となることによって私たちを守ってくださるのです。

 

2.未来の私たちを見る

 人を育てる場合、どんな点に気を使っているでしょうか?よく性善説とか性悪説とか言われていますが、イエス様の場合、その特徴となるのが、人の未来を見ておられるということです。イエス様は弟子たちの離反を予告したのち、弟子たちが立ち直って元気に宣教活動を行う未来の姿を見て語っておられます。イエス様はペトロの弱さを知りつつ、その先に、聖霊を受け、力強く神の救いを人々に伝えるペトロの未来の姿を見ておられました。罪のない大祭司の死により、信じる私たちはすべて神に赦され義とされます。そしてイエス様は私たち本人でさえも気づいていない光り輝く賜物を知り見ておられ、それを引き出すために、私たちを弟子として取り扱っておられるのです。

2026年3月15日
心の畑

マタイ福音書13章1-9節 松倉善浩執事

 

 この箇所は、イエス様が「種を蒔く人」のたとえを話されているところです。

 種はみことば、土は私たちの心の畑です。かたい心でみことばを聞いて受け入れない者は悪い者がみことばを奪い取っていきます。うわべだけで、みことばを受け入れる者は、この世の心遣いやさまざまな欲望に心を奪われてみことばの実は結びません。良く耕され素直な心で受け入れるならば豊かな実を結びます。

 私たちは初めから、良く耕された心の畑をもっているわけではありません。心の畑の石を取り除き、いばらを除草し、やわらかな土に耕されるのはイエス様です。私たちは、心の畑の開拓中にもかかわらず、何度も何度も、石を投げ入れ、いばらをまき散らし土をかたく踏み固めてします。その度にイエス様は、耕し直してくださいます。なぜ、あきらめずに忍耐をもって、そこまでして下さるのでしょうか。それは、私たちを信じ抜いて下さっているからです。イエス様の愛は、私たちを信じ抜いてくださることです。神様は、イエス様を信じ抜いておられました。イエス様も神様を信じ抜いておられました。そして、十字架の死まで従われました。

 イエス様は、私たちを信じ抜いて愛されているのに、顔に泥を塗るような事ばかりしてきた者です。イエス様は、滅びに向かっている私たちの身代りとなって、私たちの罪のために十字架にかかってくだいました。

私たちは心の畑に、石を投げ込み、いばらをまき散らし、土を踏み固めるような者です。けれども、私たちをあきらめず、忍耐をもって畑を耕してくださります。一人に一粒だけではなく、豊かな実がつくように種をわしづかみにして蒔いてくださいます。

 イエス様は、神様の信頼を一心に受けて十字架まで従われて、私たちの罪の身代りとなってくださいました。イエス様を信じ抜いて、全てをゆだねて信頼していけば、100倍、60倍30倍の実を結ぶことができます。

 私たちをどこまでも信じ抜いて愛し続けてくださる神様にイエス様に従っていきましょう。

2026年3月8日
私である

ヨハネ福音書18章1-11節 三宅真嗣牧師

 十字架に架かり、三日目に復活されたイエス様とはどんなお方なのでしょうか?どうして私たちはこの方を信頼し、救い主として信じることができるのでしょうか?

 

1.何もかも知っておられる方

 イエス様は弟子たちと最後の食事をし、彼らを励ましてから一緒に出かけて行きました。園に入ると、そこへ松明や灯や武器をもった大勢のローマ兵がやって来ました。イエス様は絶体絶命に陥ったということなのでしょうか?「イエスはご自分の身に起こることを何もかも知っておられ、」(4)ました。イエス様はこの後、逮捕、裁判、十字架刑があることを知っていながら、あえて自ら進んで行動しています。イエス様は一人一人のことを知っておられ、私たちの人生の最初から最後までご存じであり、全知全能なる神として、導いておられます。ヨハネ福音書は二千年間、神の言葉として読み継がれていますが、今なお、迫害下にあるクリスチャンたちはイエス様の言葉に励まされています。「体は殺しても命を殺すことができない者どもを恐れるな。」(マタイ10:28)とあります。すべてを知っておられるイエス様を信頼し、安心感を得ることができるのです。

