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<2022年 礼拝メッセージ>

2022.12.25
2022年12月25日
我らと共に

ヨハネ福音書1章14節

 

クリスマスには、喜びがあります。家族や友人たちと集まり、美味しいものを食べ、プレゼントをもらう(あげる)ことは喜びです。私たちにとってさらに喜ばしいのは、救い主がお生まれ下さったことです。救い主とはどんなお方なのでしょうか?

 

1.罪をあがなう救い主

ところで、クリスマスカラーと言えば、四色あります。「金色」「赤」「白」「緑」であり、それぞれ意味があり、「金色」は神様の栄光の輝きを表し、「赤」はイエス様が十字架で流してくださった血の色、「白」は清さ、誠実さを表し、「緑」は生命を象徴し永遠の命を表します。ところで、そもそもなぜ私たちに救い主が必要なのでしょうか?世の中を見た時、悲しみ、悩み、苦しみがあり、不公平があり、どうしてこんなことが起こるのかという疑問、さらには、自分の心に汚れを感じて、罪に苦しみます。そんな悩みの中で、メシア待望という究極的な思いに到達するわけです。神であるイエス様が実体のある人として生まれ、十字架で血を流して、私たちの罪をあがなって下さいました。

 

2.喜びを与える救い主

アイルランドの歴史家・道徳思想家ウィリアム・レッキーは、「人類史上、最大にして最も良い影響を与えた人物こそイエスキリストである」と語っています。不思議なことに、そんな絶大な影響力のあるイエス様は、小さな寒村ベツレヘムの家畜小屋でお生まれになりました。最初に表敬訪問した羊飼いたちは、なぜ主なるメシアが石をくり貫いて作った飼い葉桶の中で、布にくるまっているのか理解できなかったはずです。まるで死者が石の棺に入っているような光景です。ところが、羊飼いたちは、幼子を見て、喜びあふれました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ヨハネ1章14節

2022年12月18日
共にいるから

ルカによる福音書2章8-21節

 

キリスト教が伝えるのは商売繁盛、縁結び、健康を与える神ではなく、「神、我らと共に」。「神が共におられる」という恵みのゆえに、羊飼いたちが導かれる二つのことをみていこう。

 

1.神が共にいるから恐れるな、喜べ

全く日常に起こりそうにないことが起こった。強烈なご臨在を表して、彼らを人類の中でも最初に選ばれた人々とされたのだ。神が共におられると、こういう想定外のことが起こる。天使たちは「恐れを閉めだすばかりではなく、喜びさえも抱いて、耳を傾けよ」と言った。神のメッセージ・福音に対して、思いっきり心を開いて聞きなさいということだ。医者ルカはイエス様こそ罪から癒す救い主だと書き「みこころにかなう人に平和があるように」と記した。神は病があるところでも、戦いのあるところでも、福音を語られ、御自身との平和を与えて、共にいると仰るお方である。  イエス様はそのために来られた救い主だ。

 

2.神が共にいるから知らせなさい 

羊飼いたちは代表者としてメッセージを受け取った。彼らはまずイエス様そのものを探し当てる必要があった。自分たちと神が共におられること、救い主が与えられたことを、将来の希望としてぼんやり受け取るのではなく、今まさにここで起こっていることとして探し当てる必要があった。 神は輝く天にもくさい飼い葉おけの中にもインマヌエルだということを彼らは見つけた。神は選ばれた者たちが救い主に会えるように全てをセッティングしてくださるお方である。家畜小屋からの帰り道、羊飼いたちは周りに知らせ始める。人々は驚き、不思議に思ったという反応がある。  仲間内の羊飼い同士は大喜びで賛美していたかもしれないが、周りの人たちもすぐに一緒に喜んだという訳ではなかったようだ。

伝道する人は、相手の反応に一喜一憂する必要はないのだ。ただ語る。  そうすれば、それぞれの受け取り方が起こっていく。あなたが語るメッセージは、その人の中のジグソーパズルのたった一つであればいいのだ。

 

さあ、いよいよクリスマス。相手の反応は神様にお任せして、私たちはただ「一緒にクリスマスをお祝いしよう!」と呼び掛けてみよう。

2022年12月11日
いつも

ルカによる福音書1章67-80節

 今年のクリスマスのテーマは「神我らと共に(インマヌエル)」です。今日は、ザカリヤの預言の中から、それを見ていきましょう。ザカリヤは天使のお告げを受け、待望の子どもを授かりました。彼が従いきった時、話せるようになりました。その直後の預言の言葉です。

 

1.昔から共におられる神   

 ザカリヤは神が民に訪れて贖ったと歴史をまとめています。彼は祭司でしたから、旧約聖書の預言の言葉に触れていたことでしょう。しかし、実際に自分の身のうえに「天使が告げた」ことが起こるという経験の後では、その認識はこれまで以上に強まったようです。私たちも各集会で聖書を学んで、神様がどういうお方か、何を仰っていて、何をご計画されているかということを知ろうとしています。それを確信するために、神様は個人の信仰生活に訪れてくださるのではないでしょうか。ザカリヤは1900年くらい前のアブラハムの時から約束して関わっておられた神様を大いに意識し、あの時もこの時も神はお忘れではなかったのだと、神を賛美し、預言させられたのです。同じように、今ここで神の子とされている私たちも、神様の目に特別な者として映っています。慈しみと憐みを注ぎ、昔からの約束を私たちの上に成してくださった神様をほめたたえます。

2.これからも共におられる神   

 ザカリヤの預言には自分の子ですが、神様から遣わされた者という見方があります。ヨハネ個人の生き方が、民全体に影響を与えますと。「これから先いよいよ神の憐れみによって、光が訪れ、暗闇と死の陰に座っている者を照らし、われらの足を平和の道に導く。」と。神様の憐みの心は今なお私たちに向けられています。罪を解決しなければ、救いようがないと神様は語り、神の国へと招いておられるのです。

 暗闇を経験されていますか?死の陰に座るような状況ですか?ゼカリヤ夫婦と共にいて、憐れみ、御業を行われた神様は、これから先も神の国の恵みを与えようとしておられます。

2022年12月4日
心への語りかけ

イザヤ書40章1-5節

 クリスマスは、キリスト祭りという意味です。日常の中で、心配や不安、弱さを抱えて、気持ちが暗くなりがちな私たちに、神は喜びの集いに招いておられます。どうして喜ぶことができるのでしょうか?

 

1. 私たちの人生の扉を開く

 預言者イザヤは今から2,700年前に活躍した人であり、本日の御言葉は、三つの出来事の預言となっています。約200年後のバビロンから解放、そして700年後、この世に来られる救い主について、さらには、これから後の時代、再び救い主が来られることを語っています。バビロン捕囚の民は異国の地において、どんな気持ちで、この預言の言葉を聞いていたのでしょうか?彼らは資金力も組織力もなく、ただ強大なバビロン帝国の権力に支配され、時に流されて過ごすしかありませんでした。エルサレム帰還なんて、常識的にあり得ないことでした。しかし事実、エレミヤ預言通り、ちょうど70年後、新しい支配者ペルシャのクロス王によって、勅令が出され、民はエルサレムに帰還することになったのです。神は私たちの前に立ちはだかる重い扉を開いてくださるお方です。

 

2. 未来への希望を与える

 イスラエルに行った時、どうしてここが神の祝福の地なのだろうか?と不思議になりました。国土の半分は砂漠であり、せっかく、畑を耕し、種まきをしても、降るかどうかわからない雨に期待しなければなりません。イザヤの時代、南にはエジプト、北にはアッシリアがあり、弱小イスラエルは二つの軍事大国に挟まれていました。人間にとって皮肉に感じることですが、神様に頼るしかないという状況に置かれることこそ、神の祝福です。聖書は私たちクリスチャンが、自分の努力ではどうすることもできないことを、神がしてくださることを恵みと呼んでいます。自分の努力や知恵で、状況を好転させ得ないのが私たちです。神はそんな私たちのために希望ある未来を創り出してくださいます。

2022年11月27日
 諦めないで

1テモテへの手紙6章11〜16節  三宅友子副牧師

1. 神の人として諦めない 

 パウロは金銭を愛することを避けなさいと言いました。お金のあるなしに関わらず、神を信頼することこそ、心を満たし、霊的に豊かなのです。また神様の御前での正しさや神を信頼していくこと、人々との関係においては、愛と忍耐を持って、穏やかであることを求めなさいとあります。初めに与えられた信仰を貫き、人々が神から「永遠のいのち」を頂くためにテモテが召されたことを思い起こさせたパウロは、先頭を歩まれるイエス様が、最後まで諦めずこの道を進んでいかれた姿を仰ぎ見たのです。私たちは葛藤し、苦戦することもありますが、この主が「神の人よ」と私たちを勇気づけてくださるのです。落胆し、諦めたくなり、歩みが止まりそうになる時、ひたすら祈りましょう。頼る者を裏切ることのない聖霊が助けてくださいます。

 

