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<2023年 礼拝メッセージ>

2023年12月31日
豊かな恵み

詩編138章1-8節 松倉善浩執事

 

 みなさまにとって2023年はどのような年であったでしょうか。思い返してみると神様のたくさんの恵みがあふれ出てきます。それと同時に悲しみもありました。また、病、試練、思い通りにいかない自分の弱さを感じた方もいたのではないでしょうか。

 詩編138編は、神様から祈りの答えをいただいた感謝のうたです。作者が、神様に向かってひれ伏して礼拝を捧げている姿が伺えます。何のためにそこまでして感謝を捧げるのでしょう。何かを手に入れるための手段ではありません。神様に祈りをささげた時、私たちを強くしてくださり、慰めてくださり、希望を与え立ち上がる力を与えてくださいます。私たちに希望を与えてくださる神様に応答として捧げるのです。

 私たちはいつどのようなときに感謝を捧げているでしょうか。自分を見つめ直してみると自分のことしか考えていないことに気が付きます。それがさほど深刻でないとしても主の道を外れている場合があります。けれどそれを認めようとはせず、自分で何とか修正をしようとしますができるものではありません。そんな私たちのことをイエス様はご存知です。私たちは外した道を素直に認め、イエス様の前に出ていくだけです。

 イエス様は、私たちの外した道を背負って十字架にかかって血の尊い代価を払ってくださいました。贖いによる救いなのです。主の大きな犠牲による憐みによって許してくださいました。そして、いつもそばにいて私たちを助けて下さるのです。

 私たちは日々、イエス様の十字架とそばにいて助けてくださり、励まし、力を与えてくださる神様に感謝を捧げましょう。

   

2023年12月24日
すぐ近くに

ルカによる福音書2章8-16節 三宅友子副牧師

 クリスマスおめでとうございます。皆さんを歓迎いたします。

クリスマスは「真理」が顕になった時です。「神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との仲介者も唯一であって、それは人であるキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:4,5)

 

 さて、羊飼いたちは、夜空という舞台の前に引き出され、天使と共に天の大軍、オーケストラと聖歌隊が演出するような大合唱を受けました。その歌の歌詞は「いと高き所には栄光、神にあれ 地には平和、御心に適う人にあれ。」でした。神様が栄光をおとりになると、地には平和が訪れる。皆さんの中にも日常的にこの恵みを経験しておられる方々がおられますね。神様に従うとは、まず神様の愛と赦しを受け取ることです。「主が知らせてくださった出来事を見てこよう!」と言い合う羊飼いたちの顔を想像してみましょう。神様は従いたくなるお方です。羊飼いたちが抱くことができる真理として、赤ん坊の姿で現れてくださいました。天使を通してお告げになった通りでした。私たちのうちにある深い求め、そして、神様からのメッセージは注意深く受け止めなければなりません。神様は私たちの求めに、ご自分の方法で応えられるからです。羊飼いたちはそのままを受け止めて、恵みと真理に満ちた赤ちゃんイエス様を探し当てました。

 

 クリスマスの日、誰にでも届く真理としてキリストはお生まれになりました。キリストという存在に私たちが会うためには、「良き知らせ」を信じる、受け入れるかどうかがカギです。聖書で、スマホで、耳で、とにかく真理の言葉に触れる時間を作ってみてください。この中に、あなたに語り掛ける神の声があり、そして、「道であり真理であり命であるキリストを通して」あなたは神のもとに行くことができます。青葉教会の皆が、あなたがキリストに出会うためにお手伝いをいたします。

2023年12月17日
曙の光

ルカの福音書1章56-80節 三宅真嗣牧師

 今までの人生の中で、どんな大きな決断をしたでしょうか?さて、クリスマス物語に登場する人物たちは、大きな決断をして主のご降誕を準備しました。今日登場するザカリア夫婦もそうでした。どんな選択があったのでしょうか?

 

1.神の国orこの世

 イスラエルでは、部族ごとに相続地が決まっており、親戚縁者が、みんなでその土地を守るしきたりがありました。「人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。」(59)子供に父の名前をつけるというのは、相続地の正統な継承者であることを示すためであり、保証のようなものでした。この地上の絆は安心感にもなりますが、逆に縛りでもあり、地上への執着にもなります。人々は、ザカリアが「ヨハネ」と命名したので驚きました。「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。(64)人間のしきたりの縛りから解放されたことを象徴する出来事となりました。ザカリアとエリサベトは、その名をヨハネと命名したのは、神の国に生きることを決断したことによります。

 

2.主の御心or自分の願望

 ヨハネが将来、祭司として出世してゆけば、将来、サンヘドリン(ユダヤの国会議員)のメンバーとなり、国家権力の中枢にいる存在にもなれたかもしれません。息子が国を操るような影響力のある人になれたら親としても誇らしいはずです。ところが、神の御心はヨハネが「荒野で呼ばわる者の声」(イザヤ40:3)となることでした。ヨハネは華やかなエルサレムの神殿ではなく、荒野に下り、人々に悔い改めを叫び、メシアを受け入れる心を整える働きをしました。夜明けは、まず、空が明るくなり、太陽が昇るに従って、暗い地を照らします。荒野の羊飼いたちに天使の軍勢が現れ、天を神の栄光で輝かせたように、神は救いのしるしを御子の誕生によって表して下さったのです。

2023年12月10日
約束どおりの喜び 

ルカの福音書1章46-55節 三宅友子副牧師

 毎年恒例のその雰囲気を楽しむ程度でクリスマスの時期が終わってしまうことがないだろうか。クリスマスの喜びを深めるものは何だろうか?

 

1.救いのご計画の中で目を留めて頂いている

 クリスマスに神様の救いのご計画が顕になった。マリヤは以前から聞いていたそのただ中に自分が置かれていることを喜んでいる。魂、霊から沸き起こってくるような賛美の喜びが伝わってくる。この時、マリヤは「身分の低い」者であり、結婚前に妊娠するという大きなチャレンジを受けていた。つわりの大変さに加えて、周りの理解を得にくいことや、さまざまな苦労があっただろうことは想像に難くない。しかし、心許せるエリサベツを前にして、マリヤの口から飛び出したのはそのような愚痴ではなく、「それらすべてに優って『神に目を留めて頂く』というのは素晴らしいこと」という歌。このマリヤの賛歌は世界中の人々に愛されている。マリヤが歌った内容がどれほど人々の心が求めているものであるかということである。

 

2.神がどんなお方かを宣言する

 マリヤはただ、神がなしてくださったこと、神がどのようなお方かを告白し続ける。自分の側ではなく、神様の側に軸足をおいて、もし神様がいなくなられたら倒れてしまうほどに、神様によりかかっている信仰だ。自分と神とをしっかりと区別し、神を神と認めること、それが賛美の第一歩、魂の喜びの始まりである。差し出されたマリヤの生涯を通して、神は御自身を示された。ローマに統治されているユダヤ州という不安定な社会にいながら、同時に2000年前から変わらない力ある方に治めて頂くのだと見えない神に希望をおいた。神は、とこしえに「僕を受け入れて、憐れみをお忘れにならない」関わりを続けてくださる。

 

 自分の小ささ、世界の変化の激しさ、身分の違い、体調の変化、将来の不安、人間関係の不確かさ、その他すべてのものを主の御前に差し出そう。そして、「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」と告白するほどの喜びを、クリスマスを待ち望みながら頂こう。

2023年12月3日
準備

ルカの福音書1章5-25節 三宅真嗣牧師

 ルカはイエス様の降誕に先立って、ヨハネ誕生の経緯を伝えています。彼は「準備のできた民を主のために用意する」(17)人になります。ルカは、マリアの受胎を記す前に、ヨハネの父ザカリアという人物に焦点を当てています。どんな人物だったのでしょうか?

 

1.忠実に主に仕える人

 ザカリアは信仰の人であり、彼の神に対する奉仕の姿勢から、私たちは大切なことを学ぶことができます。ザカリア夫婦は「既に年をとっていた」(7)とあるように、加齢により、もうすでに子を宿す能力がないということを自覚していたということであり、「不妊の女だった」(7)と結論付けています。彼らにとって、心苦しさを感じていたのは、神の働きが、彼らの世代で途絶えてしまうということでした。願いはついに応えられなかったという現実を前にして、どう思うでしょうか?ザカリアは、やる気を失ったり、神に反発したり、ふて腐れたりすることなく、神の御前に祭司の務めをし、忠実に仕えています。どんな現実があっても、ブレない貫いてゆく信仰スタイルがあったのでした。

 

2.神から訓練を与えられる人

 ザカリアは、神と対面する神聖な場所である至聖所に入り、香を炊いて祈る勤めをしていました。非常に厳粛な瞬間であり、緊張の糸を張りつめてする主への奉仕です。突然、主の天使が現れ、驚くべきことが告げられました。「天使は言った。『恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。』」(13)にわかに信じることができなかったザカリアは、ヨハネ誕生まで話すことができなくなりました。それは彼にとって、主の御前で静まるという訓練となりました。主は私たちを覚えておられ、いつくしみ深いお方です。神は愛する者、神の国に生きる者に訓練と準備の時を与えてくださるのです。

2023年11月26日
イエスの方法

マタイの福音書28章16-20節 三宅友子副牧師

 イエス様はいつも意外なことを仰った。28章では、田舎町ナザレにお生まれになったイエス様は11人を前にして、世界を見渡されていた。

 

1.準備万端整った!

 天と地のどこにでも及ぶ力をイエス様は授かった。「メサイヤ」で歌うように王の王、主の主となられたのだ。イエス様の救いはすべての文化も言語も超えて必要であるとの父なる神のみこころを確信しておられた。「だから、あなたがたは行きなさい」と弟子たちに言われた。イエス様のこの命令は、現代の弟子である私たちにも分かち合われている。

 

2.行って&わたしも共に

 イエス様は「すべての民をここに連れてきなさい」ではなく、「行って弟子としなさい」と仰った。行った先で新しい弟子を育てるイメージを描いておられた。それはまさに、イエス様が12弟子になさったことだ。遣わされた先の人々と同じ目線で、そこから神様を呼び求める弟子たち。イエス様のお名前を広めるために、主の天幕の杭として打ち込まれた方々の証が私たちの耳にも届く。現地派遣型のイエス様の方法は、2000年たった今も変わっていないようだ。遣わすイエス様ご自身が共におられる。弟子としての条件は、父と子と聖霊の名によってバプテスマを受けることであり、その後一つ一つイエス様の教えを習得していく。「この人は神のものだ!」と焼き印をおされているキリストの弟子たちが全世界にいる、これがイエス様のビジョンだった。

 

 イエス様は闇が深まるこの世界を私たちに見せて言われる。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

2023年11月19日
両刃の剣を持つ方

ヨハネの黙示録2章12-17節 三宅真嗣牧師

 私たちは違った顔をしており、違った性格、性質を持っています。ヨハネ黙示録の7つの教会はそれぞれ個性ある教会でした。イエス様は、ペルガモンの教会にどんなことを語ったのでしょうか?