 

2.「私はある」という方

 ヨハネ福音書の特徴は、イエス様が神であることを強烈に表していることです。敵対者たちを前にしてイエス様は「『私である』と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。」(6) 神様にはお名前があり、モーセに自己紹介しておられます。「私はいる、という者である。」(出エジプト3:13) その意味は「あらゆる存在の根源」ということであり、そのように自己紹介できるのは神様しかおられません。ところでキリスト教へのこんな疑問があります。「なぜ二千年も前に十字架上で死んだキリストが、私たちの救いに有効なのですか?」 時間的空間的な隔たりもあり、十字架と私たちは何の関係もないように感じてしまいます。時間と空間を超越して存在しておられるのが神であり、あらゆる存在の根源なる方が私たちに呼びかけて下さっております。聖書は、その方に信頼することで、救われると語っているのです。

2026年3月1日
約束の地

創世記23章1-20節 三宅真嗣牧師

 「信仰」と聞くとどんなイメージを抱きますか?世間では、科学的な根拠がないのに、やみくもに信じているというイメージがあるかもしれません。さて、アブラハムの言動が記されてる最後の章は土地の売買契約をしたという話です。神に従ってきた彼は、どんなゴールを目指していたのでしょうか?

 

1.死を架け橋に到達する地

 「アブラハムはサラのところへ行き、その死を悼んで泣いた。」(2)原語によるとアブラハムは声を出して泣いたということです。キリスト教信仰はマインドコントロールではないということが、信仰の父アブラハムが豊かな感情を持っていたことから分かります。彼が取得のため行動した唯一の土地は墓地でした。次のようにあります。「あなたがたは、つかの間現れ、やがては消えてゆく霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生きて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」(ヤコブ4:14-15) すべては主の御心次第であり、使命があれば生き、終われば天国に帰るというのがクリスチャンの人生観です。お墓は洞窟とありますが、墓に入る穴は天国の入り口であると理解することができます。アブラハムはサラの死を悼みましたが、死を通して、神の御許に帰るという信仰を持ち、墓地を購入したのでした。

 

2.本当の故郷である天の御国

 アブラハムは社会常識を持っており、正当な順序を踏んで墓地を購入しています。土地の所有者エフロンから銀400シェケルという法外な値段が提示されましたが、アブラハムはのちに非難や問題が起こらないよう公明正大に購入することになりました。この世の価値観を持つ人々の場合、死んだら終わりと考え、生きている間に、できるだけ多くを稼ぎ、楽しさを味わいたいと思うものですが、アブラハムはそうではありませんでした。「彼らはさらにまさった故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。事実、神は、彼らのために都を用意しておられたのです。(へブル11:16)アブラハムは一貫して御国を目指し、その信仰と約束に生きるスタイルを貫いてきた人物であり、神は恵みによって生きたアブラハムに永遠の都を用意しておられるのです。

2026年2月22日
恵みの備え

創世記22章1-20節 三宅真嗣牧師

 「お金持ちにならなくても、健康で、家族仲良く暮らせればそれで十分です。」そんな幸福感を多くの人は抱いているでしょう。逆に言うなら、苦しみや悲しみに遭いさえしなければ、十分幸せを感じることができます。さて、アブラハムは井戸を手に入れ、神に礼拝を捧げ、幸せを感じていたはずです。そんな折、神はアブラハムに試練をお与えになったのですが、彼はどのように受け止め、神への信仰を表わしたのでしょうか?