2. 神に望みをおくゆえに諦めない 

 パウロはゴールをいつも「キリストの現れの時まで」と定めました。皆さんはいかがでしょうか?信仰生活のゴールを「イエス様に会えるその日まで」と定めておられるでしょうか。今までも私たちにとっては王の王、主の主であられたイエス様ですが、現われの時には、世界中にとってそのような方となられるのです。神だけを恐れることが大切です。私たちがより頼むお方は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主です。私たちは環境や状況に振り回されて影響を受ける者ですが、神はただひとりで存在できる方であり、変わることはありません。神はいなくなることなど決してなく、他のどんな被造物よりも遥かに高くおられるお方です。神は世界の一部ではありません。神は神ご自身だけで完全なるお方です。私たちの信仰はこの方にかかっているのです。 

 アドヴェントも始まります。再臨の主キリストを待ち望むこととも重ねて、歩みを進めて参りましょう。

2022.12.18
222.12.11
2022.11.27
2022.12.4

2022年11月20日
シオンの岩
ローマ書 9 章 30 節-10 章 4 節 

最近、「宗教二世」という言葉をよく耳にします。親が所属する宗教団体に入れ込んでしまい、多額の献金をし、家の経済が滅茶苦茶になり、子供が苦しい思いをしたという酷い話があります。さて、パウロは、正しい信仰があり、間違った信仰があると伝えています。正しい信仰を持つためにどんな原則を理解しておく必要があるのでしょうか?


1.聖書は絶対的基準
聖書は、神がユダヤ民族に語り掛け、ユダヤ民族との関わりの物語が書かれています。時には助け、守り、時には叱り、怒って突き放すような神のお姿があります。バビロン捕囚から帰還した民は神の教えを聞かず、背を向け、偶像礼拝を行い、自分勝手に生きてしまったことを悔い改めました。それから後、彼らは神の律法を守るために、その要求以上 のことをすれば、合格点がもらえるのではないかと誤った考えを持つよ うになりました。もっと厳しい、もっと細かい新たなルールが追加され、 それがタルムードという聖典になり、いつの間にか、聖書より重んじられるようになってしまいました。キリスト教異端にも、聖書以外に別な聖典を付け加えるという同じ現象が見られます。聖書は絶対的基準であり、人の考えによって追加や削除してはいけない神の律法です。

 

2.キリストは最終ゴール
聖書にはイエス様に関する預言は 300 以上あります。どうしてそれだけの情報があったのに、ユダヤ人は、待望していたメシアであるイエス様を認めることができなかったのでしょうか?先祖の言い伝えのほうが、神の律法より重んじられていたので、「手を洗っていない」「遊女や取税人たちと食事をしている」そんな行儀の悪い奴が、メシアである訳がないと判断してしまったのです。

すべての律法はキリストにかかっており、キリストあってこそ、成就し、完成することができます。イエス様は私たちの人生の岩であり、私たちを支えてくださるお方です。

 

 

 

 

2022年11月13日
神様のお陰

コリントの信徒への手紙 I  3章1-9節 

 

私たちは天に行くまで「成長」する者として神様に造られました。成長できない理由の一つは栄養不足。霊的栄養失調。み言葉の乳、特に神様の愛や赦しといった基本的なことをしっかりと頂く必要がありま す。神様の愛を揺るぎなく確信したなら、信仰があるからこそ理解できるような事柄も聖書の中から聞いて、受け止めていくことができるようになります。また御言葉を受け取るだけではなく、それを伝えてみたり、 証としてまとめてみたりすることも成長を促されるでしょう。
成長しない別の理由をここでは、ねたみや争いが絶えないこと、派閥を作りたがることと挙げられています。そういうものが「成長を阻む病気」であり、取り除かなければなりません。パウロは最も初期の頃、アポロはその後説教、牧会をしていました。教会の人たちが大切なことを教えてくれた人を特別に感じるのはごく自然な感情です。ただ、人との関係にあまりにも引きずられると、本末転倒してしまうことがあるので
はないでしょうか。賜物を与えられた奉仕者を「この人たちは神がお与えになった分に応じて働く人たち」だと受け止めておくにとどめましょう。主が一人一人の働きに応じて報いてくださいます。教会全体はただ神に向かって協力しあい、成長していくものなのです。
よく「人ではなく神様を見上げましょう」という言葉を聞きます。こ このみ言葉がそれを語っています。「大切なのは、成長させてくださる神 です。」と。私たちは互いに、植えたり、水を注いだり、。次に誰かの 世話をしたり、、、食べさせたり。そのうちに教会全体は自然に成長する のです。神のみ言葉という栄養を取り、協力して働けるようねたみや争 いがない状態をキープすれば、あとは神が成長させてくださいます。
今日は子どもたちが「神様が成長させてくださったこと」を分かち合ってくれました。礼拝に集う私たち大人にも何かあるはずです。成長させてくださる方を見上げ、感謝をささげていきましょう。

 

 

 

2022年11月6日
一人の人から 

ヘブライ人への手紙11章8-16節 

最高の人生とは何でしょうか?究極的に言えるのは、満足して死ねる ということではないでしょうか?アブラハムはまさに、「満ち足りて死ん だ」(創 25:8)と書いてあります。私たちを満たしてくださる神とはどんなお方なのでしょうか?
 

1.人の心にメッセージを語る
ところで、神はどうしてアブラハムをお選びになったのでしょうか?
彼は貴族、町の有力者ではなく、普通の人でした。彼が特別だったのは、 神に心を開いていたことです。ウルは巨大な繁栄した町あり、偶像にあ ふれており、その場所でアブラハムは生まれ育ちました。聖書には何も 記していませんが、おそらく、アブラハムは、「これらの偶像は本当の神 ではないのではないか?この世界を創造した本物の神がおられるのではないか?」と疑問を抱きつつ、見えない神に心を向け、求めていたことと思います。アブラハムは神の呼びかけに答える心を持っていたので、神が発するメッセージをしっかりと受信し、行動することができました。 先に天に帰った一人一人を覚える時、アブラハムの信仰を受け継いでおり、神に応答していた一人一人であることを感じます。

 

2.一人の信仰者を通して祝福を広げる

聖書物語を見ると、アダムとエバ、ノアの家族、ヨセフとマリアなど、神が大きなことをしようとする時、小さなグループを用いることがわかります。神は、ユダヤ人を祝福のモデルケースとして選び、世界を祝福しようとされました。召天者の一人一人は、神の祝福を受け、広げていった存在であったことを覚えます。名前一人一人呼び上げてゆく時、優しい笑顔が思い浮かばれ、その方に慰められ、励まされ、助けられたことを思い出します。そして、その信仰の生涯を覚える時、天国が確かに存在することを感じ、天国が近くに感じることができます。神は同時に小さな私たち一人一人を通して祝福を広げようとなさっているのです。

 

 

 

2022年10月30日 

イエス・キリストと出会う
ルカによる福音書17章11-19節

本日は、イエスさまが、思い皮膚病を患っている 10 人の人を癒す箇所から、「癒さ れた」、と「救われた」というのはどう違うのか。また、本当の意味で救われるというこ と、イエスさまに出会うことは、どういうことかを聖書から聴いていきたいと思います。
●私たちを憐れんでくださいと願った10人の人たちに対して、イエスさまは、「『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。」(14)と書かれています。レビ記13章には、皮膚病にかかった人が、患部 を祭司に見せて、皮膚病が癒されたら、「あなたは清くなった」と、そのお墨付きを祭 司から受けて、晴れて社会復帰が出来ることが記されています。
●10人全員が癒されましたが、サマリア人一人だけが讃美と感謝をしながら戻っ てきました。しかし他の9人のユダヤ人は、そのまま、まず祭司のところに行って、社 会復帰のお墨付きをもらうことを優先しました。ユダヤ人とは別の神を信じていたサ マリア人はユダヤ人とは犬猿の仲でした。しかしそのサマリア人が、そんな私をも癒 して下さった神がおられると、讃美と感謝を持って戻ってきました。人生が変わるよう な仕方でイエスさまに出会ったからです。
●「そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」(16)このイエス・キリストの神 こそが、真の神だとこのサマリア人は信じ、自分を癒してくださったイエスさまのところに戻って、その足元にひれ伏して感謝しました。これは、今まさに神さまに礼拝をさ さげている私たちがしていることです。罪多き私たちが、神さまと向かい合って、礼拝 をささげる。神さまの元に戻る。それが救いです。癒されただけなら、いずれ、私たち は死んでこの世からなくなりますが、神さまの救いに預かることが出来たなら、死ん でからも、私たちは神さまと共に生きるのです。癒しと救いの違いはここにあります。
●イエスさまは「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(19)と 言われました。つまり、他の神を礼拝していた、重い皮膚病に侵され、死んだ状態だ った彼が、イエスさまとの出会いで、人生が180度変わったのです。癒しというのは 神さまからの一方的な事柄です。それに対して、救いとは、私たちが礼拝において神 さまと出会うこと、神さまと繋がっていること、それが救いです。
一週間の中で、思い通りにいかないこと、失敗することもありますが、また日曜日には礼拝に戻ってきてイエスさまに出会い、「立ち上がって、行きなさい」とイエスさまに励まされて、新しい一週間を歩んでいきましょう。(内田一郎)

 

 

 

 

2022年10月16日
焼き物師

ローマの信徒への手紙 9 章 19-29 節 

 

毎日のように詐欺メールが届きます。その中には、非常に巧妙な誘い文句があり、騙されそうになることがあります。さて、霊的な世界で言うなら、この地上において悪霊が、私たちに間違ったメッセージを伝えています。有頂天にさせ、傲慢にさせ、あるいは、惨めな気持ちにさせるメッセージです。私たち青葉教会は、聖書が神の真実な言葉であると信じています。どんなメッセージを語っているのでしょうか?