 

1.揺るぎない信仰

 ペルガモンという町は、小アジア州の政治の中心であり、競技場、図書館がある文化と学術の町であり、当時に、偶像礼拝が盛んに行われた町でした。イエス様はお褒めになっています。「しかし、あなたはわたしの名をしっかり守って、わたしの忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。」(13) 彼らは仲間が殺される現場におり、生涯、トラウマになってしまうような辛い経験をしました。ところが、彼らは偶像にひざまずくことなく、イエス様を神としてその名を捨てませんでした。イエス様は揺るぎない信仰を持つ者たちをお褒めになります。

 

2.妥協しない信仰

 「ペルガモン」という言葉は、強制された結婚という意味があります。意訳すると、本来、結びつくべきでない結婚、混乱した間違った結婚を表わします。さて、悪魔はペルガモン教会に二つの面で攻撃しました。一つは迫害であり、もう一つは内部からの混乱と崩壊です。かつて、出エジプトしたイスラエルの若者は、モアブの娘たちの甘い言葉のささやきに取り込まれ、床を共にし、誤った結婚をし、モアブの神々を拝むようになってしまいました。小さな誘惑から始まり、信仰の妥協によって、内部から崩壊が起こってしまいました。ペルガモン教会は、メンバーの中の人たちが、みだらな方向へ向かってしまうことを大目に見てしまった点をイエス様に叱責されています。両刃の剣を持つイエス様は、教会が妥協せず、外なる戦い、内なる戦いに勝利するように励ましておられます。

2023年11月12日
天幕を広げなさい ダビデ編 

サムエル記上16章1-13節 三宅友子副牧師

 今日は成長感謝礼拝ですので、ダビデが子どものころの話です。聖書に、自分と同じような人を見つけるのは楽しいものです。まるでその人と信仰の交わりをしているかのように、励まされます。

 

 神様はダビデのどこを見て「見出した!」と言われたのでしょうか?「人はうわべを見るが神様は心を見る」とあります。ダビデは詩編を沢山書いた人です。その中には、自然界の中で主を誉め歌うような歌も沢山あります。詩編23篇などが有名ですね。羊飼いをしながら、竪琴を奏でながら、オリジナル賛美をささげていたのでしょう。神様は誰も聞いていないそういう賛美、祈り、みことばを求める信仰を、よく受け止めてくださっています。何を学ぶよりも、神様を知りたい、神様のそばにいたいとダビデは歌いました。その心を神様は見出されたのではないでしょうか。

 サムエルが神様の声を聞き、羊飼いであった少年ダビデは油注がれます。後に、王として神殿建設の準備に取り掛かる時に、別の預言者からダビデはこう言われます。「あなたを羊の群れの後ろから取って」王とされた神様、、、と(サムエル下7:8)。生涯の中で何度もダビデ自身「あの時、神様が選ばれたのだ、声を掛けられたのだ」と思い起こす場面となったことでしょう。

 サムエルによる油注ぎの後から、ダビデには主の霊が激しく下ったと記されています。でも、すぐに王位交代となった訳ではありません。ダビデが本当に王となるまでは長い年月と試練、訓練の時が続きます。そして、成長させる神様の関わりはダビデが老いても続いています。神様は「もう成長しなくていいよ。ありのまま、そのままで訓練なし」とは言われません。最後まで神に似る者として成長するよう関わられます。いつまでも私たちは「神の愛する息子、娘」だからです。そして、成長して豊かに実を結んだら、それは神の栄光のためと言われます。

 神様は「あなたを見出した!」と仰っていませんか?

2023年11月5日
人の子よ、帰れ

詩編90篇3-6節 三宅真嗣牧師

 日本人は死という言葉を避ける傾向があるので、病院では4号室がない場合や車のナンバープレートにはなるべく4という数字を使わないようにすることがあります。ところが、聖書は死をあいまいにすることなく、私たちに死ぬべきものであることをはっきり伝えています。どのような意味があるのでしょうか?

 

1.無力ゆえに強い

 この詩編はモーセの詩となっています。モーセはイスラエルの国家的指導者であり、英雄です。そして彼が取り次いだ神の律法は、その後、聖書として人類に大きな影響を残しています。しかし、偉大な功績を残したモーセですが、人の命の儚さを語っています。神は永遠であり、それに対比するように人間は有限であり、無力な存在であるということを聖書は語ります。キリスト教は弱さを欠点とか恥とは思わず、むしろ、自分の弱さを実感してこそ、神に救いを求め、神より力を頂くことができると教えています。ですから弱さを感じる時こそ、新しくされる転機であり、出発点となるわけです。死は最大にして、最強の敵ですが、イエス様のゆえに死に打ち勝つ勝利を与えてくださるのです。

 

2.天国の希望

 「召天」という言葉は、世間一般的に耳慣れない言葉です。「永眠」という言葉のほうが、よく使われますが、しかしどうでしょうか?私たちの人生の先にあるのが、永遠に眠ることであるなら、どうして頑張って生きなければならないの?という疑問や虚しさを感じてしまいます。ところで、宇宙飛行士が宇宙に行く場合、宇宙服を着ることになりますが、その金額は10億円かかるそうです。私たちが天国に召される場合、まず私たちの体はチリになり、新しい服を着せて頂く必要があります。

 私たちの神は、「人の子よ、帰れ」と呼びかけ、約束通り栄光の体をお与え下さいます。それが地上で生きている私たちの希望です。

2023年10月29日
知られましょう

使徒言行録17章22-23節 竹下公也氏

 なぜパウロは熱心に、神について、イエスについて、人々に語ったのでしょうか?そして私たちは、パウロに倣って、何をすべきでしょうか?

 

 アテネに到着したパウロは、街で神についての議論を毎日していました。そこでアテネの人々は、パウロをアレオパゴス(現在の議会や裁判所に相当するところ)に連れていき、彼に福音について語らせました。そして、死者の復活についてパウロが語ったところで、アテネの人々から反発され、パウロの語りは終わるのでした。しかし、パウロの説明を聞いて、数は少ないですが信仰に入ったものもいました。パウロの行いは、無駄になることはなかったのです。

 パウロは、アテネに限らず多くの土地でユダヤ人やギリシア人に、熱心に神についてイエスについて語っています。それはなぜでしょうか。パウロ自身が理由を語っています。イエスに選ばれて、ユダヤ人と異邦人、つまり全ての人を神に立ち返らせ、罪の許しを得、聖なる者とされた人々とともに恵みの分け前にあずかるようになるためです(使徒言行録26章17-18)。

 さて現代に生きる私たちの中で、だれが人々を神に立ち返らせるのでしょうか?聖書には、「全世界に行って、すべての作られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16章15節)と書いてあります。福音を宣べ伝える方法は、アテネでのパウロのような言葉によるものだけではありません。困っている人の良き隣人としての行いによっても、福音を伝えることができます。人々は、私たちの言葉や行いの中に神の働きを見出すからです。

 ですから私たちは、各々に示された恵みと賜物によって、福音を宣べ伝えましょう。聖書には、このように書いてあります:あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい(マタイ5章16節)。「知られざる神」は、ひとり子イエスをこの世に遣わされたお方、今も聖霊として働かれておられる私達の神なのです。

2023年10月22日
天幕を広げなさい サムエル編

サムエル上3章1-18節 三宅友子副牧師

 今「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」という厳しい状況だと感じることがあります。そして、国同士の緊張関係も高まっています。重なるところのあるサムエルの時代に、神様はどのように信仰が継続するよう働きかけてくださったのでしょうか。

 少年サムエルは神殿でお仕えしていました。「主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼には示されていなかった」とあります。聖書の「知る」は体験的に知るという意味ですから、サムエルも頭では知っていたが、体験的に主を知っていなかったという意味です。神様はあなたが直接御声を聞きたいと耳をそばだて、集中するのを待っておられます。エリはこう教えました。「もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話ください。僕は聞いております。』と言いなさい。」と。神様は13歳の少年に届くように語り掛けられました。私たちがどんなに理解が浅くても、経験がなくても、初めてであっても、その信仰の灯が消えていないなら、主は語り掛けることがおできになります。

 ところで、サムエルに語られたメッセージの内容は、エリの家への裁きです。とても、初めてメッセージを聞く少年に語るような内容ではないように感じてしまいます。「主よ、お話ください」には、どんなことでもお話しくださいという意味も含まれています。愛が冷えていく終わりの時代、私たちは対人間に対する態度と、神様に対する態度ははっきりと区別すべきです。信頼しきれる人はいませんが、神様には全面的に頼れるのです。

 

 主にお話頂くには、「心を開く」ことがカギです。サムエルに気付いた主は、私たちの存在に注目してくださっています。「主よお話しください。僕はきいております。」と御前で時間を過ごしましょう。神様の声を聞く耳を育てましょう。ただ主に集中する時間を重ねましょう。聖書に対する疑いを捨て、心を開きましょう。愛する神様があなたに語ろうとしておられるのです。

2023年10月15日
生き返った方

ヨハネの黙示録2章8-11節 三宅真嗣牧師

 クリスチャンとして生きていても、幸いなことばかりではなく、むしろ苦しい思いをすることがあります。さて、イエス様は苦しみのスミルナの教会にどんなメッセージを送っているのでしょうか?

 

1.主はインマヌエル

 スミルナという意味は、「没薬」であり、苦しみ、迫害を連想させる町の名前です。十字架で息を引き取られたイエス様のご遺体が降ろされた後、ニコデモとアリマタヤのヨセフは没薬を浸した亜麻布で包みました。 イエス様はスミルナのクリスチャンたちに、「あなたの苦難や貧しさを知っている」(9)と語っています。聖書が言う知っているという言葉は、体験として知っているという意味であり、あなたの苦しみ、嘆きを自分のこととして体験しており、あなたと共にいることを示しておられます。スミルナのクリスチャンたちは、イエス様から離れることなく、忠実に最後まで従いました。そのように生きる者は、イエス様からの慰めと助けを経験することができるのです。

 

2.主は主権者

 クリスチャンであっても、「神が愛ならどうしてこんなことが起こるのだろうか?」という疑問を抱くことがあります。今回、スミルナ教会が体験した苦しみは悪魔からであると、イエス様は語っています。悪魔はスミルナの教会を憎み、貧しい状況に追いやったり、暴力で圧迫したり、潰してこの地上から消滅させようとしています。それは、逆を言うなら、スミルナの教会を恐れているからでした。「十日の間苦しめられる」(10)とあります。解釈としては、聖書の完全数は12であり、完全数に及びません。つまり苦しみがあっても、やがて終わりが来るという希望のメッセージとなっています。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」(マタイ10:28)十字架と復活のイエス様が、死ぬべき私たちを生き返らせて下さる希望があるのです。

2023年10月8日
天幕を広げなさい ルツ編

ルツ記2章8-12節 三宅友子副牧師

 神様がもともとイスラエル人を選ばれたのは、彼らをまずご自身の天幕の中に入れ、祝福を注ぎ、その祝福を今度は彼らが他の民族に広めていくためだった。ルツが1章でナオミに告白した言葉は「あなたの民はわたしの民 あなたの神はわたしの神。」ボアズの言葉にも信仰が感じられる。沢山の人を雇っているボアズだが、私があなたの行いに応じて報いてあげると言い出さなかった。ルツが「主の御翼のもとに逃れてきた」ということを信仰をもって受け止めているからこその返事をしている。

 ナオミは「主のもとに帰ろう」と言って、何も持たずに帰ってきた。ルツもそのナオミについて「主の御翼のもとに逃れてきた。」そしてボアズも、その信仰を持っている。神様がご自身の御翼、祝福の天幕に住まわせるのは、このような人たちである。「主よ、あなたしかいないのです」と頼る人、主の天幕にはそのような人たちが入れられている。

 神様はルツをご自身の御翼のもとで守るだけにとどまらず、彼女から、イエス様の祖先が生まれるようにされた。ルツはダビデ王の曾祖母にあたる。信仰のゆえに血筋を重んじ、神の民に囲いを設けられた神様だが、本流から離れたルツの心にも気づいておられた。落ち穂を拾わなければ生きて行けないような人、ルツをイエス様の系図に入れられた。私たちがイエス様を求めるなら、主は家庭環境も、出身も、学歴も、経済力も、体力もその他全てを飛び越えて、受け入れ、用いてくださる。いや、ルツの告白のように、生まれ故郷など全てを捨てても神様は従う価値あるお方なのだ。

 

 どの立ち位置にいたとしても必要なのは、「主よ、あなたが頼りです」とより頼むこと。周りの人を神の天幕へとお連れするのも、共に「主に頼りましょう!」と言うことだ。「神様なら助けてくださいます。神様なら救ってくださいます」と心から信頼しているだろうか。

 ボアズの言葉を噛み締めよう。「イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」

2023年10月1日
燭台の間を歩く方

ヨハネの黙示録2章1-7節 三宅真嗣牧師

 イエス様は弟子たちや群衆に向かって口述で教えを語りました。今回、ヨハネの黙示録では、復活のイエス様が7つの教会へ送った手紙が取り扱われています。イエス様は第一の教会エフェソにどんな大切なことを語ったのでしょうか?