 

1.大切なものを捧げる

 神様は「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして私が示す一つの山で、彼を焼き尽くすいけにえとして献げなさい。」(2)と語られました。アブラハムにとって、息子イサクは将来のすべてであり、神の約束実現に欠かせない要素でした。未来があってこそ、過去や現在を犠牲にすることもできますが、もしそれを失ったら、すべてが空しくなるのではないでしょうか?モリヤの山は、エルサレムの神殿の場所にあり、救い主イエス様が神の小羊として献げられた地でもありました。神様の要求は、横暴に思われますが、神は独り子イエス様を捧げることの悲しみを友であるアブラハムと共有したいとお感じになったのかもしれません。アブラハムは父なる神と同じ思いの中で、最も大切な息子を捧げることとなりました。

 

2.最後まで従いきる

 イサクから「焼き尽くすいけにえにする小羊はどこですか」(7)と尋ねられた時、アブラハムは心えぐられるような痛みを感じたことでしょう。対する答えは「神ご自身が備えてくださる」(8)でした。どんな時も、神は私たちの必要を満たし、助け、祝福を備えて下さいます。人生にどんなことが起こるのか私たち人間には知りえないことばかりですが、むしろ将来が何も見えないから、神様に頼り、御声を聞いて従ってゆくことができます。アブラハムが最後まで従いきったように、父なる神は、御子イエスキリストを私たちのために捧げきって下さいました。イエス様の十字架上での叫び、「わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?」(マルコ15:34)と、私たちのために苦しみ、愛を示してくださいました。

2026年2月15日
使えば使うほど

マタイによる福音書25章14-30節 三宅友子副牧師

 このタラントのたとえ話は「スチュワードシップ月間」にはよく読まれています。スチュワードシップは「天の国」の事柄だということです。天の国はこの地上にいる間から既に始まっている永遠の御国のことです。イエス様のご支配が及ぶ国のことです。このたとえ話に登場する主人は神様のこと、イエス様のこと、僕たちは主の弟子である私たちです。

 

 さて、青葉教会という群れにも主は豊かな豊かなタラントを預けておられます。何か一つのイベントをし終わった時、青葉教会ってすごいなあとお互い感心しますね。これら全てを神様が預けてくださったということですから、父なる神様は決してケチではありません。使えば使うほど、豊かにしてくださるということを私たちは実感しています。そして、イエス様のご支配が及ぶところは教会だけではありません。誰ともかかわらずに、あなたの賜物がもし土の中に埋まっているとしたら、主人を悲しませることになってしまいます。

 たとえ話の僕たちの働きの結果、最も報いを受け取ったのは誰でしょうか?戻ってきたご主人です。もともとお金は主人のものでしたから、倍になったものは主人の手に返すのです。これはスチュワードシップでとても重要なポイントです。「賜物を使いましょう!」というだけではなく、誰のために使うのかということです。教会の中ではもちろん「主のため」に奉仕をします。けれども、家庭においても、地域においても、職場においても、あなたの働きが「主のため」につながっていることをご存じでしたか?祈りも賛美も、奉仕も献金も、イエス様が受け取ってくださることこそが重要なのです。

イエス様は良い方です。永遠の国でさえ、この地上のことを覚えていてくださり、「わたしの名のために良くやった」と報いてくださるのです。

「思いがけない時に戻ってこられる主人」への用意をしましょう。「主に報告する時を楽しみに」用意をされていますか?

 

 私たちは預かったすべてのものを、青葉教会のためだけではなく、キリストの教会という全体のために差し出しましょう。社会の価値観や、儲けが目的の商売をするのとは違う視点で、ご自身の賜物を差し出していきましょう。あなたの賜物は使えば使うほど、主人であるイエス様の喜びとなるのです。

2026年2月8日
誓いの井戸

創世記21章22-34節 三宅真嗣牧師

 人生最後に家族に言葉を残すとしたら何を語るでしょうか?墓標に刻まれる文字で一番多いのが、「感謝」だそうです。さて、アブラハムは生まれ故郷を離れ、寄留者として過ごしてきましたが、何を大切にしてきたのでしょうか? 