1.神は私たちを創造した

子どもは成長してゆく段階で、世の中のいろんな複雑な部分に触れてゆきます。大人たち同士で言っていることが違っていて、どっちを信じ たらいいのか分からなくなったり、本音と建前を使い分けている姿を見て、混乱し不安になったりします。聖書は、神がおられ、昆虫、花や木々、さらに月、星、太陽を創造し、私を造って下さったと語ります。もし、自分の存在に対して不確かさを感じ、それが怒り、悲しみ、空しさに繋がってゆくなら、「神が私をこのように特徴ある存在として造って下さった。」と受け止めることで、不安を取り除き、霊的安心感を得ることができるのです。


2.神は私たちを愛している

私たちを造ってくださった神は私たちを愛しています。聖書は、神と私たちの関係を焼き物師と粘土であると語ります。さらに次のようにあります。「憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであった」(23) 粘土でこさえて造った焼き物を大切にしてくださるばかりか、神は私たちを豊か な神の栄光を示す器としておられるのです。神の栄光を表すために造ら れたというというメッセージを聞くことで、自分の存在を肯定し、喜びを感じることとができます。神は私たちをそのような存在として創造してくださいました。

 

 

 

 

2022年10月9日
天でつなぐ

マタイによる福音書16章13-20節 

1.イエスは何者?

当時イエス様のことでファリサイ派やサドカイ派はいろいろと言っていました。他にも「イエス様はバプテスマのヨハネのよみがえり」という声もありました。イエス様はペトロたち自身に「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。
バプテスマ式でお二人の信仰告白を聞きながら「あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」というイエス様の言葉がこだましました。今も生きておられる神様と私たちを結び合わ せるために、メシアを信じることが救いです。イエス様が今ここで青葉 教会全体に向かって同じように聞かれても、私たちは「あなたは救い主、生ける神の子です」と答えることができるでしょう。

 

2.教会に託された鍵
するとイエス様は言われるのです。「青葉教会、あなたは幸いだ。、、 あなたがたの信仰告白の上にわたしの教会を建てる。よみの力もこれに 対抗できない。わたしは青葉教会に天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」バプテスマ式のように誰かを教会という神の家族に迎え入れるのは、永遠に共にいるということです。死を乗り越えてつなぐことができるのは、ただ一点、イエス様を信じることだけなのです。教会にはなんという神聖な、偉大な権威が与えられているのでしょうか。
イエス様という石があるからこそ、教会であり、このイエス様への信仰があってこそ、教会で「天でつなぐ働き」ができます。罪を悔い改められるように、赦して頂いて、救って頂けるように、二人、三人主の名によって集まって祈りましょう。あちらでもこちらでも、主が教会を遣わされる先々で「天でつなぐ」働きをしていきましょう。

 

 

 

 

2022年10月2日
憐れむ主権者 

ローマ書9章1-5節 

「見えない神をどうして信じることができるの?」こんな質問をされたら何とお答えになるでしょうか?クリスチャン生活の中で、イエス様 が一緒に難局を乗り越えてくださることを体験することができ、礼拝をしている時、霊の感動と喜びを覚えます。そして、客観的な判断として、 神がイスラエルに対する行動や態度から、神が本当にいる事が分かります。


 むかしドイツにフリードリッヒという王がいて、側近に「創造主の神 がいることを一言で証明してみよ!」と尋ねました。すると彼は「陛下、 あれです!」と指さしました。指さした先に将軍がいました。将軍はユ ダヤ人でした。私たちは、ユダヤ人(イスラエル)を通して、神が本当 に存在し、聖書の言葉が真実であることを知ることができます。


 さて、パウロはここで悲しんでいます。「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。」(2) イスラエルが国家的なレベルで救い主イエス様を受け入れないことに深い悲しみを覚えていました。パウロがローマ書を執筆した10数年後、エルサレムの都は陥落し、彼らは国土を失い流浪の民になってゆきます。1900 年間、世界中に散らされ、各地で嫌われ、いじめられ、迫害されて多くの人が殺され ることになります。ところで、今から 2,600 年前、次のような預言が語られました。「わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集め て彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。」「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ 戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」(エゼキエル 34:13・16) 聖書は単に道徳倫理を教える書ではありません。聖書は、神のご計画の成就を力強く語っている書です。神がイスラエルを愛し、選び続けているという現実を見てゆく時、神が私たちを選び続けてくださることを知り、安心感を覚えます。神は神の子として下さった私たちを見捨てることはなく、祝福の約束を守ってくださるお方です。

 

 

 

 

2022年9月25日
自由に、互いに

ガラテヤの信徒への手紙 6章1-10節

1.自由を得る救い
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに 仕えなさい。5:13」私たちは何かしなければ救われないということから自由です。自分自身で、あるいは誰かに向かって「こうでなければ救われない」と言いたくなる時、「自由」とされていることを思い出しましょう。恵みによって救われたことを心に刻みましょう。神様は創造の初め にも、人間に自由意志を与え、ご自分を選ぶかどうか見ておられ、イエス様によって救いを与えられた時にも、自由を与えて、愛によって互い に仕える機会とするかどうかを見ておられるのです。被造物は造り主の願いに適うなら素晴らしく、クリスチャンは救い主の思いを、与えられ た自由の中で遂行するのです。

 

2.信仰に基づいた助け合い

教会の歩みの中で、小グループの交わりの中で、「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」与えられた自由の中で、互いに愛によって仕えるチャンスとなります。信仰に基づいた関わり合いには、その人がどうしたら「正しい道に立ち帰る」ところまでたどり着けるのか頭を悩 ます時間や声をかける勇気、忍耐が必要です。霊に導かれながら互いに助け合う時、5:22のような実が結ばれてくるのです。2節で「互いに重荷を担いなさい。」と言っていたのに、その後5節には「自分の重荷を担うべき」という言葉にさえなっています。神様がそれぞれを恵むのでは なく、助け合う私たちを支えてくださるのです。クリスチャンの交わりの中で、ご自分の重荷や、弱さ、必要を分かち合っておられるでしょうか。神様は自由の中で私たちが互いに助け合うことを求めておられます。飽きずに励み、関わり合い続けましょう。

 

2022年9月18日
あなたの味方 

ローマ書8章31-39節 

二十歳になった時のことを覚えているでしょうか?私自身は、「成人になったとはいえ、中身はまだまだ子供だ。」という気がしました。さて、私たちクリスチャンは、神から義と認められています。「とんでもない。まだまだ半人前です。」という反応になるかもしれません。私たちを義として下さった神の愛とはどんな愛でしょうか?
 

1.無償の愛

日常生活の中で、ラッキーと思えることがあります。そんな時、「日頃の行いがいいからだ!」と冗談を言い合うことがあります。私たちが義と認められ、神の子とされたことをラッキーなこととするなら、私たちの日頃の行いが良かったからなのでしょうか?救いは人の行いによるのではなく、神の一方的な恵みというのが聖書のメッセージです。私たちが受けるべき罪の罰をイエス様が身代りに受けてくれたことで、私たちは赦されました。そればかりではなく、神の祝福を受ける身分に引き上げてくださったのです。十字架によって呪いは祝福に、悲しみは喜びに変換されたのです。
 

2.引き離すことができない愛

教会の歴史の中で、パウロほど宣教の苦しみを体験した人は他にはいないと言われています。東奔西走して、日夜死に物狂いでイエス様の福音を伝え、小アジア、ヨーロッパ各地に地域教会を建て上げていきました。しかし、教会外の敵対者たちにはもちろん、教会内部の人からも誤解され、邪魔され、苦しみを受けました。ところが、嫌になって止めるどころか、忍耐強く、人々にキリストに対する信仰、希望、愛を伝え続けたのです。宣教の苦しみに遭いながらも、キリストの深い愛を感じることができたのは、パウロだけの特別な体験ではありません。私たちもキリストの深い愛を体験しています。その愛は私たちの人生を素晴らしものに変えてゆきます。キリストの愛が私たちに迫っているのです。

 

 

 

 