 

1.使徒の教えを守る

 「右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言われる。」(1)とあります。解釈として七つの星とはみ使いのことであり、燭台とは、暗い世にキリストの光を灯す役割を負っている教会のことを意味しています。イエス様は、小アジアにある教会の間を歩き、時空を超えてすべてを支配される方です。さて、エフェソは、当時、エース級の人物たちによって牧会された恵まれた教会でした。まずパウロがいて、プリスカとアクラ、パウロの直弟子テモテです。エフェソ教会の人たちは、正統的信仰を持っていて感覚が研ぎ澄まされていたので、偽りの使徒たちを見破ることができました。現代の教会においても大切なこととして、聖書の教えを信じて共有できるなら、健康的な群れとなることができるわけです。

 

2.初めの愛に立ち返る

 エフェソを時代の中の教会とみるなら、イエス様の十字架があった30年頃から130年くらいまでの教会時代です。初代教会の頃、聖書の学びも祈ることも熱心で、交わりにも熱心でした。ところが、時間の経過とともに、お互いへの愛、神への愛が急速に冷えてゆき、第二世代、第三世代になるとだんだんと教会の中に隙間風が吹くようになっていきました。「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。 だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」(4)とあります。救いの原点に立ち返るために、へりくだり、方向転換し、イエス様への愛を取り戻すことが求められています。

2023年9月24日
天幕を広げなさい ギデオン編

士師記1章1-15節 三宅友子副牧師

 

 ギデオンは12人の士師のうちの5番目の人であり、マナセ族の代表。彼はミディアン人に奪われないように、隠れて小麦を打っていた。み使いが来て、「勇者よ、主はあなたと共におられます。」と言われる。ギデオンは確認のために、羊の毛の奇蹟をお願いし応えられる。ギデオンの呼びかけに多くの人が応え軍隊ができあがる。けれども、神は2回もその人数を減らされる。初めの3万2千人にくらべると1パーセントにも満たない。この一連の出来事の間、ギデオンの心はアップダウンを激しく繰り返したのではないかと思われる。

 最後に神様はGOサインを出しつつも、ギデオンを励ますために敵に夢を見させて話させる。神様は御自身のしもべの心を注視される方だが、神に歯向かう者たちの心をもご支配されている。海辺の砂のように数えきれないらくだを要する軍隊の中に、ギデオンの剣への恐れが蔓延していたのだ。持ち上げたり、なだめたり、押したり、引いたり、ギデオンというリーダーを立てるために、神はこれほどまでに関わられた。

自己卑下でもなく、傲慢でもなく、丁度良い心、へりくだりを保って、民をまとめるよう士師ギデオンに関わる神こそが、イスラエルの民を導いておられる。「勇士よ、主があなたと共におられます。」この最初の呼びかけに、主ご自身が誠実であられた。

 ギデオンを用いてなさった御業は、長い歴史には結果が残っていないように見える。しかし、神様の壮大な計画は続いている。途中の一つ一つの御業のために、神は今日も誰かに声をかけられるのだ。

 

 私たちのような者がほんのひととき主に従ったくらいで何が変わるかと思うだろうか。欠けの多い、まだ整えられていない者であっても、主は言われる。「勇士よ、主があなたと共におられる」と。混乱の時代に一瞬だけギデオンを用いて、ご自身の栄光を現わされた主は、今日もご自身の天幕を広げておられる。召されたなら、自分自身にも主に大いに関わって頂いて、御業のお手伝いに用いてもらおう。

2023年9月17日
健やかな信仰

ローマ書16章17-27節 三宅真嗣牧師

 健康を維持するために何かしていることがありますか?運動、食事、睡眠などいろいろと気を使わなければなりません。体と同様に、信仰のケアも大切です。どのような心得が必要なのでしょうか?

 

1.悪いものを取り込まない

 ローマの教会は、従順さがあるので、明るく、積極的で、楽しい雰囲気があったようです。ところが、欠点として、異端が入りやすい面がありました。昔も今も変わらない、異端の特徴があります。キリスト論、聖書論、救済論が福音の主張と異なっており、イエス様は単に人として見る、聖書を曲解する、救いは行い(修行や善行など)によると彼らは語ります。パウロは、そんな人たちと議論して、正統的な信仰を教え諭しなさいと語っておらず、「遠ざかりなさい。」(17)とお勧めしています。悪魔は手を変え、品を変え、近づいて来て、神の義や愛を否定し、破壊的、分裂を促そうとする思いを吹き込もうとします。

 

2.イエス様を喜ぶ

 パウロはローマ書を閉じるにあたって、神に頌栄を捧げ、イエス様への喜びで満たされていました。彼はローマ書を書き終え、一仕事を終わったということで、地中海を豪華クルーズで旅をし、のんびりと過ごして楽しもうという心境ではありませんでした。彼はエルサレムで苦難が待っていることを聖霊によって告げられていたのでした。どうして苦難が待っているのに、喜ぶことができるのでしょうか?たとえ、苦しみがあったとしても、その後には神の全き救いが確実にやっていることを知っていたからです。信仰には、素直さと深い思索のバランスが必要であるように、苦難の中にいる人に必要なのは喜びです。パウロの喜びがローマ教会に伝わり、さらにローマ教会の喜びが広がり、世界中で賛美の大合唱になり、私たち青葉教会でもイエス様への喜びの賛美が響いているのです。

2023年9月10日
天幕を広げなさい ヨシュア編

ヨシュア記1章1-9節 三宅友子副牧師

 「主は救い」という意味のヨシュアは、ギリシャ語では「イエス」。ヨシュアが約束の国に民を連れて行く姿を見て、メシア・イエス様の姿を思い描けるように旧約聖書に登場しているのだとも言われています。神様が間におられるモーセとの人間関係の中で、ヨシュアに引き継がれたものは何だったのでしょうか?神は「わたしのしもべモーセは死んだ」と仰りながら、次の一歩を踏み出されます。人の命が終わっても、神様の働きは終わりません。人は有限だが、神様は無限です。人が活躍できる間は短いが、神様は永遠なのです。

 神様がここでモーセから引き継いでほしかったのは、「神が共におられる」ことと、「主の律法を忠実に守る」こと。旧約でも新約でも「草は枯れ、花は散る。しかし神のことばは永遠にたつ」と宣言されています。歴史の中で聖書は何度も消し去られようとしてきました。しかし、いまだに私たちの手元にあるのです。神の約束は小さなことも大きなことも成し遂げられます。個人に対しても、教会に対しても、国に対しても、全世界に対しても、真実なる神の約束は成就します。だから、ヨシュアと共に、私たちも畏れをもって忠実に従いましょう。聖なる愛する神への信頼をもって、この書物に従っていきましょう。

 神様が、もう一つ何度もヨシュアに仰ったことは「強く、雄々しくあれ」です。一人一人が目の前の不安と戦い、神の約束の言葉に信頼することを選んで心を合わせ、一つ一つ勝ち取っていかなければならなかったからです。私たちも信仰の仲間と共に、天の御国に入る日まで共に戦います。最後まで神様を信頼し続けるために、聖書を読んだり、教会に集ったりすることを励まし合うのです。時間を勝ち取り、心を集中させ、信仰の交わりを続けるために、「強く雄々しくあれ」と主が言われます。聖書を真ん中にした信仰の交わりを続け、みことばから右にも左にもそれないためには、勇気がいるのです。

あなた自身が神が共におられることとみことばを忠実に守り行うことを選びますか?またそのことをこそ信仰者同士で励まし合いますか?

2023年9月3日
主にあってよろしく

ローマ書16章1-16節 三宅真嗣牧師

 パウロは、手紙を締めくくるにあたって、いろんな人たちの名前を挙げて、16回も「よろしく」と言っています。ところで、聖書は神の霊感によって書かれているとあるので、この挨拶に神様の御心があります。ここにはどのように福音が広がっていったのかが示されています。

 

1.信仰の働き人によって

 キリスト教はパウロ教だと揶揄されるほどに、パウロは超人的な働きをしたのですが、彼を支えてくれた人たちが大勢いたということが手紙から分かります。フェベとう女性が、羊皮紙に書かれていた手紙を運んでくれました。それなりの重量があり、雨に濡れないように、盗賊に盗まれないように、大切にローマまで運んでくれたました。プリスカとアキラは命がけでパウロの命を守ってくれた人たちでした。福音宣教と聞くと、代表的な人物としてパウロやイエス様の弟子であり使徒と呼ばれるペテロやヨハネなどを思い浮かべますが、あまり馴染みのない数多くの信仰の働き人がいました。こうして福音が連綿と繋がって、21世紀の日本にも届けられているわけです。

 

2.愛の共同体によって

 ローマ教会は一つの会堂にクリスチャンが何百人と集まったわけではなく、家々で集まる集会であり、そこでは家庭の温かさがあったようです。キリスト教は、交わりの中で、信仰的価値観を共有し、身に着けてゆくものであることを感じます。次のようにあります。「彼女はわたしにとっても母なのです。」(13) 母のような愛でパウロを助けてくれた人の存在がありました。私にとっても、教会に母のような存在がいることを覚え、神に感謝します。さて、挨拶に書かれているカタカナの名前を見て、ユダヤ人かローマ人か、貴族か奴隷かが判別できます。多種多様な人々が集まっていたようです。イエス様中心に集まる教会はイエス様を喜ぶ共同体です。そこで神の愛が生まれ、育ち、広がってゆくのです。

2023年8月27日
かの地へ向けて

ローマ書15章22-33節 三宅真嗣牧師

 一般的に、「布教活動」と聞くと、イメージとして、自分を押し殺し、我慢し苦しんでいる姿を想像してしまいます。ところが、宣教師パウロの心にあったのは喜びでした。どんな喜びだったのでしょうか?