 

1.臨在を求める

 「臨在」とは見えない神がおられ、私たちの傍らにいてくださるという意味です。ところでアブラハムが人生の中で、幾度か命の危機を感じたことがありました。その際、アブラハムを助けたのは、彼の知恵、財産、仲間ではなく、神様の介入があったからでした。彼自身、そのことを感じ、臨在こそ大切とし、祭壇を築き、肝に銘じたのでした。そして、アブラハムに向き合った者たちも、彼の背後には神がおられるということを感じざるを得ませんでした。「アビメレクと将軍ピコルはアブラハムに言った。『あなたが何をなさっても、神はあなたと共におられます。』」(22) 政治的にも軍事的にも優位に立つアビメレクが将軍を伴い、礼節を尽くしてアブラハムと友好関係を結ぶためにやってきました。とても不思議な光景ですが、神の臨在がいかに力強いものであるかが分かります。「主我らと共におられる」と呼ばれる神が私たちに力を与え、守ってくださるのです。

 

2.主の名を呼ぶ

 アブラハムが寄留者として苦労したのは、水の問題があり、大半が砂漠地帯であるパレスチナで生きるために水の確保が絶対必須でした。アブラハムは苦労して、井戸を掘り当て喜んでいたところ、先住民族がやって来て、井戸を奪われてしまいました。そこで、アブラハムのアビメレクに抗議をし、快く返還されることになりました。ところで、神がもともとアブラハムに約束した土地は見渡す限りの地でしたが、25年経ってようやく手に入れたのは、井戸一つでした。もし私だったら、「もっとスピード感を持って、次々と約束を果たしてください。」 と不満を神様に申し上げるかもしれません。ところが、アブラハムは「一本のタマリスクの木を植え、そこで永遠の神、主の名を呼んだ。」(33) とあります。聖書はアブラハムを通して、どんな時も誓いを果たしてくださる主の御名を呼ぶことの大切さを伝えているのです。

2026年2月1日
泣き声を聞かれ

創世記21章8-21節 三宅真嗣牧師

 どんな場面で悩むでしょうか?病気や老化現象、仕事上のことなど様々ですが、やはり、一番身近にいる人間関係、特に家族間の感情のもつれによる悩みはより深いかと思います。アブラハムの家族間でいざこざが起こってしまいました。神はどのように関わってくださったのでしょうか?

 

1.神は人の悩みを担う

 妻サラは、女奴隷のハガルによって子どもを儲けることを提案し、思惑通り、アブラハムとの間にイシュマエルが産まれました。アブラハムにとって大きな喜びとなりましたが、14年後、サラがイサクを産むと、家庭内に不穏な空気が漂い始めました。イサクが3歳となり、乳離れの日に盛大な祝いが開催されました。サラはイシュマエルがイサクをからかう様子を見て、このまま放っておいたらとんでもないことが起こってしまうと想像したのか、サラはアブラハムに「この女奴隷とその子を追い出してください。」と言いますと、アブラハムの悩みが始まってゆきました。神は、この世は過ぎ去るので、家庭問題など気にするな!とは仰っていません。家庭の悩みに関しても、神が介入して下さり、頭を抱えていたアブラハムに寄り添っておられます。信仰者に与えられた恵みは、一人で悩まなくても良いことであり、神の導きがあることです。

 

2.神は祝福に目を向けさせる

 ハガルとその息子イシュマエルは、アブラハムの天幕から離れて旅立ちましたが、突然、母と少年が荒野に放り出されたようなものでした。「革袋の水がなくなると、彼女は子どもを一本の灌木の下に行かせ、自分は矢の届くほど離れた所に行き、彼の方を向いて座った。子どもが死ぬのを見るのは忍びないと思ったからである。彼女は彼の方を向いて座り、声を上げて泣いた。」(15-16)とあります。聖書中、最も切なさを感じる場面の一つです。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子どもの泣き声を聞かれた。」(18) 神は世の中で弱さを感じ、生きる難しさを感じるような小さな者たちに心を寄せ、助けるお方です。さて、その後、神は二人を、楽園に連れて行ったと書いていません。しかし、神は荒野で彼らを養っておられます。神は生活の現場にいる私たちに語り掛け、祝福し、養ってくださるのです。

2026年1月25日
約束

創世記21章1-7節 三宅真嗣牧師

 「信頼できる人」とはどういう人でしょうか? AIによると、「小さな約束でも必ず守る」とあります。さて、私たちはどうして聖書の神を神としているのでしょうか?やはり、約束を守り、有言実行の神だからです。私たちはアブラハムの妻サラを通して、神の誠実さを知ることができます。