2022年9月11日
イエスの学校

ヘブライ人への手紙12章1-3節

「聖書と聖書の証しするイエスこそが教会の主です。イエスを「主」とする厳しい自己訓練はみ言葉への聴従によってなされます。(『教会学校ハンドブック』第一章バプテスト教会の形成と教会学校 16 頁)」
 

1.おびただしい証人の群れに囲まれてレースを走る
「アブラハム、モーセ、ダニエル、そして自分の名前」で読んでみてください。彼らの続きに私たちが加わってこそ、彼らが完全になるとあ ります。私たちは壮大な神様の計画の中に入れられ、今信仰生活を送っ ています。どうやって信仰を貫くのか、継続させていくのかを伝えるの が、先輩の仕事です。公立の学校では習わない信仰の話を次世代に語り 継げ、「おびただしい証人たち」の一人になりましょう。私たち自身も「お びただしい証人たち」の後姿を追って励まされつつ、歩んでいます。

 

2.イエス様から目を離さない
イエス様が信仰の創始者です。私たちは「イエスの学校」に集う者です。イエス様は弟子たちと生活自体を共にして、宣教現場を見せ、手伝 わせて、訓練されていきました。実習しながら、「そういう意味でしたか」 と後から意味づけを学ぶこともしばしばあります。何より重要なのは、 「イエスに従っていく」ということです。イエス様は信仰の道筋を定め、 救いの道を完成し、ご自身が「父が定めたレース」を走り切った「完成者」でもあります。自分の喜びよりも父の心をかなえることの方が、はるかに優っているとへりくだって走り切られたのです。
私たちが見つめるべきは「イエス様」です。私たちの創始者と同じゴ ールを私たちは見据えているでしょうか?子どもの賛美にこんな歌詞が ありました。♬天国目指して行こう!出発準備できた。イエスを待っている♪「天国、神様の御許というゴールは確かにある」と教会学校で、小 グループで今月も語り合い、イエス様を見上げましょう。

 

 

 

 

2022年9月4日
産みの苦しみ 

ローマの信徒への手紙8章18-30節 

青葉教会の墓石に、「信・望・愛」と刻まれています。パウロは、信仰、希望、愛を大切な事として教会に伝えています。ローマ書 8 章で、先回、 信仰について学びましたが、今回、希望についてパウロは語っています。神は私たちにどんな希望をお与えになっているのでしょうか?
 

1.神は被造物を解放する

SDGs(持続可能な開発目標)という言葉をよく耳にします。創世記にあるように、私たち人間は地球の良き管理者にならなければならないと いう意識がクリスチャンにあり、環境問題に真面目に取り組まなければ ならないと感じるところでもあります。ところが、一方で、一人の牧師 からこんな意見もありました。「人間が作り上げた社会制度によって、どこまでも持続し繁栄した世界を築こうとすることは、21 世紀のバベルの塔ではないか。」私も人間の社会制度の脆弱性を感じている者の一人です。 さて、聖書は神が完成させてくださる持続可能な永遠の世界があること を伝えています。イエス様が再び、この地上に来られ、王座に着座される時、神の祝福が目に見える形で完全に成就するのです。
 

2.神は私たちの体を贖う
今日の聖書箇所に、「うめき」という言葉が3回登場します。「う~・・」と声をあげる状態になっているという意味です。苦しい時に出る声であり、言葉にならないような状態の時に私たちはうめきます。ところが、 私たちの神の子にされる前段階での苦しみは、ただの苦しみではなく、産みの苦しみです。赤ちゃんの産声を聞く時の感動と喜びは例えようがないほどです。聖書は、被造物及び私たちは産みの苦しみを経て、神の栄光に輝くことを預言しています。身体に弱さを抱えている人にとって、贖われるというゴールがあると信じるなら、希望が湧いてゆきます。そして、その希望は天国までつながっているロープあり、それを握ってい る私たちをイエス様が手繰り寄せてくださるのです。

 

 

 

 

2022年8月28日
建設中 

コリントの信徒への手紙二6章1-13節 

1.教会生活の困難と恵み
教会には神の家族を増やしていくという目的があります。パウロはその為に自分のこだわりを捨て、変えられるものは変え、「わたしはあなた がたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以 外、何も知るまいと心に決めていた」と言っています。パウロは教会と いう群れを建て上げる働きをしながら、苦難と同時に神の恵みを経験しました。一番の恵みは何よりも救いです。たとえ癒しを頂けなくても、 戦いが収まらなくても、衣食住が整わなかったとしても、魂の救いであ る神のものとされることは、この上もない恵みです。パウロはここで人 を欺いているようだとか、知られていないようだとか、死にかかっている、罰せられている、悲しんでいる、貧しいようだとか、言っています。 そんな状況の中でさえ、パウロはコリントの人たちを自由に愛すること ができたのです。これは神業です。神様の助けがあったからこそです。

 

2.互いに心を開く
偽教師のたくらみで、パウロに対して心を狭くしているコリントの人たちがいたようです。パウロは神の協力者として語り掛け、子どもに対するように「心を広くしてください。」と願いました。パウロとコリント の人たちとの関係には、神様がおられることを忘れませんでした。私たちも教会生活において、まずは神の協力者であるということを思 い返しましょう。そして互いに励まし合うために、直接交わりを持ちま しょう。毎週顔を合わせるような近しい人との関係において「愛の交わ り」をするのは、自分の生活にも大いに影響が及び、困難を経験することもあるでしょう。しかし、パウロが経験したような神の恵みも私たち の教会生活には注がれるのです。信仰の成長を促し合えるような交わりが与えられますようにと祈ります。霊肉共に喜びも悲しみも分かち合い、ますます神の家族とされていきましょう。

 

 

 

 

2022年8月14日
父に叫ぶ 

ローマ書 8 章 14-17 節

キリスト教はどんな宗教でしょうか? 世間一般的なイメージとして、 愛と平和を説く宗教。クリスマスをお祝いするなど、西洋文化の基盤と なった、などあるかと思います。さて、ローマ書 8 章はキリスト教の最高峰と呼ばれています。他の宗教とは一線を画すような独特なメッセー ジを伝えています。どんなメッセージでしょうか?


1.御霊は私たちを生かす
ローマ書 7 章で、目につくのは、「わたし」という言葉が多いことです。「もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(7:19) いうなれば、主人公が「わたし」でしたが、8 章に入ると、主人公が「御霊」に変わっています。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。」(8:9) 自分が主体となって生きようとすると、行き詰まりを感じ、苦しくなってくるのですが、キリストを受け入れて以来、聖霊が主となって、私を導いてくださるので、安心感があります。聖霊の主導によるなら、私たちの視点が変 わり、考え方が変わり、習慣が変わり、人生が変わってゆくのです。


2.神は私たちの父となる

神を父と呼ぶことは、もう一つのキリスト教の教えの大きな特徴です。イエス様がいつも、「アッバ(お父さん)」と神に向って祈っていた姿が あり、同時に、「天にまします我らの父よ!」と祈りなさいと弟子たちに教えたことが、強いインパクトとして残りました。「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(15)とありますが、原語では「叫ぶ」となっています。神に何かお願いをし、呼びかけるだけでな く、叫び求め、賛美する対象となる近しい関係とされていることは素晴 らしいことです。豊かで偉大な神が私たちの父となって下さり、内に住 まわれる御霊がそれを教えているのです。

 

 

 

 

2022年8月7日
平和な統治を 

イザヤ書 26 章 6-13 節

私たちの心は平和を求め続けています。聖書のキーワードの一つはシャロームです。「完成する、全うする」という意味がある言葉です。


1.シャロームはどのように崩され、回復されるのか

神のシャロームはエデンの園にあった完全な調和と健全さから知ることができます。神はまず世界を平和な状態に創造されました。このシャロームがなぜ崩されてしまったのでしょうか。私たちは歴史を振り返って、平和が崩れた原因を探そうとしますが、神は既に最初の原因に着手されていました。神様は国から取り戻すのでもなく、環境から整えるのでもなく、まず霊的に私たちを取り戻すことをなさいました。その為にサタンの力を砕く十字架、赦しの宣言があったのです。全き平安と呼ばれるシャロームは神抜きでは実現不可能です。この世界は神が造られ、「神が治めることで平和になる」のであって「自己中心の人間の知恵によるなら、サタンに利用されて破壊にすすむ」という弱さを人間は持っているからです。


2.神の支配を求めることだけが平和を保つ方法
神に従い、神を待ち望む義人は神の裁きを恐れません。神の裁きがなされれば、秩序が取り戻され、平和になるのです。救い、恵みと同じよ うに、シャロームも神から授かるものです。エフェソの信徒への手紙 6 章に「平和の福音を告げる準備を履物として履きなさい」とあります。 福音を告げることが平和なんだとパウロは言ったのです。私たちは平和 の福音を告げるために歩いていくのです。この世界を神中心に変えて、神を認め続けることがシャロームへの道なのです。私たちではなく、永遠の神が結局のところ、完全な平和で統治されるからです。
創造の初めに授けてくださった平和は、すべての被造物に必要なもの です。私たちはどのように「神の平和」に協力していくべきでしょうか。


 

 

 

2022年7月31日
心のもつれ 

ローマ書 7 章 24-25 節

強い信仰の人とはどういう人でしょうか? どんなことが起こっても動じず、いつも神様に祈り求め、心に迷いがない人をイメージします。パ ウロは信仰的模範となる人物ですが、不思議なことを語っています。「わ たしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(25)強い信仰の人であるパウ ロは葛藤を感じています。どのような意味と目的があるのでしょうか?
 