 

1.フェローシップの喜び

 パウロはもともと宣教の鬼であり、あまりにも熱血だったので、同じチーム仲間バルナバと衝突しました。しかしやがて彼は愛の人に変えられ、教会に起こる諸問題解決に取り掛かることを優先するようになりました。献金を集め、財政的危機に遭っているエルサレム教会に持ってゆくにあたって、「エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。」(26)と説明しています。「援助」というギリシャ語は、「交わり」という意味の「コイノニア」であり、英語でいうところの「フェローシップ」です。地域教会は様々ですが、イエス様を主とするワンチャーチです。フェローシップの時、私たちの心に喜びが起こるのです。

 

2.主の御心に従う喜び

 ローマ教会への手紙から、パウロが生き生きと宣教活動している様子を想像することができます。さて、パウロはローマ教会に「神の御心によって喜びのうちにそれらへ行く」(32)ことができるように祈りの要請をしました。その祈りは叶えられました。しかしイメージとは違い、パウロは被告人として鎖に繋がれている身でローマに到着しました。イスパニア行きの願いは、ついに果たせなかったようです。しかし、イエス様から与えられた使命に生きたので、「あなたの人生の旅路はここまで」と言われたら、「わかりました」と平安のうちに納得したはずです。最晩年の手紙には、「世を去る時が近づきました。わたしは、決められた道を走りとおした。」(Ⅱテモテ4:7)とあります。私たちクリスチャンは喜びながら最終ゴールの天国に向かっているのです。

2023年8月20日
主を愛し、隣人を愛する 

ルカ10章25-37節 藤井義喜氏

 永遠の命を受け継ぐためにするべきことについて「律法には何と書いてあるか」と聞かれた律法学者は「『~あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と答えます。その答えに対してイエス様は「正しい答えだ。それを実行しなさい。」と言いますが、律法学者は、この時初めて、このみ言葉を自分事として捉え、自らのこれまでの行動を振り返ります。創世記の時代から、自分の罪、自分の過ちを認めることが難しい人間の性質に対して、神様、イエス様は、すぐにあなたは間違っていると指摘して正そうとするのではなく、あの手この手で語り掛け、私たち自らの思考の中で、罪や過ちに気づき、軌道修正するチャンスを常に与えてくださっています。そして、イエス様の前に素直になって、私はあの人のことをどうしても愛することができません。どうしたらよいですか。と祈れば、その気づきを実践に移すための道筋を整えてくれることでしょう。

 また、イエス様が正しいとされた律法学者の答えは、隣人を愛することだけでなく、主を愛することが含まれている事にも目をとめておきたいと思います。隣人を愛し、そして愛する隣人とともに主を愛し求めることを神様は求めておられます。マタイによる福音書18章18節~20節には次のように書かれています。「~どんな願い事であれ、あなたがたのうちの二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 青葉教会では小グループの活動を通して新しいメンバー、新しい隣人が加わることを願っています。小グループのメンバーで共通の願いを主に求めるならば、その願いは必ずかなえてくださいます。主の愛にまだ触れていない隣人に主の愛を伝えることができるよう共に祈り求めていきましょう。

2023年8月13日
天幕を広げなさい(モーセ編) 

出エジプト3章1‐15節 三宅友子副牧師

 ヨセフたちがエジプトに移住してから430年が過ぎた。モーセは奴隷であった同胞を助けようとしたことがきっかけで宮殿から逃げ、ミディアンの地で結婚し、しゅうとの羊の世話をして40年が過ぎた。

神は民の叫びを聞いておられた。選び生かしておられたモーセを忘れてはおられなかった。「聖なる方」としてご自分を現わし、モーセは神のしもべとして応答した。民に救いが必要なことは重々知っていたモーセ。けれども、40年前の熱い思いはなかったかもしれない。神はどうやってモーセの心を動かしたか。チャレンジの中にいるモーセに「神が共にいる」というしるしを与え、出エジプト、解放の目的が「この山で神に仕えるため」であるとはっきりと言われた。人が何かから解放される時「思いのままに自由に生きること」が目的になってしまうことがある。「神に仕えること」が目的ではない解放は、また別のものの奴隷となる繰り返しである。神はいつでも「造られたもとの姿」に回復しようとなさる。創世記の1,2章の祝福の中に私たちを取り戻そうとされるのだ。

 「わたしはある。わたしはあるという者だ。」とは、現に今、存在し、行動を起こす神であるということ。神は永遠の昔から何ものにも依存することなく、自らの力によってのみ存在しておられる。アブラハムの時だけの力強い神ではなく、総督ヨセフの時代にだけ偉大な働きをなさった神ではない。奴隷という弱さを覚える時に救い出してくださる神。イエス様も福音書の中で「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』。」と仰った。「わたしはある」という神様のお名前は、2023年にも変わることはない。

 神が100人の人を解放しようと思われたら、100通りの御業がある。全く「解放」に向かっているとは思えない時も通ったが、神様は語り続け、モーセたちは従い続けた。今、燃える柴の前にいる自分自身を想像してみてほしい。神様は皆さんを解放し、ご自分に仕えさせるために動き出される。また、皆さんが心にかけている人々を解放して、神様に仕えさせるために「わたしはある」と言ってくださる。

2023年8月6日
任務遂行

ローマ書15章14-21節 三宅真嗣牧師

 信仰生活は一方的な受け身ではなく、一方的な自発でもありません。目に見えない神様からの語りかけがあり、私たちの応答があります。さて、私たちの信仰生活に、どんな意味と目的があるのでしょうか?

 

1.キリストの聖さに近づく

 教会は決して平和な楽園ではなく、仲間同士、心傷つけ合うことも生じます。パウロは書簡を締めくくるにあたって、ローマ教会へ語りかけています。「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。」(14) ソーシャルネットの世界で、私たちは善意を表し、情報交換をすることができます。しかし、リアルな対面でなければ、やはり、パウロが言うところの「戒め合う」という関係にはなれません。教会は仮想ではなく現実の世界に生きる者たちが向き合う場所であり、教会の交わりを通して神の聖いご性質に近づいてゆくことができるのです。

 

2.キリストの御心を表す

 パウロが10年弱で、福音をローマ帝国内の東の地域をあまねく宣べ伝えたというのは驚くべきことです。もしパウロの宣教が人からの賞賛やお金を得るという目的であるなら、これほどの働きをすることは不可能だったはずです。彼は「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。」(18)と語っています。ところで、元プロ棋士の加藤一二三名人は熱心なカトリック教徒で、インタビューでは必ず自分がクリスチャンであることを証ししています。30歳の頃、将棋の世界に行き詰まりを覚え、もがきながら一つの答えを見出しました。確かな最善の手を打つことの大切さです。加藤一二三さんは、同時に「人生にも確かな最善な手があるのでは?」と探し、見つけた答えがイエスキリストでした。イエス様の御心を求め、イエス様を表そうとする時、神が道を開いてくださいます。

2023年7月30日
天幕を広げなさい(ヨセフ編)

創世記37章1-11節 三宅友子副牧師

 現代も「昨晩こんな夢を見たよ」と家族と話すことはあるかもしれないが、ヨセフ家族のように真剣になることはまずないでしょう。弟の語ることが事実となることへの恐れもあり、兄たちは嫉妬しました。なぜ、全てのことをご存知の神様がこのタイミングで夢を見せられたのか。3代目ヤコブでもなく、兄たちでもなく、ヨセフ自身でもなく、神である主が主権を握っておられることを伝えるための夢であり、タイミングでした。
 私たちは何か問題がある時に、AかBかと答えを求めます。学びや経験、周りの意見も含めて、支えとなる答えを見つけようとします。けれども、私たちと共におられる神様がCという答えをくださることがあります。ヨセフの人生を見ていると、神様の答えの中をヨセフが生き切ったことが分かります。忠実な奴隷生活の中で主人の妻からひどい扱いを受けて地下牢に投獄されて数年たった時に放った言葉の中に、そして兄たちとの再会の時の言葉の中に、そのことが表れています。

 ヨセフは波乱万丈な人生を送ったが、その人生はダメになりませんでした。主が共におられる生涯として、大いなる救いが成し遂げられていきました。家族の命が救われ、民族が存続し、全世界の救い主がそこから生まれたのです。父の偏愛を批判することも、兄を憎むことも選択できたのですが、「神が共におられる」ということが、そのどれをも避けさせて、使命達成へと導きました。私たちの神様は一人の人の生涯にそんな関わりをしてくださるお方です。AかBかで人は悩みますが、神様のご用意されているCという計画、導きをもって、「わたしがあなたの生涯をリードしよう!」と入り込んでくださるのです。
 

 今抱えている課題に対して、最も近いズームで問題を見つめることをやめましょう。私たちの生涯もヨセフのように人類救済計画の中に置かれ、神がご自身の天幕を広げていかれます。神があなたの生涯を「大いなる救い」のためにお用いになることを承諾しますか?

2023年7月23日
揺るぎない約束

ローマ書15章1-13節 三宅真嗣牧師

 喜びの時とはどんな時でしょうか?究極的に言うなら、創造主なる神と出会う体験こそ幸いであり、神に賛美をする時に、深い喜びを感じることができます。パウロは書簡を閉じるにあたって、どんな神を示そうとしたのでしょうか?

 

1.希望の神

 ある女性タレントがテレビで語っていました。小学生の息子に「みんな、いつか死ぬのに、どうして僕を産んだの?」と尋ねられたそうです。その方は厳しく子育てすることで有名です。この時は、さすがに答えに窮して、黙ってしまったそうです。小学生でも、最終的にみんな死を迎えるということを知っています。聖書が示している希望は少し心が軽くなるというレベルではありません。神がキリストによる復活の命を与え、苦しみ悩みは解決され、永遠の喜びの世界に入ることができるわけです。聖書に書かれている信仰者の人生、何よりもキリストの姿を見ることで、今、人生の中で味わっている苦しみに意味があることを受け止めて、慰めを受け、神による揺るぎない希望を持つことができるのです。

 

2.栄光の神

 ローマ書はパウロが書いた手紙の中で最も長い書簡です。最後に示したのが、礼拝の風景であったのは不思議ですが、当然の帰結であると感じます。ユダヤの民が、エルサレムの都に上り、神殿で礼拝することを何よりの喜びとしていたように、イエス様によって罪贖われた者たちみんながそのゴールに向かって進んでいます。「私は何のために生まれたの?」その大もとの問いかけに、聖書は、「私たちを創造なさった神を礼拝するため」と明確に示しています。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(13)とパウロは祈りました。神に栄光を表す時、最高の喜びと感動があるのです。

2023年7月16日
掬い上げる主

ルカの福音書10章38-42節 高橋 寛幸兄

 イエス様が弟子たちと宣教しながらエルサレムへ向かわれる途上で、マルタとマリアという姉妹が住む家に立ち寄られた話がルカによる福音書に書かれています。

イエス様一行のもてなしに忙しい姉のマルタが、なにも手伝わずにイエス様の話に聞き入っているだけの妹のマリアを面白くなく思い、我慢できずにイエス様に直接訴えるという話です。

 イエス様は、マルタの思いを気遣いながらも、「必要なことはただ一つだけ」妹のマリアは「良い方を選んだ」と、マリアのしていたことを肯定しました。

 姉が一人で立ち働くのを横目で見ていたマリアは、それを手伝うこともできない自分を責めるような、姉に対しての後ろめたい気持ちで一杯だったのではないでしょうか。それでもイエス様のお話は聞きたかったのです。そんな弱い者の気持ちになっていたマリアを、イエス様は「良い方を選んだ」と言って掬い上げてくださいました。

同時に、姉マルタに対してもその心を気遣い、妹マリアを責めてはいけないよと優しく諭してくださいます。「必要なことは一つだけ」という言葉でマルタの重荷をもおろしてくださるのです。

 イエス様がマルタとマリアに言われた言葉は、私たち一人一人に言われている言葉でもあります。私たちに必要なたった一つのこととはなんでしょうか。それは「イエス様の方を向く」こと、「イエス様の話を聞く」ことです。

そして、イエス様はご自分の方をちゃんと向いた者を必ず掬い上げてくださいます。弱い者も強い者も、怠惰な者も勤勉な者も、そして正しい者も正しくない者も、誰一人置き去りにすることなく掬い上げてくださるのです。

 今また、改めて神様、イエス様の方に向き直ってみたいと思います。

2023年7月9日
天幕を広げなさい(ヤコブ編)