 

1.サラを心にとどめ気にかける

 世間では宗教とは精神世界のことを扱っており、心の安らぎをもたらす、悪く言うなら、気休めに過ぎないというイメージを持たれますが、聖書の神は現実世界に生きる私たちに語り、実行なさるお方であることが示されています。さて、長い人類歴史の中で、お世継ぎの問題は大きく、妻が子を産まない場合、悪く言うなら、舅姑、親戚一族から役立たずと見なされることがありました。確かにサラは多くの財産を持つアブラハムの正妻ですが、お世継ぎを産むこともなく、弱さを感じ、心傷つく人生を送っていました。神は弱いサラに寄り添い、顧み、赤ちゃんを与えました。神は私という小さな者においても、顧みて下さっていることを覚えてゆきたいものです。私たちの日常は、上手くいったり、行かなかったりですが、そんな私たちに神は心を寄せて、最善を図り、良きことをしてくださる方なのです。

 

2.サラに喜びの笑いをお与えになる

 90歳のサラが100歳のアブラハムの子を産んだという出来事をどう受け止めたらいいのでしょうか?ある牧師は次のように書いています。「多くの人々は奇跡を反自然と考えています。しかし、自然界の法則が停止したり、破壊されたりするのではなく、それを超えた超自然的な力が働く時、奇跡は起こります。それは全能の神のある目的遂行のためになされるものです。その目的とは人間の救いです。救いという目的に向かっての神の特別な御業なのです。」(尾山令仁著)イサクの話は私たちの救いに関係していることです。その子孫に救い主なるイエス様がお産まれになり、十字架の贖いによって救いの門を開いて下さいました。神は同様に私たちに対しても、ご計画をお持ちであり、時を定め、救いの喜びをお与えくださいます。神は私の心の中にある自分に対するネガティブなイメージを取り除き、笑いを与えてくださるのです。

2026年1月18日
聖書に心があらわれる

詩編19篇8-14節 三宅友子副牧師

 「今年こそは聖書を読もう」と決心された方もおられるでしょうか?み言葉がどれほど素晴らしく、慕い求めるに値するか、確認しておきましょう。

 

1.聖書に神様の心が現れている

 三位一体の神はただひとりの神です。父なる神、子なる神、聖霊なる神は完全に一致しておられます。発せられるみ言葉と神ご自身も一つです。私たちは神様ではありません。このお方は私たちとは全く違う存在です。ですから、神の心である聖書も私たちの心と一致するものではありません。「当然」と思えないことも、私たちが欲しないことも書かれています。聖書を開く時、み言葉を読み、み言葉に生きたいと思う時、まず「これは神様の言葉なのだ」としっかりと意識することが必要です。聖書には神様の心が現れています!

 

2.聖書に私たちの心が洗われる

 聖書を読むということは、私たちの心を神の御前に置くことです。罪に気づけるというのが、読者への報いです。知らずに犯した過ち、隠れた罪、本人は思い込んでしまって「悪いことをしている」とさえ思いつかないようなものです。「傲慢」になっている人は、本人の自覚があまりありません。むしろ、それが正しいと思っています。自分中心、あるいは他人の評価基準が基礎となってしまうのが、私たちです。でも、み言葉を前にすると神様中心なので、そのずれに気付けるのです。聖書を読み、み言葉を黙想する時、何か心のうちを探られるように感じることがありませんか?隠れたものをあらわにして、解き放つという作業を、聖霊なる神がみ言葉によってなさるからです。

 

 イエス様を罪からの救い主として信じた時、神の子どもであるという立場は完全に瞬時に与えられました。そこから、私たちはイエス様に似た者へ成長していくという過程を歩んでいます。神様は今年もこの聖書を与えて、私たちを全き者としようとされています。この神様に同意されていますか?