1.内なる人が強められる

もし、私たちが霊的に死んだ状態であるなら、善と悪が心の中で戦っていることを感じて苦しむこともないはずです。悪いことをして捕まる のは嫌だけど、別にバレなければいいと思っていたら、罪と戦う辛さも 葛藤を感じることもありません。しかし、目には見えない神と霊でつな がっていて命を受けているゆえに罪と格闘する苦しさがあります。しかし、それは聖なる葛藤であり、神の御心に適った葛藤であると言えるの ではないでしょうか? パウロが最晩年に書いたと言われている「第二テ モテへの手紙」では、テモテに対する愛の配慮が記されています。パウロが、罪との戦いの末、愛の人に変えられていったことを想像すること ができます。そのように歴戦を経て、内なる人が強められてゆくのです。
 

2.キリストに委ねる

キリスト教の不思議さは、弱さを包み隠さずさらけ出しているところです。初期のキリスト教会の担い手となった弟子たちは、怒りっぽく、忍耐力がなく、独善的で自己中心で、性格的にも難ありの人たちでした。 ところでクリスチャンになる時、バプテスマを受けます。バプテスマは、清く正しく、立派な人になったという認定式ではありません。全く 逆の発想が必要であり、弱い自分をすべてイエス様に委ねようとする信 仰が自分を変えてゆきます。葛藤を葛藤としてそのまま抱え込んで悩むのではなく、イエス様に任せることができるなら幸いです。

 

 

 

 

2022年7月24日
主が開かれる

コロサイの信徒への手紙 4 章 3-6 節 

1.そもそも伝道とは?
伝道とは「神の秘められた計画を語る」ことです。神の秘められた計 画とは、「イエス様が救い主」ということで、少し詳しくすると、「信仰告白文」の内容です。「み言葉のために門が開かれる」ことをパウロは願 っています。み言葉を語れる場面が与えられ、聞いてくれる人と出会え るようにと求めています。伝道は、イエス様が十字架にかかられ、復活されてからずっと、2000 年間神様のみこころです。全ての人に「神の秘められた奥義」が必要なのです。今、私たちが地上に生かされているの は、伝道するためです。

 

2.開かれている扉の方へ
パウロは囚人として捉えられてから宣教旅行はできない状況でした。神の秘められた計画を明らかにしようとせっせと手紙を書き、外に出ていける方に託しました。皆さんはパウロのように「自分が福音を語れる ように」とお祈りしたことがあるでしょうか。「神の奥義を話せるように祈って欲しい」と祈り合いましょう。

 

3.機会を生かして、ひとりひとりに

イエス様もパウロも「語り続けるために」賢く時を用いました。神様が扉を開いてくださるように、私たちが開かれた扉に気づくように祈り 求めていきましょう。与えられた場にふさわしい健全できよい汚れのない会話によって、「神の奥義を知りたい!」と思う求道心を掘り起こすような、ひとりひとりに対する答え方があるとパウロは伝道者人生で経験してきました。
私たちは「青葉キリスト教会に深く関わりのある方若しくはあった方及びその家族」の皆さんと一緒に天国に行きたいのです。その為なら、神様は扉を開いてくださいます。

 

 

 

 

2022年7月17日
キリストと結ばれ
 
ローマ書7章1-6節

 聖書は、私たちがクリスチャンになるとは、イエスキリストと結婚するようなものであると語っています。どんなライフスタイルになってゆくのでしょうか?
 

1.実を結ぶ(イエス様から良い影響を受ける)

ユダヤ人もギリシャ人も、現代日本に住む私たちも社会規範に従って生活しています。二千年前のローマ時代の夫婦のスタイルと今では大き な違いがありますが、本質的なところは変わらないのではないでしょう か? 神は夫婦を特別な結び付きのある関係として祝福して下さっていま す。パウロは伝えています。私たちはかつて、この世の価値基準に従っ て生きていましたが、キリストと結ばれることとなり、新しい祝福を受 ける者になりました。「あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。・・・こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。」(4) 結婚生活の中で、相手の 良い面から影響を受けることが多々あります。同様に、私たちクリスチ ャンはパートナーであるイエス様から良い影響を受けて人生を送ってい ます。平安という実、喜びや感謝という霊的祝福の実を神に対して結ん でいるです。
 

2.霊に従う(イエス様の心で生きる)
「わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、・・・“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」(6) イエス様は私たちの人生のパー トナーであり、メンターです。主は私たち能力、経歴、容姿で評価する のではなく、そのままの姿の私たちを価値ある存在として見てくださっ ています。私たちに与えられた聖霊(イエスの御霊)がそれに気づかせてくださいます。罪へ誘う欲情から解放され、毎日の生活に喜びを感じ つつ、神の栄光を表すよう導かれているのです。

 

 

 

 

2022年7月10日
集会 

ヘブライ人への手紙 10 章 19-25 節

ヘブライ人への手紙が書かれた時、「ディスタンス」や「感染防止」のための時短などはない時ですが、それでも、「集まることをやめるな」と言われました。ユダヤ人クリスチャンに、「あなたがたの信じたことは確 かなことなんだ」と励まし、信仰の仲間との連帯を促しています。
 

1.神に近づく
クリスチャンの集まりにあって他にはないものは、そこに共におられる神様をしっかり意識しているかどうかではないでしょうか。全宇宙を造られた神が集会を共に始めたいと臨んでくださいます。クリスチャンが集まるところは聖所なのですから、私たちは恐れながら、有難く、祈りをもって、集会、奉仕を進めていきましょう。

 

2.互いに励まし合う
クリスチャンの集会は「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保つ」ためです。心から信じて信仰告白をするのですけれども、揺れ動 きやすい私たちです。より相互的な小グループの集会では、お互いの顔 がよく見えて、「励まし合う」ということが豊かにできます。イエス様は いつも群衆に語られていましたが、最も近しい交わりは12人と選ばれ ました。イエス様でさえそうなら、私たちはなおさら、そのような少人 数の交わりによって信仰を励まし合う必要があるのではないでしょうか。 お互いに敏感で責任を持ち、特に愛と善行を促し合える相互の交わりの 場に参加しましょう。集まる時間と場所を決めて「祈りの課題を聞き出す」お世話役がいてくださったら、すぐにでも始められます。
神様に向かう姿勢をお持ちのあなたに必要なのは、神様を見上げている仲間との交わりです。私たちが皆、かの日まで信仰を保ち続けることができるように、永遠に共にいることができるために、今からできる交わりを始めましょう。

 

 

 

 

2022年7月3日
重大選択

ローマ書 6 章 15-23 節

 聖書は、私たちがイエス様に従うか、悪魔に従うか、この二つの選択しかないと伝えています。イエス様に従うコースを選択する私たちにどんな祝福があるのでしょうか?
 

1.罪からの解放

誰しも、罪を犯してよいと考える人はいないと思いますが、クリスチャンであっても罪を犯してしまうという現実があります。聖書が言っているのは、罪を犯し続けてはいけないと警告しています。悔い改めることなく、そのまま突き進むのであれば、その人は神の奴隷ではなく、罪の奴隷になっているということです。ダビデ王は姦淫と殺人という深刻 な罪を犯しましたが、彼はそれを素直に悔い改めました。神はその方向転換する心をお喜びになりました。三千年前も今も同様な手順があります。ステップ1として罪が示され、ステップ2として悔い改めがあり、ステップ3として神の赦しを体験することができるのです。
 

2.義に仕える

私たちは人生の中で、さまざまな分かれ道の前に立ち止まり、どちらの道に進むべきか選び取りながら生きています。方向づけさせるすべての基準は神の義である聖書にあるとしています。神の義ではなく、自分勝手な正しさを追求してゆく場合、どうでしょうか?士師記に混沌とし た時代が続いていることが書かれています。「それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」(士師 21:25)とあります。
義に仕えている私たちは、目的意識を持って人生を送っています。明確なゴールがあるので、そこに至るまで神から様々なことを学ぶことができるので、活気溢れる毎日を過ごすことができるわけです。この地上は修練の場であり、神が私たち一人一人に合ったコースを用意し、必要な訓練をお与えになっています。そのような思いでいるならば、修練も楽しく、有意義な時間となってゆくのです。

 

 

 

 