創世記28章10-22節 三宅友子副牧師

 「アブラハム、イサク、ヤコブの神」の三代目ヤコブの物語。お家騒動の中で殺意に満ちた兄から逃れるための弟の逃避行の場面。不安いっぱいのこのタイミングで、誠実な神がヤコブに個人的に現れてくださいました。叱責のことばはひとつもなく、ただあふれるほどの祝福の保証のことばのみをもってご自身を表されました。ヤコブが見た階段は神の側からの接近であり、あわれみのしるしです。祖父アブラハムに約束された祝福はヤコブを契約更新されました。これまでは、神の約束をなんとか自分の手でと、母と一緒になって父をだましてまで実現させようとしてきたヤコブ。しかし、ここにきて自分が主語、母が主語ではなく、神が主語となる人生がスタートしたのです。

 今日、この聖書箇所から受け取りたいのは、祝福の内容というより、その一歩手前の「主ご自身がヤコブに会ってくださった」ということです。神様は一対一の関わりをなさって、天幕を広げるために必要な内なるエネルギーを直接本人に注ぎ込むような関わりをなさることがあります。神様が私たちの想像をはるかに超えて、青葉教会を用いてなされたい御業があります。今の私たちに必要なのは、「神がここにおられたんだ!」という体験。私たちに目を留め、計画を持ち、大胆に導こうとされている神との出会いです。「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。(ヨハネ1:51)」地上の私たちと天上の神との交わりがキリストによって回復し、神がこのところにおられることを私たちが気づくように現れてくださいます。

 

 信仰二世、三世、四世の皆さんは個人的に神様と出会っていますか?また、クリスチャン一世であったとしても、もしも、友に任せきった信仰生活であるなら、一人旅に出る必要があるのではないでしょうか。一人っきりで神様に向かって祈り、聖書を開いて、御言葉を受け取る時間を大切にしましょう。神様にとって私たちはアブラハム、イサク、ヤコブのような者です。神様の選びは変わらないのです。

2023年7月2日
向上

ローマ書14章13-23節 三宅真嗣牧師

 ネットでこんな文章を見ました。「自分でしっかり信仰をもっていれば、教会に行かなくてもいいのでは?」この質問をすることになった背景には、教会の中で嫌なことがあり、こんな疑問につながったのかもしれません。さて、パウロは教会、すなわちイエス様を信じる者たちが良好な関係を結んでゆく大切さを語っています。

 

1.安心感のある場所

 聖書には、「毎週、教会に通っていなければ天国に入ることはできない。」と書いておらず、救いの条件として記されているのはイエス様を救い主と信じることにあります。どうしてパウロは教会の大切さについて語ったのでしょうか?よく言われるのは、教会は神の家族です。私たちがこの地上で生を受けた時、自分の誕生を喜んでくれたお母さん、お父さんがいて、家庭の中で安心感を覚えながら過ごしていました。パウロは教会がどんな人にとっても、安心感を覚える場所になるべきことを伝えています。何でも語り合い、何よりも楽しい場所、それが教会です。

 

2.人から信頼される場所

 ディズニーランドに行くと不思議な気持ちになります。例えば、スプラッシュマウンテンに乗るために、長い列に並び、1時間以上待たされても文句を言う人はいません。炎天下でも、寒くても、雨が降ってもみんな笑顔です。ディズニーの夢の世界に入っており、堪能しているので、あらゆる不都合なことも大きな問題になりません。教会の中において私たち一人ひとりは当然、考え方、価値観、生活スタイルなど違いがありますが、教会が聖霊による義と平和と喜びを味わっているので、家族として受け入れ合い、仲間になることができるのです。神の国は聖霊の喜びがあります。もし内部でいがみ合いがあるなら、そのまま外に悪いイメージとして広がりますが、関係に麗しさがあるなら、そのまま外に良いイメージとして広がってゆくのです。

2023年6月25日
天幕を広げなさい(アブラハム編)

創世記12章1-5節  三宅友子副牧師

 お開きしたのは、アブラハムが引っ越しをする場面です。父テラと共にウルから家族で出発しましたが、カナンまで行かずに、ハランで定住してしまいました。諦めていない神様は、アブラムが75歳の時に、「わたしの示す地に」向かうよう明確に告げられます。神様は長い年月をかけて、アブラムをウルから「わたしの示す地」にまで導かれました。アブラムは、主にのみ望みをおく信仰をもって、ハランをも出発し、7節で「ここだ」と言われる地にたどりつき、天幕を広げるのですす。

 アブラムの旅立ちには、①生まれ故郷、父の家を離れる。②知らない場所、新しい場所に向かう。③75歳で家族もいる中での引っ越し。④家族への説得。⑤新しい人々との出会い。⑥見えない神からの導きに従うというチャレンジがありました。これらはすべて「穏やかな日常」にはないことです。彼がどれほど神様に信頼したか、最善を与えられる神を知る者の信仰による行動だったかが分かります。

 

 しかも、その地に行ったなら、そこで「祝福の源となるように」と言われています。人に注がれたなら、その人の内であふれだし、周りにまで影響を与える性質が「神の祝福」にはもともとあります。私たちが受け取った「福音」は祝福。およそ4000年前アブラハムが受け取った祝福と私たちが受け取っている祝福が続いています。神の祝福とは「唯一まことの神がおられること」「その神のことばである聖書そのもの」そして、「救い主イエス様、聖霊、教会」です。神の祝福は私たちのうちにとどまって終わるようなものではありません。

 

 主に祝福され、そして祝福の源となるために、私たちに求められていることは何でしょうか。それは、ただ主への信頼です。アブラハムがそうであったように、時には失敗しながらも、主への信頼を全うすること。私たちを救い出し、「祝福の源となるように」と明確に語られる神様にあなたは何と応答されますか?

2023年6月18日
ハーモニー

ローマ書14章1-12節 三宅真嗣牧師

 教会は有機体であり植物のようなものです。病気を取り除けば自然と成長してゆくと言われています。パウロはローマ教会内に不和があることを指摘し、病気を取り除こうとしています。教会を健康に保つ秘訣とは何でしょうか?

 

1.柔軟さ

 これまでパウロは神学者としてキリストの救いの原則について語っていましたが、ここにきて、牧会者として教会に、お互いに些細なことで非難し合うのはやめましょうと語っています。パウロ自身は、熱心なユダヤ教の家庭で生まれ、自ら律法学者として聖書を学び、厳しく自分を律して信仰生活を送ってきた人物です。もしそのままのスタイルでいたなら、シリア、小アジア、ヨーロッパの地域で、あんなに大きな働きをすることはできなかったことでしょう。私たち教会は聖書が神の言葉であると頑固に信じて守っていきますが、その他の生活スタイルなど枝葉のことについては、柔軟になることが重要です。また気になる点があっても細かいことに干渉し合わないという知恵が必要です。

 

2.キリスト中心

 イザヤ書51章に「切り出された岩、掘り出された穴を見よ」という言葉があります。自分の救いの原点を見なさいということです。それを見失った時、教会が不協和音になり、イエス様そっちのけで争い合いがあったり、あるいは、冷ややかな雰囲気になってしまったりするのではないでしょうか?「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(9)とあるように、十字架と復活の主が私たちを呼び集め、一つにして下さいました。イエス様は時空を超えて主であられる方であり、この方を中心にしてゆく時、教会に調和が生まれ、健康になり成長してゆきます。教会全体の喜びが自分の本当の喜びになってゆくのです。

2023年6月11日
新しい祝福

イザヤ書54章1-3節 三宅友子副牧師

 今日のみ言葉は課題を抱える本人に向かって「喜び歌え」と命じます。イエス様の言葉の数々もこのようなショックを与えるものが沢山ありますね。聖書は信仰の書物です。語られる方への信頼があってこそ、受け入れることができるメッセージが沢山あります。

 

 イスラエルは歴史の中で奴隷時代や捕囚時代など、何かを生み出す力もなく、されるがままの国の状態を通りました。その時代を不妊の時だと表現しています。災害、あるいは罪によって引き起こされた不毛の時代です。

 この聖書箇所が今年の年間主題聖句として総会で決議され、私たちは今年度を始めました。天幕とは教会、キリストのからだです。次を生み出せない状況が、現代の教会にもあります。神様はそんなことは分かっておられるのです。現実の状況、痛み、苦しみはご存知です。主は「分かっているよ!、、、喜び歌え、歓声をあげ、喜び歌え」と仰るのです。

 神様がなさるのは、「子どもたちが多くなる」ということです。また「子孫が土地を継ぎ、荒れ果てた町々には再び人が住む」ということです。私たちがするのは、広げることです。綱を伸ばすことです。どんな方が私たちのテントにいらしても私たちは迎え入れますが、十字架という杭をその都度その都度共に打ち込むことが、倒れない教会となります。私たちの身代わりに苦難を引き受けてくださった方がいるというイザヤ53章を心に刻んで、私たちはキリストのからだとなっていくのです。

 惜しまず綱を伸ばしましょう。私たちは誰のもとに天幕を広げていくべきか、あちらなのか、こちらなのか、あの人なのか、この人なのか、今は分かりません。全ての方に救いの可能性があるからです。とりなしの祈りという綱を伸ばしましょう。

 

 新しい祝福を期待し「喜び歌おう」と思われた方はおられますか?神様が青葉教会でそのように働いてくださると信じて、喜び歌いますか?

2023年6月4日
締めくくり

ローマ書13章8-14節 三宅真嗣牧師

 クリスチャンは「時」を知っている人たちと言えます。「時」とは定年退職などのことでなく、主イエス様が再び、地上に帰って来られる再臨のことです。私たちはイエス様の再臨を意識しつつ、どう心がけて過ごしたらいいのでしょうか?

 

1.愛を表してゆく

 もし私たちが深刻な病気を抱え、余命を宣告されるような身だったら、残りの人生をどう過ごすでしょうか?やはり家族に対する愛を伝え、親しい友人たちに感謝の気持ちを伝えるのではないでしょうか?パウロは愛について語っていますが、高い倫理観を持って、清らかなクリスチャン生活を送りなさいという道徳の話をしたわけではありません。終わりが近づいているので、互いに愛を分かち合い、キリストを伝える目的のために愛を表してゆこうと勧めているわけです。この地上は過ぎ去り、新しいステージが開かれてゆきます。愛を表すことこそ、限りある地上の生涯で、最も重要なこととなっています。

 

2.身を正す

 一般的に、「世の終わり」と聞くと、破滅、人類滅亡というイメージがありますが、クリスチャンにとって、終わりの時とは、救いの時であり、身体と魂が完全に贖われる日でもあり、その時が来れば、栄光の体が与えられ、罪から解放されて生きることができます。

 ところで、大晦日になると、いつもと違う気持ちになります。新年を迎えるにあたって、風呂に入って身を清め、さっぱりして、新しい気持ちで次の日を迎えようとします。現代、パウロが生きた時代より、さらに闇が濃くなっており、終わりが近づいてきていることを感じます。朝を迎える直前、最も闇が濃いように、新しい光が訪れようとしています。私たちは、終わりを意識することで、新しい始まりのために身を正し、備えることができるのです。

2023年5月28日
わたしの持っているもの

使徒言行録3章1-10節 三宅真嗣牧師

 ペトロは有名な言葉「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(7)と語りました。教会が持っているものとは何でしょうか?