聖書を読むというのは、人生の歩みの中で岩を見つけた時のようです。道が示され、守られ、隠れたことがあらわになって、救い出されます、口を大きくあけて、みことばによって心を洗って頂きましょう。

2026年1月11日
わたしにはできる

フィリピ書4章13節  鉄井三千夫先生

 霊的な経験をすると、今までの考え方が大きく変わり、全く新しくなります。ずっと持っていた人生への考え方や態度が突然、今までとは全く違う考えと生きていく動機に支配され始めます。

 

 私たちは小さい頃から自分の道は自分で切り開けと言われてきていて、誰かに頼るのは弱い者のすることだからそうしないようにと教育されてきました。しかし、私たちにはどうしようもない限界があります。できないこともたくさんあります。もし今あなたのそばに全知全能の方がおられたら、その方に頼るのに何か問題があるでしょうか。でも私たちの心にはそのような存在を認めたくないという思いもどこかにあるようです。

 

 私は以前AAというアルコール中毒患者を救う団体と働いたことがあります。アルコール中毒患者の行動は頑固な自我、そして自己中心による極端な暴走の結果であると言われています。彼らには何よりもまず、頑固な自分本位の考えを捨て去らなければならないと話をします。しかし神の助けなしには、自分を捨て去ることなどもちろんできません。だから神の助けが必要なのです。神を自分の主とすることが必要なのです。

 

 深い恨みを抱いて過ごす人生、あるいは不満を抱いて生きる人生には、空しさ、不幸以外に行き着くところがありません。もしあなたに神にすべてを委ねる心があれば、神はその手の中で、あなたの暗い過去をあなたの最大の資産とし、他の人に生命と幸福を約束する鍵としてくださいます。私が目にした最初の聖書の言葉にはこう書かれていました。I can do all things through Christ which strengthens me (KIV).

 

 このフィリピの信徒への手紙の中でパウロはどのような境遇の中でも自分は生きていけると書いています。彼はキリスト者を迫害する者でした。その彼が復活したキリストと出会いました。その霊的な体験が彼を全く違うキリストを伝える人物へと変えました。

2026年1月4日
同じ轍    

創世記20章1-18節 三宅真嗣牧師

 同じ失敗を繰り返してしまうことはないでしょうか?さて、信仰の父アブラハムもまた人間であり、私たちと同じように失敗を繰り返していることが分かります。この出来事からどんなことが示されているのでしょうか?

 

1.人は失敗を犯す

 アブラハムの人生を見てゆく時、さすが信仰の父だと思う場面もあり、どうしてこんなことをしてしまったの?とあきれてしまう場面もあります。アブラハムは、ソドムの町が滅ぼされた後、西に移動し、ゲラルという場所にたどり着きました。彼はエジプトでの失敗を繰り返すように、妻サラを自分の妹として偽って自己保身に走ってしまいました。アビメレクはサラを召し入れることになると、その夜、神が夢の中に現われ、強制的にストップをかけることになりました。アブラハムは100歳となり、約束の子イサクが与えられるという重要な出来事が起ころうとしていたタイミングでした。技術においては円熟期がありますが、罪に関しては、地上にいる限り、人は簡単に犯してしまうということが分かります。聖書はその事実を伝え、人は地上にいる間、不完全な者であることを伝えています。

 

2.神は回復を与える

 聖書は一つの原則があることを伝えています。神に頼ると成功するが、自分に頼ると失敗するということです。彼は自分の知恵に頼ろうとした時、神の導きを見失い、失敗してしまいました。いずれにしても、「主は、アブラハムの妻サラの件で、アビメレクの家の女たちの胎をすべて堅く閉ざしておられた」(18)ました。ゲラルの出生率は一時的に、0になってしまいました。どんなに富があり、高度な文明があり、強い軍隊があっても、半世紀子どもが産まれなかったら、その民族は確実に滅びてしまいます。命の創造は神様の御業であり、祝福です。さて、神様はゲラルの人々を回復するため、アビメレクに次にように語っています。「彼は預言者であるから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。」(7)神が欠点のあるアブラハムをお用いになるなら、イエス様の祈りはどれほど効果があるでしょうか。私たちは大祭司であるイエス様によって、癒され、究極的な回復が与えられるのです。

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