2022年6月26日
信仰の自分軸

マルコ5章 25 節-34 節

 小平公憲神学生自分軸とは、「自分はどうしたい、こうありたいという自分の考えのもと行動すること」です。人は幸せになりたいから教会に来るのではないでしょうか。私の場合は苦しみから解放されたいからでした。今日の聖書個所は、有名な長血の女の話です。12 年も苦しんだ、まさに苦しみの どん底にある女性が、イチかバチか、イエスにすがりつく姿が描かれています。この場面でイエスは、病がいやされた女性に対し意外なことを言います。「あなたの信仰があなたを救った。」と、言ったのです。確かに、彼女は自分の信仰を軸に行動したのです。しかし、現代ではイエス の行ったような奇跡も、死人がよみがえることも、皆無に等しいことを、私たちはよく知っています。
 新垣勉さんという盲目のテノール歌手がいます、彼は生まれてすぐ、助産婦のミスにより失明してしまいました。両親に捨てられた盲目の彼 は「自分ぐらい不幸な人間はいない。」と、思っていました。しかし、あ る日ラジオから偶然流れてきた讃美歌を聴き、教会に通うようになり救 われたのです。今では歌手として活躍する傍ら、牧師として、人々にイエスキリストの愛を説いているのです。そして「自分ぐらい幸せな人はいない。」と思えるほどに変えられたのです。彼は何度「目が見えるようにしてください。」と、祈ったことでしょう。でも、そのことは叶わなかったのです。しかし、歌のタレントが与えられ、プロ歌手として紅白歌 合戦にも出場したのです。
 もし、彼に信仰がなかったら、どんな人生になっていたことでしょう。 信仰はあなたと神様の関係を回復させ、人間どうしの関係も回復させる 力を持っています。人生にはよくないことも起きるかも知れませんが、 神様はトータルで私たちを祝福してくださいます。今でも、イエス・キリストは、苦しむ人の回復を願い、祝福を与え続けているのです。そんな苦しむ人に「あなたの信仰があなたを救ったのです。」「安心して行きなさい。」「元気に暮らしなさい。」と語りかけてくれるのです。私たちがどのような信仰に立つかが、私たちを救うのではないでしょうか。

 

 

 

 

2022年6月19日
生き返った者 

ローマ書 6 章 1-14 節 

「我が家の宗教は~教(~宗)です。」と聞くことがあります。キリスト教の場合、家族が自動的にクリスチャンになるわけではありません。 パウロはローマの信徒への手紙で、一人の人が、クリスチャンとして生きる時に、必要なこととして二つのことを挙げています。
 

1.信仰

教会では、イエス様を救い主として信じることを公にするバプテスマを行っています。それは、霊的お葬式であり、古い罪の自分が水の中で葬られることを象徴しており、同時に、霊的誕生も意味しています。私 はバプテスマを受けたのが、30 年以上前ですが、今でもその感覚を覚えています。私たちが全浸礼のバプテスマを大切にしている理由の一つは、 感覚として体に覚え込ませるということにあります。熱く信じていても、 非常に脆弱な感覚です。体に覚え込ませることで、感情が冷めてしまっても、イエス様に対する信仰を感覚として呼び起こすことができるので す。ローマ書は、あなたを愛するイエス様が救い主であることを心でも 体でも信じてゆこうというメッセージを伝えています。
 

2.献身

クリスチャンは自己中心ではなく、神中心になり、イエス様と共に神に対して生きるようにシフトチェンジした者です。私たちは、肉の思い に引っ張られ、神中心のはずが、自分中心になってしまうことがありま すが、軌道修正しながら信仰生活を送っています。さて、パウロはクリスチャンたちに献身を勧めています。信仰の後、献身があることにキリスト教の奥深さがあるのではないでしょうか? 最近、感心した話として、ボクシングの井上尚弥選手が試合後、「今、何がしたいですか?」と質問された時、「練習がしたい。」と答えていました。神に対して生きることは苦しみ、我慢ではなく、楽しみ、喜びとなります。神は、私たちを喜 びある素晴らしい世界へ導いてくださるのです。

 

 

 

 

2022年6月12日
むしろ、

エフェソの信徒への手紙5章15-20節 

弟子たちはイエス様と共にいることを喜び、従っていました。しかし、 もっと聖霊に満たされた後、つまり使徒言行録に入ってからは、素晴らしく変えられて用いられました。私たちも光の子として神の御心を求めて、使徒たちのように歩み切りたいものです。
 

1.むしろ、賢くチャンスを生かす

聖書が「神のみこころ」という時、一つ目は十戒のような「神の律法」、二番目に最善で最高の目的である「神の願い」、最後に神が起こることを 許された許容範囲です。悪い時代には、十戒や神の願いに反しているこ とが沢山起こっています。神の願いを知的に理解しているだけでなく、 実際に聖められていき、伝道していく必要があります。神のみこころを 悟るために、私たちがするべきことは、みことばを読んで、学ぶことで あり、一人っきりの祈りで答えを出さずに、共に祈ることです。ぜひ定 期的に祈り合う仲間を見つけ、神のみこころを悟り、賢くチャンスを生 かしていきましょう。
 

2.むしろ、聖霊に満たされる
私たち人間は無限に力が湧いてくる存在ではありません。誰でも充電が必要なのです。無限なお方は神だけです。満たしを求め続けて、私た ちは信仰の歩みを続けることができるのです。パウロは、一時的に酔いし れるお酒と、永続する喜びを生み出す聖霊に満たされることとを対比させています。イエス様が約束してくださった助け主、聖霊は、全てのも のに優っておられます。私たちを解放し、新しい力で満たすことに長けておられる方です。神様がなしてくださったことを語り合い、また、共に主を仰いで賛美しましょう。
私たちは自分の力や心を満たすものの力を借りて、あらゆることを成 し遂げようとしているのではないでしょうか。助け主として聖霊に頼り、あらゆることについて、イエス様によって父なる神に感謝しましょう。

 

 

 

 

2022年6月5日
祝福のしるし

エフェソ 1 章 13-14 節

クリスチャンになった時、以前の自分と比べて、違っていることを感じたことがあるでしょうか?「あなたがたの体は、神からいただいた聖 霊が宿ってくださる神殿」(Iコリント 6:19)とあります。聖霊を宿す 者になったという驚くべき変化です。聖霊は御国を受け継ぐための保証 となっています。どんな意味があるのでしょうか?
 

1.手付金

「霊」というと、超常現象を引き起こす何か怪しげな雰囲気を感じることがあるかもしれません。しかし聖霊はクリスチャン生活をおいて欠かせない存在です。使徒言行録によると、臆病なペトロは聖霊を受け、立ち上がって大胆にイエスが救い主であることを証ししました。教会を迫害するような人物だったパウロは生き方を方向転換させられました。またパウロは獄中にいた時、平安が与えられ、喜びの賛美を捧げています。すべて、聖霊の働きによります。どうして神の御前に来た時、感動があるのでしょうか?教会の集まりに喜びがあるのでしょうか? 人間の思惑ではなく、聖霊なる神のなせる業でです。保証「アラボーン」というギリシャ語は手付金とも訳せる言葉です。クリスチャン生活の中で、聖霊による手付金としての奇跡を体験することができるのです。
 

2.婚約指輪

「アラボーン(保証)」は婚約指輪という言葉でもあります。すなわち神が私たちに聖霊をお与えくださったと言うことは、私たちが愛の対象 とされているということです。私たちは自分の体、財産、家族を、死後 の世界まで一緒に連れて行くことができませんが、聖霊はいつも離れず、 天国まで伴ってくださる存在です。たとい神から遠く離れて生きている ように見えても、聖霊はいつも一緒にいて、導いてくださいます。聖霊を与えてくださった神をほめたたえることは喜びです。私たちは神の愛 の対象とされているのです。

 

 

 

 

2022年5月29日
訊かれる主

マタイ福音書20章29-34節 

私事ですが、今年の初め妻が脳梗塞で倒れるという出来事がありました。先のわからない不安の中で神様が与えてくださったのがマタイによ る福音書 20 章「二人の盲人をいやす」の箇所でした。イエス様が二人の盲人の叫びに応え、呼び寄せて訊きました。「何をしてほしいのか」と。二人の盲人は「主よ、目を開けていただきたいので す」と答え、すぐに見えるようにしていただきました。二人の望みは誰が見てもわかる明らかなものなのに、イエス様はあえて訊かれるのです。「何をしてほしいのいか」と。そして、盲人たちは自らの心にある思いを言葉にし、口に出してイエス様にすがりました。この聖書の御言葉が与えられた時、私もすぐに声に出してイエス様に祈りました。そして癒しと平安とが与えられました。
私たちは信仰を告白して救われます。パウロも「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのである」と言っています。心に思っていることは真実でも、それを言葉にして口に出して初めて実体化させることができるのです。それだけ口に出す(言葉にする)ことは大切なのです。
最近の SNS 流行りの中、人間の承認欲求の強さを改めて感じます。見て欲しい、聞いて欲しい、認めて欲しい、そんな思いから自分の心を偽ったり造ったりしてしまう人が増えているように感じます。
神様は、イエス様は、いつも私たちを見、私たちの声を聞き、私たち を認めてくださっています。そして、私たちに「訊いて」くださいます。 私たちが心にある真実を口に出して祈れば、必ず聞いてくださる方です。わたしにつながっていなさい、と仰ってくださるイエス様に、日々委ね、信仰を告白してまいりましょう。