 

1.受け継いだもの

 聖霊は突然、やって来られたと2章2節に書いてあります。しかし突然ではありましたが、全く予期しなかったことでも、偶然起こったわけでもありませんでした。イエス様が待っていなさいといった事が、五旬節のペンテコステの時に成就したということです。旧約聖書ヨエルに、終わりの時代、聖霊が注がれることが約束されています。ペトロは立ち上がって、聖霊降臨は約束の成就であると説教しています。私たちは聖霊に心を開き、安心して信頼することができるのです。

 

2.人を変えるもの

 生まれながら足の不自由な男が癒されたという奇跡がありました。おそらく、担架のようなものに乗せられ運ばれたことと思います。彼は礼拝に来る人に施しを乞い、いくらかのお金をもらうために門の前に置かれていました。それまでの人生を受動的に生きるしかなかったわけです。神の奇跡によって、変えられ、積極的に自発的に神を賛美し、神殿内部に入っていきました。同様に、私たちはイエス様の福音によって、人生をプラスに変えられてゆくのです。

 

3.受け渡すべきもの

 目には見えませんが、イエス様を表す聖霊がおられ、教会を導いておられます。パウロは、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」(Ⅱコリ4:7)と語りました。私たち教会は受けた宝の福音を、また次世代に受け渡す使命があるのです。

2023年5月21日
偉大な神

使徒言行録2章1-13節 三宅友子副牧師

 十字架、復活、昇天、、、神の偉大な御業を経験した弟子たちは、託されたミッションに対しても、神様の時を待つしかなかったのでしょう。イエス様が必ず約束を成就してくださるという確信もあったのでしょう。

 

1.約束を成就する偉大な神

 五旬節はユダヤの三大祭りの一つです。神様はたった1日のタイミングを待って、約束を成就されました。この個所の聖霊の満たしは、聴覚的にも視覚的にも、響きとしても、風が吹くというような自然界的にも、はっきりと分かるものでした。偉大なお方が、私たちが理解できるように寄り添って働きかけてくださるのです。受け取る私たちの側は、心を開いてお任せする必要があります。「どうぞ、あなたの思いのままに、約束を成就してください」と心を開いて待つのです。

 

2.神の偉大な御業のために一つとされる

 聖霊が降る目的であった「地の果てにまでイエス様の証人となる」ことも即始まりました。五旬節には信心深いユダヤ人があらゆる国から帰って来ていました。偉大なお方は、弟子たちにめいめいの生まれ故郷の言葉を語らせました。母国語を用いられたということは、主がどれほど人々の心を開きたかったのかということです。「この邪悪な時代から救われなさい」という勧めがすぐ後にあります。バラバラの私たちが、神が治める御国で一つにされるというみこころです。

聖霊は「神の偉大さを示したい」「イエス様を指し示したい」お方です。三位一体の神は一つです。イエス様を否定したり、神様に反抗させたりするような霊にはくれぐれもお気をつけください。

 

 今年のペンテコステまで、あと1週間です。教会総会も開かれ、今年度の計画も進んでいきます。弟子たちのように、私たちが主の働きを成していくことができるために、聖霊の満たしを求めて祈りましょう。

2023年5月14日
統治

ローマ書13章1-7節 三宅真嗣牧師

 「権威」と聞くと、独裁者、暴政、民主主義の破壊など、悪いイメージを抱いてしまうかもしれません。パウロは、「上に立つ権威に従うべき」(1)と語っており、とんでもない暴論のように思えます。この言葉にどんな思想的背景があったのでしょうか?

 

1.本当の統治者は神

 パウロがキリスト教を宣教した時代、代々の皇帝はみんな有能で、善良で正しい政治家だったのかというと全くそうではありませんでした。パウロがローマの信徒への手紙を書いたのが、AD57年頃で、その時の王は悪名高いネロ皇帝でした。いつ殺されるか分からないという緊張感の中、「今ある権威はすべて神によって立てられたもの」(1)と語っています。当時の教会リーダーたちは知っていました。地上の王たちは絶大な権力を保持しているように見えても、本当の統治者ではなく、背後に神がおられます。真の統治者である神を感じることで安心感を抱くことができるのです。

 

2.本当の国籍は天国

 なぜ、パウロやペトロなど教会のリーダーたちは、教会迫害が強まる中、「ローマ帝国打倒!」と言わず、「良心のためにも、これに従うべきです。」(5)と語ったのでしょうか?その思想的背景にあったのは、宣教が広がっているならそれでよしということです。現代、ある国では、教会に警察が頻繁にやって来て、脅迫や嫌がらせなど絶え間ない迫害と圧力を加えています。しかし、むしろ福音がどんどん広まっていると報告されています。日本に住む私たちも、悲しいこと、失望感を抱くようなこと、途方に暮れるような感情の中、本当の救い主と出会う体験をします。覚えておきたいことは、私たちは死ぬべきものであり、この地上も永遠ではありません。むしろ天国のほうがリアルであると聖書は語っています。

2023年5月7日
祈りのうちに

使徒言行録1章12-26節 三宅友子副牧師

1.祈りに専念する

 弟子たちは「待ちなさい」と言われました。「まだ行動するな」ということです。行動する時がまだ来ていない朝早く祈っておられたイエス様の姿を思い出したのかもしれません。「泊まっていた家の上の部屋」で心を合わせて熱心に祈っていました。「父の約束のものをください。待っています。」「全世界に出ていきます。力をください。」「あの方がキリストの弟子とされますように」と祈っていたのでしょうか。問題が起こったから祈る、日常的に祈る、誰かのために祈るというものとは違う祈りです。方向性は決まっていて、それが成し遂げられるのを待つために祈っているのです。まさに「みこころがなりますように」という祈りです。祈りというのは不思議です。心を合わせて祈っているうちに、神様のみこころが成されていくのです。

 

2.イエス中心へと導かれる

 数日祈っているうちに、ペテロはユダのことを示され、立ち上がりました。このことに関して、皆の心は悶々として、様々な感じた方があったことでしょう。イエス様は復活して帰ってきてくださったけれども、ユダのことは弟子たちにはどうすることもできませんでした。ペテロたちが導かれたのは、ユダの代わりに誰かを立てることでした。神様はいつも神中心です。誤解のないようにお伝えしますが、神様にとって私たち一人一人は代わりのいない尊い娘であり、息子です。けれども、奉仕の役目としては時として代わりを立てられるのです。へりくだって、主の憐みのうちに「復活の証人」としての役目を果たしたいものです。私たちに託されていることは人ではなく神の栄光を表すことだからです。

 

 さあ、私たちも教会の上に、家族の上に、神様のみこころが成るように祈りましょう。祈りつつ、待ちましょう。この時の弟子たちに目を留めておられた神様は、今の教会にも同じように目を留めておられます。

2023年4月30日
神様の大きな御手の中で

イザヤ書44章1-8節 松倉善浩執事

 

 イスラエルを選び、あなたを造り、母の胎内にいるときから形造り、助ける主は愛をこめて語りかけておられます。わたしの恵みは子孫に受け継がれ、また異邦人も主を褒めたたえるようになると告げています。神様に造られ・守られ・助けられたにもかかわらず、何度も何度もそむいたヤコブです。そんな彼に神様は、その罪をかすみのように拭いさり忘れると言われ、主のもとに立ち返るように招かれました。その神様は私たちも造り・守り・助けてくださります。そして、イエス様の十字架によって罪を許してくださり、救いへと招いてくださるのです。その招きに答えたとき、私たちは主のものとされます。そこには主と親しく交わりの時が生まれ、イエス様がいつもそばにいて、私たちを助け導いてくださいます。さらに主は、私たちの乾いた地に、水をダイナミックに注がれるのです。その水は、枯れることなく生き生きとした喜びに満たしてくださいます。 しかし主のものとなったにもかかわらず、私たちは自己中心で欠点だらけのものであり、どれほど神様に背いているでしょうか。悩みや苦しみが大きくなると神様の前にもっていきます。その状況がよくなると神様から離れてしまいます。離れるだけならいいのですが、忘れてしまいます。けれども神様は、離れることも忘れることもなく愛し続けてくださるのです。神様は、○○ならあなたを愛するとは言われません。もし○○ときあなたを愛するとは言われません。ただ、「あなたを愛する」とだけ言われるのです。私たちの前にいて、背後にいて、大きな御手をのばし守り助け支えてくださる神様に、寄りすがりゆだねて歩んでいきましょう。

2023年4月23日
約束通り

ルカによる福音書24章44-53節

1.イエス様の生涯は約束通り

 復活なさった主は、神のご計画の中を歩み続けておられる昨日も今日もいつまでも変わらないイエス様です。天の父が約束を違われることはないのですから、モーセの律法と言われる「創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記」も、預言者サムエル、イザヤ、ダニエル、ミカやゼカリヤが語った昔の預言も、イエス様が十字架の上で引用された詩編の言葉も、実現してきました。聖書がイエス様を指し示し、復活したイエス様ご自身も聖書を大切に紐解かれる。私たちの信仰にはイエス様を信じ、聖書を頼りとするということが必要です。イエス様はみ言葉を語りながら、弟子たちの心の目を開いてくださいました。イエス様は聖書からご自身のことを気付いて欲しいと願っておられるのです。私たちもイエス様に心を開き、とこしえに変わらないみ言葉に気づけるようにして頂きましょう。

2.聖霊のことも約束通り

 「主の証人となる」「高い所からの力に覆われる」ということが、私たちにも実現します。それまでのことが約束通りになったのと同じように、それと同じ確実さで、世界伝道の聖書の言葉もまた実現してきましたし、これからもしていきます。弟子のなすべきことは何でしょうか。約束を信じて待つことです。

 

 感染対策の期間が終わって、活動再開していくことへの恐れがあるでしょうか。見方を変え霊的に見れば、主が私たちをそういう社会に遣わされようとしていると言えるでしょう。主は弟子と共に世の終わりまでおられるお方です。私たちは「イエス様なら解決をくださる」「イエス様なら救ってくださる」と宣伝する証人なのです。主の弟子が弱いのは当たり前、欠けていることを、神様は百も承知です。高い所からの力に覆って頂きましょう。そして、あらゆる国の人々との出会いの場に遣わされていきましょう。イースターを喜び祝った私たちは、主の証人です。

2023年4月16日
愛の成長

ローマ書12章9-21節

 愛をテーマにしている流行歌、小説、映画が世間に溢れています。どんな人でも愛が重要であることは十分承知しております。ところで、パウロはローマ教会に愛を勧めていますが、どうしたら愛を実践することができるのでしょうか?

 

1.聖霊によって

 キリスト教の教えの特徴は、自分の力でなく、聖霊なる神の力によって成し遂げることにあります。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(14-15) 迫害する者のために祝福を祈れと教えられているのは、キリスト教のみと言われています。また、私たちは喜んでいる人の話を素直に喜ぶことができない罪の性質を持っています。迫害する人を祝福することも、喜ぶ人と共に喜ぶことも人間の力ではなく、聖霊の導きの中で、可能となります。聖霊が私たちの霊に触れ、燃えあがらせ、愛を実践するよう導いてくださるのです。

 

2.キリストが模範

 イエス様はこう語っています。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」(マタイ5:37) 教会は赦し合い、受け入れ合う前提とし、良いことは良いこと、悪いことは悪いこととはっきりさせることを大切にしています。ところで愛を成長させていくためにはどうすればいいのでしょうか?人と関わらないようにして、家にこもっていれば、人との争いは起こりませんが、愛はひ弱な状態のままです。やはり人との積極的な関わりの中で愛は鍛えられ、育ち、強められてゆきます。「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」(16) これはイエス様の人生そのものです。神が人となり、己を低くして人と交わって下さいました。イエス様は私たちの模範です。

2023年4月9日
神の子、復活

マタイによる福音書28章1-10節

 

 イースターおめでとうございます。イースターがなぜお目出たいかをお話します。今から2000年前、キリストの十字架のもとで百人隊長は「イエス様が神の子だ」と告白しました。残念なのは、それがイエス様が死んだ時だったことです。死んでしまった神には助けてもらうことができません。死は、全ての終わりです。取り返しのつかないものです。そして、私たちは皆、死を迎えるのです。私たちは死を前にして何の力もない弱い者です。

 

 ところが、神の子は死で終わりではなかったのです。そのことを体験した人たちが、聖書に登場します。十字架刑を遠くから見守っていた大勢の婦人たちとイエス様の関係は死によって終わりましたが、神様による始まりが与えられたのです。28章に書かれています。天使は、「かねて言われていたとおり、復活なさった」と言いました。「またイエス様と会える」と約束してくれたのです。イエス様はいつもと同じように声をかけてくださいました。イエス様の声を聴いて、そのお姿を見て、彼女たちの喜びはどれほどだったでしょうか。死からの復活は、全ての終わりからの復活を意味します。その源であるイエス様に会うことは、人をも復活させることができるのです。マタイの福音書の最後でこう約束されています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と。イエス様との終わりのない交わりを続ける人々によって、今日までこの聖書の言葉が受け継がれてきました。2023年もイースター礼拝が続いているのは、イエス様が今も生きておられる神の子だからです。

 

 お墓は空でした。マリアたちに会い、弟子たちを力づけたイエス様から、2000年以上も復活の命が注がれています。イースターに死に打ち勝ってくださったこの方以上に神である方はおられません。そして、この方を求めるなら、私たちは親しく日常生活を一緒に歩んで頂くことができるのです。

2023年4月2日
十字架の王

マルコ福音書15章33-41節

 十字架の場面は、多くの人にとって理解し難い話です。「どうして神の子が十字架に架からなければならなかったのか?」「どうして、これが人の救いと関係があるのか?」分かりません。十字架に架かった神の子イエス様とはどんなお方なのでしょうか?