 

 

 

 

2022年5月22日
魂の静けさ

詩編 62 篇 1-13 節 

心がざわつく出来事の多い昨今ですが、この作者が抱いた信仰と彼に語られた神のメッセージから学ぶことがあるのではないでしょうか。
 

1.信じているからこその「静けさ」
旧約聖書に登場するダビデ王は4,5節を実体験した人物です。サウル王や実の息子に命狙われ、追われました。人間が口先で祝福し、腹の 底で呪う者であることを、人生で二度も経験したのです。そのような人 生を歩んだ人が「沈黙してただ神に向い、神にのみ、希望をおいている」と心ざわつかせない静かな確かさを告白する。これは信仰のなせる業で す。皆さんにはこの魂の静けさが必要でしょうか。旧約聖書に何度も描かれる心定まらないイスラエルの民のことを神様は悲しみ、ご自身一人を求めることを望まれました。主は「人間に望みをおかず、神だけが救ってくださる」と待っている作者をどれほど喜ばれたでしょうか。私たちも自分の中に「神にのみ希望をおく」信仰を育てていきましょう。

 

2.「静けさ」の中での発見
「人間は空しい者、欺く者。力に心を奪われてはならない」と作者は気づきました。そして、沈黙の祈りの中で「力と慈しみが主のものである」と受け取りました。現代の力とは暴力以外にお金、言葉、情報などもあげられるでしょう。それらすべての力は神のものです。主は力と慈しみの両方でもって、私たちに関わろうとされます。人間だけでは治めきれないと悟り、へりくだり、弱い時には慈しみ深い神に、強い時には
その力を神にお帰しするなら、暴力も搾取もないでしょう。人間が与えることができない根本的なものを与えることができるお方、力と慈しみ主を経験していきましょう。そして、魂の静けさの中で「神にのみ希望をおいている」と告白する者となりましょう。

 

 

 

 

2022年5月15日
アダムの違反

ローマ書 5 章 12-21 節

 パウロは手紙を通して、私たちが究極的に二人の人物から影響を受けていることを伝えています。アダムとイエス様です。それぞれの人物を通して、どんな影響を受けているのでしょうか?
 

1.原罪(アダム)

聖書が伝える内容で重要ですが、理解しがたいのが「罪」の話しです。
ところで、クリスチャン作家三浦綾子さんの代表作に「氷点」があり、 原罪がテーマとなっています。「制御できないものが自分の血の中に流れ ていることを感じた。」というセリフがあります。自分の中に住み付き、 復讐心、欲望ゆえに制御がきかないモンスターが現われます。それこそ、 原罪の正体です。氷点の読者レビューには、「私のことが書かれていると思って、苦しくなった」とありました。この原罪をスタートさせたのは、 最初の人であり、人類の代表だったアダムだったと聖書は語っています。 私たちはアダムから原罪という病気を受け継いでいるのです。

 

2.永遠の命(イエス様)
原罪という不治の病に罹っているという自覚があってこそ、イエス様の救いの素晴らしさを感じることができるし、揺るぎない確信にもなり、大きな喜びにもなってきます。ところで、日本人の死因で多いのが、癌、心臓病、脳卒中、肺炎などですが、最近、死因として増えているのが老 衰で三番目の多いそうです。医療が発達し、かつては不治の病とされていた病気も治療することができるようになり、病気が死因にならない時代になってきています。医療の進歩は素晴らしいことですが、やはり、体の機能が衰えてゆくことはどうすることもできません。原罪という病 気は、最終的にすべての人に死をもたらします。しかし神の偉大な約束は、キリストは、信じるすべての人に永遠の命をお与えになることです。「わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」 (21)イエス様は私たちに満ち溢れる恵みをお与えになるのです。

 

 

 

 

2022年5月8日
神を畏れて 

出エジプト記 20 章 12-21 節 

神様はイスラエルの国造りの時に十戒をモーセの手に託されました。人間関係の中で重要視されているのが「父母を敬う」ことです。
 

1.神が与えた父と母
「あなたの父母を敬え」との戒めは生きている限り、主からの命令です。しかし、ご自身の親子関係にいろいろと課題を感じておられる方々 もおられるかもしれません。ただだからといっていつまでも「親が悪い」と言っていても解決はやってきません。それは、あなたの生涯にとって も良いことではありません。神様は民が従えるように、迫られました。 そして、まずしっかりと神様と自分との縦の関係を築くよう十戒の前半で命じられました。この神が与えた父母であることを認めましょう。

 

2.子どもたちが父と母を敬えるように、互いを大切にする。
十戒を与えた神様は、この命令を子どもたち、孫たちに受け継ぐよう
に命じられました。神がおられること、神が命じておられることを伝えましょう。子どもたちが父母を敬うことがよりたやすくなるように、父と母が互いに尊敬し合い、愛し合いましょう。
旧約聖書は神様の戒めが与えられた時代です。戒めゆえに私たちは罪 に気づかされるのです。守れない自分、完璧ではない自分、それを告白 して、新約の恵みである十字架の赦しを受け取ります。赦しを受け取り、 自分の力ではなく、神様の助け、もう一人の助け主である聖霊の助けを 頂いて、少しずつ変革されていきます。イエス様は律法を成就するため に来てくださったお方です。十戒を始め、神様のみこころを生きる者と なるために、私たちのところに来てくださったのです。神様には私たちを造りかえることがおできになります。今年の母の日を機に、親子関係を振り返り、神様に手術して頂き、「父母を敬え」との戒めに従える者として頂きましょう。

 

 

 

 

2022年5月1日
新しくなり 

ローマ書 5 章 1-11 節 

「喜び」というとどんなイメージを抱きますか?健康でおいしいもの を食べ、友だちや家族と楽しく過ごすことは、最高の喜びであると感じ ます。さて、パウロは、喜びについて語っていますが、牢屋の中で迫害 下のクリスチャンのメンバーに書き送っています。キリスト教の不思議な点ですが、どんなことを喜びとしているのでしょうか?
 

1.神の救いを喜ぶ
私たちが抱える中で、死の問題ほど大きなことはありません。どんな強く有能な人でも死に直面することの恐怖心は大きく、無視したり、振り払ったりできるものではありません。ところで、親鸞の言葉、歎異抄とローマ書は驚くほど似ていると言われています。凡人は善を行う心が破綻しているので、自力で救われない。ただ阿弥陀如来(メシア)の救済に頼るしかない、という主旨のメッセージを伝えています。メシアとはどなたでしょうか?パウロは、二千年前にゴルゴダの丘の上で死なれた十字架のイエス様だと伝えています。キリストのお陰で、救いは完成されました。

 

2.クリスチャンライフを喜ぶ
神に愛され、命を贖われ、義と認められた私たちが、どうして苦難に遭わなくてはいけないのでしょうか?聖書注解書などで、解説しているのは、神が私たちに与えるのは、「聖化」と「栄化」です。聖化とはキリストのお陰で、きよめられ、罪なしとされて神の子とされることです。 一方、栄化はイエス様と同じ栄光の姿に帰られ続けることです。苦難に遭って、忍耐し、忍耐することで練られた品性を身に着け、気持ちを確かにし、未来に希望を抱いてゆくことができます。十字架に架かったイエス様を思う時、深い愛を感じます。神の存在を証明することはできま せん。しかし、神を礼拝する時、確かに心に喜びがあります。イエス様の救いを喜び、イエス様と共に歩む人生を喜ぶことができるのです。

 

 

 

 

2022年4月24日

バトンタッチ

マタイによる福音書28章16-20節 

 

500 人もの人と一緒に弟子たちが指示された山に行くと、イエス様もいらっしゃいました。数年後に、この時のことを、ペトロは「イエスは、 御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者 であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちに お命じになりました」と話しました。(使徒10:42)
 

1.イエスの弟子として

イエス様はご自身がまず弟子作りをされました。そして、最後に「次の弟子を作りなさい」と言われました。まずバプテスマを授け、イエス 様から何度も聞いた神の国の当たり前のことを、シンプルに教え続けるように命じられました。キリストの弟子の定義としては「バプテスマを 受け、キリストの言葉を守る人」であり、「次の人にバプテスマを授け、キリストの言葉を守るように教える人」のことです。
 