 

1.苦しみを味わった方

 もし、神の子が天上から、人の悲しみや苦しみを見ているだけならどうでしょうか?いくら、「私はインマヌエルの神である」と語られも、私たちとしては「しょせん他人事であり、私の苦しみなんて分かりっこないでしょ。」と思うのではないでしょうか?イエス様は、人が味わう苦しみを実際に体験しました。人から罵られ、暴力を振るわれ、嘲笑され、仲間からも裏切られ、家族からも誤解され、最終的には、十字架での肉体の痛み苦しみを味わいました。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(へブル4:15) 十字架の王は、私たちに共感し、友となってくださるお方であり、私たちは、その方に目を向けることで心癒されるのです。

 

2.神と人との仲介者

 イエス様は、私たちが未だ経験したことがない神に捨てられるという苦しみを負い、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(34)と叫ばれました。「どうして神の子が、生涯最後の場面で、こんな恨みの言葉を発したのか?」と、多くの人は疑問に思います。こんなことを想像してみましょう。私たちが死んだ後、神の法廷に立ちます。そこで私たちが有罪判決を受け、法廷から退去させられるとしたら、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶことでしょう。私たちの完全な身代わりとなってイエス様が叫び、死んで下さったことで、私たちは無罪放免となり天国に迎え入れられるのです。

2023年3月26日
主と弟子

マタイによる福音書11章25-30節

 この有名なみ言葉はいったい誰に向かって語られているでしょうか。

 

1.主の喜び

 イエス様に対して、また父なる神様に対して「幼子のような者」とは、神様に単純に信頼し、全面的に人生を委ね、ついてきた弟子たちのことでしょう。彼らがイエス様に従うという選択をしたこと、そしてイエス様を通して父なる神様を知っていく姿を見て感動されました。天の父がイエス様に渡された人々が、イエス様を通して父なる神様を知る、これが神様の方法であり、知恵です。律法の専門家たちはそれが分からなかったのですが、イエス様と寝食を共にする弟子たちはそこを受け入れていったのです。信仰を育むために、イエス様と日常生活を共にすることがいかに大切か伝わってきます。私たちがイエス様を通して父なる神様と交わりを持つ姿を、イエス様はこんなに喜んでくださるのです。

2.弟子の安らぎ

 弟子たちが父なる神を知る話のすぐ後で「疲れた者、、、」と言われています。行くべき方向を示す者がいないまま、的外れな働きをしてさまよう人々は、疲れ果てています。神ではないものを神として、それらに仕える時、それは重荷でしかないでしょう。託された荷物の負い方が違っていると、これもまた重荷となります。あるいは、神様が共に担おうと仰っているのに、「大丈夫だから!」と一人で担おうとする時にも、重荷となるでしょう。弟子である私たちが主のもとに、赦しと助けを求めてくると、主は休ませます。すっかり休んで、立ち上がれるようになったら、主は導きを与えます。主がへりくだってくださっているので、私たちは主から学ぶことができるのです。

 

 神様の前に幼子のようになりましょう。今日は安息日です。父なる神様のご臨在の中でゆっくりしましょう。神様はあなたの霊も、精神も、肉体も十字架の主によって癒すことができるのです。

2023年3月19日
十字架から降りず

マルコ福音書15章21-32節

 日本では元皇族であっても、品位を保ち、安全を確保するためにお金が支払われます。神の子イエスキリストは、品位や安全面において、どうだったのでしょうか?むしろ最低最悪の状況の中、苦しんで十字架にかかったことが聖書に伝えられています。

 

1.屠り場に引かれる小羊のようになった

 私たちにとって「自分」は一番の関心事であり、人生最大のテーマとなっています。他人を救っても自分を救えないなら、愚か者であると見なすのは私たち人間の価値観です。イエス様は苦しみを受け、「ののしられてもののしり返すこともしない。」(Ⅰペトロ2:23)態度を貫かれました。これは、人間にはできないことであることを感じます。私たちはいつも自分中心であり、本質的に浅ましさ醜い心を持っています。イエス様の最大のテーマは自分ではなく、むしろ、ご自分を捨てることに使命があったのです。屠り場に引かれる小羊のような姿にこそ、神の子としての姿があるのです。

 

2.自らを償いの捧げ物とした

 イエス様は、偶然不運なことに巻き込まれ、エルサレムで十字架刑に処せられたのではなく、それは神の救いのご計画でした。十字架から700年前、イザヤによって預言されています。「彼は自らを償いの献げ物とした。(イザヤ53: 10)人々は、十字架のイエス様にこう言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。」(31-32)最後にして強烈な誘惑の言葉であったに違いありません。十字架から降りる力もありましたが、それを行使せず、黙って死を迎えることになりました。もし主が十字架から降りるなら、神の人類救済作戦は頓挫し、私たちは罪が残った状態のまま滅びの道を辿るしかありませんでした。十字架のお姿は、神の子の栄光であり、私たちを救う愛が完全に表されているのです。

2023年3月12日
預言者の祈り

ヨエル書1章15-20節 三宅友子副牧師

 自然災害にしても、人災にしても、大きな痛みが起こる時代に、神様が教会に託しておられることは何でしょうか。

 

1.預言者として立たせられている

 私たちの神様は時代を超えて、全宇宙をご支配されている方ですが、私たちはやはりその時代の影響を大きく受けて生きていくしかできない小さな者です。ヨエルの時代、いなごの大群がやってくることも、干ばつで干上がることも「主の日」ととらえられて、全能者による破滅の日と表現されています。預言者ヨエルは19節で、その災害の合間で「主よ、わたしはあなたを呼びます」と言っています。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と自分の言葉として、私たちのために祈ってくださったイエス様と重なります。預言者は人間ですから、いけにえとして救い主にはなれません。しかし、イエス様のように周りの人と同じ位置から、目を天にあげて、痛み、弱さを共有しつつ祈る、そのような祈り手として、災害時の預言者は祈りました。

 

2.神の憐みを知るまで祈る

 預言者というのは、神様の言葉を預かる者です。祈り始めるスタート時は、弱さを覚えて、助けを必要として、祈る姿は、他の人々となんら変わりないのですが、彼はその祈りに答えたもう神様の返事を受け取ることをするのです。ヨエルは悔い改めへと導かれました。「主の日」の悔い改めは、神の回復への道なのです。神の憐みを信じ「断食を布告し、聖会を召集せよ」と呼び掛けます。心を注ぎだし、どんなことでも祈っていい、神様が解決をくださると信じて集まることは、神様の前に大きな大きな意味があるのです。

 

 それぞれが重荷を与えられている「主の日」について祈りましょう。主は憐み深いお方です。預言者として祈りましょう。

2023年3月5日
一つの体

ローマ書12章3-8節 三宅真嗣牧師


 先日、薬の処方箋をもらうために、病院の待合室で長時間待たなければなりませんでした。さて、聖書は私たちがイエス様を信じるなら、永遠の命を受けると約束しています。では、それを目的とするなら、私たちは死ぬまで、病院の待合室にただ座っているように、礼拝時に席を温めるだけなのでしょうか?教会に通う意味とは何でしょうか?

1.キリストの体の一部とされている
 地上には重要とされている場所がたくさんありますが、その中で神様が最も注目している場所は教会です。「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を捧げられた。」(エペソ5:25)とあるように、イエス様は、ご自分の命を十字架で捨てるほどに教会を愛し、その血によってあがなって聖なるものとしてくださったのでした。罪から贖われた私たちは、キリストの体のために生きることを勧められています。体の一つ一つの部分が違っていて、違う動きをしてゆくように、私たちもそれぞれ個性があり、多様性がある組織とされています。イエス様は体全体のために、一人一人を尊く用いてくださるのです。

2.お互いのために各々賜物を持っている
 腰を痛めた場合、小さな骨の部分であっても、体全体に影響があり、深い悩みになってゆきます。また、弱くなった部分を他の部分が支えようとしてゆきます。私たちがその一部とされている青葉教会は、信仰共同体であり、誰かの苦しみは全体の苦しみであり、一部の弱い部分があるなら、体全体がそれを支えようとします。「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、」(6)とあります。「恵み」というのは、ギリシャ語で「カリス」 賜物は「カリスマ」です。その能力は、自分で獲得したというより、神から与えられたプレゼントであり、信仰共同体である教会のために用いられてゆきます。教会に仕えてゆこうという動機によって、正しく活用されてゆくのです。

 

2023年2月26日
彼から彼へ

ローマ書11章33節-12章2節 三宅真嗣牧師

 成功の人生を送る人とはどんな人なのでしょうか?かつて、「3高(高学歴、高収入、高収入)」と呼ばれる時代がありました。時代とともに価値観が変わりますが、神様の価値観は変わりません。私たちを祝福に導く神とはどんなお方なのでしょうか?

 

1.神はすべてのものの根源

 自律神経の疲れを感じることはないでしょうか?現代社会において、悩みと心配は尽きず、スッキリ解決できないことばかりです。聖書に次のようにあります。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」(11:36) 直訳すると、「万物は、彼から、彼により、彼へ」となっています。注解書によると、「すべてのものはその根源を神に持ち、神によって生成、発展させられ、神に帰って行く。そこに神の根源性と絶対性がある」とありました。パウロ自身、深い迷いと厳しい苦悩を持っていましたが、すべての根源なるキリストにゆだねることで解放され、心から喜んで賛美することができました。私たちクリスチャンの素晴らしい恵みは、キリストに全て委ね、気疲れや将来の不安から解放され、喜ぶことができることです。

 

2.神は私たちを変える

 「心を新たにして自分を変えていただき」(12:2)とあります。文法としては受動態命令形となっています。行動する主体は自分ではなく、イエス様となっています。私の場合、自分の意志や努力で、自分を変えようとしたところで、あまり上手くいった試しはありません。皆さんはいかがでしょうか?自分で変わろうとするのではなく、イエス様に信頼して、ゆだねてゆくことが不可欠です。すべての根源であり、絶対者であり、第一原因者である方。「万物は、彼から、彼により、彼へ」と呼ばれるように、イエス様のもとへ自分を持ってゆく時、私たちは神の素晴らしい作品として生まれ変わることができるのです。

2023年2月19日
 一つであるひとりひとり

エフェソ4章4-16節 三宅友子副牧師

 教会の奉仕は何を目指しているのでしょうか。

 

1.一つである

 神様にあって一つとされているという原点に立つようみ言葉は伝えています。教会を作るために、イエス様は一度この世に来られ、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、3日目によみがえり、天に昇られたのです。そして神様の前では「あなたは神様の子どもだ」「キリストのからだの一部だよ」とそういう身分、立場を初めから与えられました。聖霊がそれを信じられるように促してくださいました。神様という入り口からしか始まることのない一つのからだが私たちです。教会は最初に一つにされた者たちが、それを保ちながら成長していくものです。

 

2.ひとりひとりである

 一つのからだのうちのひとりひとりが見えておられる神様は、一つであることをキープするために、私たちを召されました。一人の人がオールマイティにすべての奉仕をこなすのではなく、イエス様がすべてのクリスチャンに「一緒に教会を建て上げよう!」と賜物を分け与えておられるのです。一人一人が頂いているすべての賜物は、ほかのクリスチャンを建て上げるためであり、奉仕を始めると同時に訓練も始まります。自分の心のうちにあることが神様によって扱われて、整えられていきます。どんな奉仕のためでも、主は力も知恵も能力も助け手も与えてくださいます。教会の主は全能であり、どこにでもおられ、なんでもご存じで、教会に満ち満ちておられるのです。私たちを「成熟した人間、キリストの満ち溢れる豊かさ」になるまで成長させようとされているのです。

 

 奉仕の目的が定まったでしょうか。ついには、皆がイエス様をよく知り、信頼し、イエス様のようになるまで成長することを目指して、互いに仕え合いましょう。

2023年2月12日
 神が創造された人

創世記1章26-28節2章24節 ファミリーフォーラムジャパン 大村信蔵先生

 「聖書が語る男と女」または「神が創造された人」をお話しする前に、神の本質は何かを確認したいと思います。ガラテヤ5:22以降に「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」と書かれています。つまり、神の本質は御霊の実に表されています。

 この御霊の実の中に、「善意」という単語があります。直訳すると「善」です。ヘブル語ではトーヴです。神は善しかできない方であると頭にいれて、聖書箇所を見ていきましょう。

 善しかできない方が、神のかたちにかたどって人を創造されました。ヘブル語では「神」はエロヒームで、複数形です。しかし、「似姿」と翻訳されている語は、単数形です。ここからわかることは、複数のものが一つであることが隠されています。神は人を最初から男と女に創造され、それが一つであるように造ろうとしていました。その理由は、神が複数でありながら、一つであるからです。人だけが神に似たかたちとして造られ、神が創造した世界を統治するために人が増えることを祝福されました。「祝福されました」は ヘブル語では強調されています。

 ヘブル語で人をアーダームといいますが、神は最初から彼にふさわしい助け手を用意しようと考えていました。この「ふさわしい」という単語は、ヘブル語では「彼と向き合う、真向いの、反対の」という意味です。夫婦はお互いに対面で向き合う存在であり、反対の者なのです。

 しかし、一つになるように神は創造されました。創世記2:24「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」と書かれています。

 「結ばれ」と翻訳されている語は、「くっついて離れない、接触している」という意味です。

人に対する神のわざは、三位一体の神のかたちを人にも与えたことです。Ⅰヨハネ1:3参照。

2023年2月5日
 接ぎ木され

 ローマ11章11−24節 三宅真嗣牧師

 聖書によると、神様は感情をお持ちであることが分かります。しかし、私たち人間のように自分勝手でなく、あるいは揺れ動く心ではなく、目的をもって感情を表されます。それは救済という目的です。神はどんなご性質で、どんな態度で接しておられるのでしょうか?

1.ユダヤ人に対する熱い思い

 ところで、どうして聖書は正しいことを語っていると信じることができるのでしょうか?

大きな一つの理由は、預言の成就です。私たち人間は一瞬先のことさえ、分かりません。未来をピタリと当てることができるなら、それは人の言葉ではなく神の言葉です。さてパウロは、軟禁された家で、ユダヤ人たちに、旧約聖書に示されているメシアとは、イエス様のことであり、信じて受け入れるよう説得しましたが、ユダヤ人たちは一致しないまま、立ち去ったとあります。神は世の終わりにおいて、イスラエルに国家的救いがあることを預言しています。21世紀に生きる私たちは、イスラエル共和国という国家がある時代に生きているので、聖書が書かれた時代の人たちより、さらにリアリティを感じながら聖書を読むことができます。

2.慈しみと厳しさ

 パウロは、もともと神の民でない異邦人がクリスチャンとして霊的祝福を受けているのは、イスラエルという幹につながっているからだと語っています。同時に、私たちがアブラハムを根としているイスラエルを否定することは、命の養分を吸い上げることができなくなるということでもあります。神の民であったイスラエルは失敗しましたが、歴史の中で、教会もたびたび失敗していることが分かります。神が、イスラエル見捨てず、切り捨てない愛をお持ちであるように、同様に、たとえ私たちが失敗しても、憐み深い神は、私たちを忍耐強く、慈しみと厳しさをもって導いてくださるのです。

2023年1月22日
感謝と賛美の安息

 詩編92篇1ー7節 三宅友子副牧師

 天地創造の時に神様ご自身が7日目に休まれ、「非常に良かった」と御業を喜ばれました。その後「安息日に礼拝する」ことは、十戒で命じられました。信仰共同体であるイスラエルは幕屋時代やソロモン王の第一神殿時代、そして捕囚時代を経て、第二神殿の時を迎えます。様々な時を経て、なお「主に感謝をささげることは良い」「楽器に合わせて主のまことを歌うことは楽しい」と告白しています。

 一般の歌に良い内容を歌うものも沢山あります。だからと言って、礼拝で歌う訳にはいきません。人間を賛美する時間ではないからです。賛美は「神様」を歌うものです。「神様は変わらず愛してくださった」「神様はみ言葉の通り、約束を守られる誠実なお方だ」と言ってほめます。神様の御業の一つさえも思い起こせない時でも、十字架の御業を歌いましょう。賛美のほとんどは「十字架」「復活」「天国」を歌っています。これこそが最も偉大な神様の御業です。神はその賛美を受け取るにふさわしいお方です。信仰を持って、口を開けて、主を誉め歌い始めるなら、主は喜んで耳を傾けてくださいます。

 賛美をささげているうちに主の恵み深さに気付かされることがあります。不思議なことに、主と主の御業を悟ることによって、私たちの心の奥底は満たされるのです。礼拝をささげに来たのに、私たち自身も喜びにあふれるのです。礼拝という神様とのコミュニケーションはなんと豊かなことでしょうか。私たちはもともと神様の栄光を表す被造物として造られたのですが、礼拝において、その創造の目的がかなうのです。

私たちは、家族、社会、世界の為に6日間を過ごすでしょう。けれども、まずは最初の一日目、しっかりと神様に焦点を絞りましょう。お金も大切、家族も大切、友達も大切、社会生活も大切ですが、もしそれらを神様抜きで回していこうとするなら、とても危険です。私たちはそのようには造られていないのです。

賛美をもって神様に感謝をささげ、礼拝を楽しんで生きましょう。

2023年1月15日
二重否定

ローマ書11章1−10節 三宅真嗣牧師

 私たちが人生を送る中で、最も大きな愛に触れるとするなら、通常、母からの愛ではないでしょうか?たとい、落ちこぼれても、失敗しても、無条件の愛を受けるものです。さて、神の愛はさらに偉大であり、誤った判断をすることもなく、すべてのことを益と変える愛を示してくださいます。どんな愛なのでしょうか?

 

1.見捨てることがない愛情

 私たちは肉体において疲れを覚え、弱まると、ダメだ、ムリだ、と否定的な思いになります。しかし、その否定的な思いを神は否定し、私たちを肯定し、喜びと平安を与えてくださいます。預言者エリヤは、450人のバアルの預言者との戦いにみごと勝利しました。ところが、一種の燃え尽き症候群のような状態になり、自分や周りを取り巻く環境を否定的に見るようになりました。「『主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。』しかし、神は彼に何と告げているか。」(4-5)聖書に書かれている聖なるButがここにもあります。神は私たちに対して、決して見捨てることのない愛を向けておられるのです。

 

2.恵みの器としての期待

 私たちの信仰の人生には、いくつも扉があります。一つの扉を開くと、また違うコースが用意されていて、歩むべき道があり、さらにまた違う扉の前に立つことになります。もし、扉を開くことがなかったら、立ち止まった状態のままです。神は私たちを救うだけでなく主の恵みを伝える者となるよう期待しているのです。さて、否定的思いに覆われたエリヤには、栄養と休息だけではなく、神の使命が必要でした。使命を受けたエリヤは再び心に情熱の火がともり、洞窟から出てゆきました。神は私たちに無償の愛を示すだけでなく、その愛を伝える器となるよう期待しているのです。

2023年1月8日
「高価で尊い」は、本当か?

マルコによる福音書2章1-5節 飯塚道夫兄

 

 コロナの騒ぎが始まった時、マスクは店頭に無く、ワクチンは外国で接種が始まったものの、日本にいつ送られてくるかもわからず、しかも教会や学校は閉鎖、会社はリモートと、大変な状態でした。

要するに、人との関わりが持てなくなってしまったのです。

 

 そうした孤独の中、私たちは段々「自分の存在理由はなんなのか?私の価値は何なのか?」と、聖書に書かれている「あなたは高価で尊い」の言葉が、信じられなくなってきました。

 

 さて、今日の聖書の箇所は、4人の男が、中風の男をイエス様の所へ連れて行き、癒していただいた有名な箇所です。

 癒された男と4人の男たちは、故郷の村に帰りました。大歓迎され、みんなの感動を呼び起こしたことは、十分に想像できます。

 大変な思いをして、中風の男を連れていった4人の男たちは、ヒーローになりました。

 まさに、高価で尊い者たちになりました。

 しかし、ここで、もう一人隠れたヒーローがいるのではないでしょうか。

 そのヒーローについて考えていきましょう。

2023年1月1日
良い知らせ

ローマ書10章5−21節 三宅真嗣牧師

 

 「時短」という言葉をよく聞きます。いかに効率よく時間を有効に使えるかは、忙しい現代人の大きな課題です。ところで、時間から解放され、老化現象もなく、生き生きとした喜びある永遠の世界で生きることができるなら、これ以上の良い話はありません。その良い知らせをどのように受け止めることができるのでしょうか?

 

1.聞くことの大切さ

 信仰はどのように始まるのでしょうか?「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(17) 私たちは頭の中にある材料だけで、物事を判断してゆくしかありません。それまで、福音について聞いたことがないなら、それを信じることが難しいのは当然のことです。聞いているうちに、腑に落ちることがあります。「どうしたら、家族がイエス様を信じてもらえるだろうか?」と悩む人がいます。他の言い方をするなら、「どうしたら、キリストの言葉を聞いてもらえるだろうか?」という問いかけでもあります。聖書のみ言葉自体に、心を変える影響力があるので、聞くことで心の中で化学反応が起こり、信仰が始まってゆくのです。

 

2.分かち合うことの大切さ

 「教会」は教える会と書くので、堅苦しく感じるかもしれません。もともと、「呼び集められた者たち」という意味があります。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」(8)とあります。神の教えは深遠で、難解で、極めがたい教訓や真理ではなく、ごく身近にある教えです。誰にでも手の届く身近な現実において信仰のことばを分かち合うことができるわけです。青葉教会の今年度のテーマとして、「小さなグループを充実させてゆこう」という目標を持っています。生活の中での信仰体験を語り、イエス様の価値観を分かち合うことで、信仰の素晴らしさを感じることができるのです。

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