2.弟子たちと共にいる約束
マタイの福音書は最後にも「神が共にいる」というメッセージを残します。弟子に託されているのは「すべての民をイエス様の弟子にする」ということですから、言語や文化の違い、信頼関係の作り方、ありとあらゆることが「どうすればいいのか!」と頭を悩ますことになるのをイエス様は分かっておられます。弟子たちは世の終わりまで、共におられるイエス様にすぐ聞けるのです。助けを求められるのです。
執事と教師の皆さん、そして青葉教会に集われている全ての方々、私 たちはイエス様の大宣教命令に従ってキリスト教会の働きをしています。 お一人お一人が教会に導かれたということは「弟子になる方々」として イエス様が選ばれたということです。お互いがイエス様に従えるように 支え合っていきましょう。「次の弟子」を育てるイメージをいつも保って いましょう。

 

 

 

 

2022年4月17日
復活の王 

マタイ福音書27章62-28章10節 

カンタベリー大主教が、エリザベス女王に質問したそうです。「女王様! もしキリストがあなたの前に来られたらどうしますか?」すると女王は即座に、「頭の冠をとってキリストに前に置き、その足下にひれ 伏します。」と答えたそうです。イエス様こそ、王の王、主の主であり、私たちが拝すべきお方です。
 

1.私たちに勝利を与える王

イエス様が「自分は三日後に復活する」と弟子たちに語ったのは、重要な言葉だったはずですが、思い出したのは、弟子たちではなくイ エス様の敵対者たちでした。彼らは抜かりなく、完全に葬り去って、影響力が残らないようにするため行動しています。ピラトはローマ帝 国内のユダヤ州総督として、騒ぎが起こらないように最大の注意を払いました。主の墓は洞窟のような横穴式の形状でした。ピラトは入り口に、大きな石で蓋をし、漆喰で固め、当時の世界最強権力の印を刻印しました。しかし、イースターの朝、地が激しく揺れ動き、封印は破られました。そこへ、天使が石の上に座りました。キリストが勝利したことを示す象徴的な場面です。死の力を持つ悪魔に対する勝利であり、私たちに先立って死者からの復活を証明となる出来事でした。
 

2.私たちと出会ってくださる王

天使は婦人たちに「恐れることはない」と語りましたが、これはクリスマスの時、天使が人々に最初に語ったメッセージでもあります。 またインマヌエル(神ともにおられる)なる主は「わたしは世の終わりまでいつまでもあなたがたと共にいる」と弟子たちを励ましておられます。変わらずいてくれるということにどれだけの安心感があることでしょう。イエス様は、「そこ(ガリラヤ)でわたしに会うことにな る。』」(10)と約束しました。最初の愛の原点からもう一度やり直そうと呼び掛けてくださったのでした。

 

 

 

 

2022年4月10日
御国の王をお乗せして
ルカによる福音書 19 章 28-40 節 

イエス様一行はエルサレムに近づいておられました。それまでイエス様はご自身のことを宣伝されるようなことはありませんでした。しかし、 今回はご自身が「王」であることを皆によく分かる演技をもって表現さ れました。弟子たちもイエス様に応答し、群衆もつられて、歓迎ムード が盛り上がりました。
 

1.主がお入り用のときに
「主がお入り用なのです」という言葉から、イエス様はすべてのものを所有しておられる王であることが伝わってきます。そして、適材適所で一人一人をお用いになります。この時主は何よりもろばの子が「お入り用」でした。御国の主だけが王として注目されるために、聖別されたものが「お入り用」です。

 

2.御国のために

弟子たちがもし、「ユダヤ人の王」という罪状書きが添えられた十字架と言う結果を知っていたら、このエルサレム入城は「しなかった方が良かったこと」に思えたかもしれません。しかし、イエス様は後悔どころか、むしろ「満足」されるのです。イエス様はこの世の王ではなく、御国の王だからです。十字架の死で終わるのではなく、復活の王となるところまで見通しておられたのです。「主がお入り用」と言われてする奉仕には、私たちの実感できる結果などあまり問題ではありません。主はその時の弟子たちの信仰、そしてご自身がその賛美にふさわしい者である ということで、賛美を受けられました。平和の王であられるキリストが来られるという天からの福音を私たちは受け取るのです。どんな状況でも主は賛美を受けるにふさわしいお方です。
礼拝に集われる皆さんは今の時代に「主がお入り用」である方々です。 御国の王をお運びする働きが託されています。その時のために、スタンバイされていますか?

 

 

 

 

2022年4月3日
むしろ信仰 

ローマの信徒への手紙 4 章 13-25 節 

アブラハムは、おとぎ話の登場人物ではなく、4000年前に実際に生き た私たちと何ら変わらない生身の人間です。神はアブラハムに二つの約束をし、成就なさいました。どんな約束だったのでしょうか?
 

1.世界を受け継がせる約束
創世記 12 章にこうあります。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。』」(創世記 12:1)
「アブラムは主の言葉に従って旅立った」と簡単に書いています。アブラハムは神と交渉をし、約束の地が、どんな環境で、どんな作物が取れるのか説明を受けたわけでも、契約内容に納得して、取引をしたわけで もありません。ただ神に信頼して従ったのです。神からの呼びかけは不 思議です。この地上の価値観で測れない偉大な世界を感じることができるからです。神様の呼びかけに応答することは感動があり、喜びがあります。アブラハムは理性や世間一般的な常識で判断したのではなく、た だ主に信頼して従っていきました。神がアブラハムに呼びかけたように、私たちに語りかけ、神の国に招いておられます。

 

2.死者に命を与える約束

「熱心な信者」というと、場合によっては、非常識で、伝統を軽んじ、社会の和を乱す厄介な人というイメージもあるかもしれません。アブラ ハムは神が死者に命を与えるお方であると認め、子孫繁栄の約束を信じましたが、現実的に彼も妻のサラも加齢という問題を抱えていました。 彼は賞賛すべき信仰を持っていましたが、常識も判断力もありました。 一般的に、私たちは現実が厳しいと感じるほどに、心は冷め、世の中の 価値観や常識の方に引っ張られることがあります。アブラハムは「むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」(20-21)神の約束 を信じることは、信仰の素晴らしさであり偉大さです。

 

 

 

 

2022年3月27日
祈りの中で深まる絆

ヨハネによる福音書 17 章 1-19 節 

イエス様は私たちがイエス様に頼ると決めた時から、私たちが永遠に 生きるように、滅びないように、父から受けた権能を用いてくださるお 方です。イエス様は「神様との絆」を私たちに与え、それこそが救いであり、主の平和です。


1.父なる神様とイエス様と弟子たちの絆

この三者の絆の中に、栄光、御言葉、永遠の命、守り(保護)、喜び、世に憎まれる、真理、聖なる者、世に遣わされるというキーワードがあります。弟子たちはイエス様から感化を受け、イエス様が愛される事を 愛し、イエス様が憎まれることを憎むようになっていきました。この三 者の中ではいつも御言葉がありのままで当たり前なのです。皆さんも祈りを積み重ねていく中で、御言葉は真実だと経験もなさったでしょうか。 神様の御言葉がその通りだと体験すると、神を知る喜びと平安がやって きます。このお方が守ってくださると分かるからです。
 

2.世に属する者ではない
同時に、聖なる神様との絆は、聖ではないものとの決別を与えます。イエス様は「世の中に残していく弟子たち」のために祈っておられます。 死ぬ時に世のものを全て持って天の国に行く事ができないのと同じように、「神に属するもの」として生きれば生きるほど、この世と調子を合わ せることができなくなります。「なぜですか」と苦難の中で祈るたびに、「あなたは世のものではないからだ」とイエス様がとりなし祈ってくだ さるのです。世に属するものではない、神のものであるという信仰が、世に遣わされた使命を成し遂げる力になります。祈りの中で神様との絆を深められた皆様に、神様は期待しておられます。新年度、皆さんには主が何を託しておられるでしょうか。ひと時祈る時間を設け、神様の導きを探る祈りをしていきましょう。

 

 

 

 

2022年3月20日
お手本 

ローマ書 4 章 1-12 節 

キリスト教の教えが、他の宗教の教えと決定的に違っているのは、私たちの良い行いではなく、神の恵みによって救われるという点です。私たちがお手本とすべき人とはどういう人なのでしょうか?
 

1.神に信頼する者

ユダヤ人にとってアブラハムという人物は特別です。

民族の出発点となった人でもあり、その人物を特徴づける称号は「神の友」です。神はアブラハムを信頼し、親しい関係を結び、重要なことを包み隠さず話しました。しかしながら、創世記を見る限り、彼はいろんな失敗をしており、決して完璧な人ではないことが分かります。聖書にあるのは、「アブ ラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」(3)です。信仰とは、自分ではなく神の誠実さにより頼むことです。いうなれば、乗るべき乗り物に乗るということであり、後は、天国という目的地まで運ばれ る安心感を抱くことができます。
 

2.神に罪なしと認められた人

ダビデはイスラエル国家の英雄であり、古代イスラエルの繁栄を築いた偉大な信仰の王です。しかし、アブラハムと同様、ダビデもまた完全 な人ではありませんでした。むしろ、彼はとんでもない罪を犯してしま いました。ダビデは預言者ナタンに罪を指摘された時、自分が深刻な罪 を犯してしまったことに気が付きました。ところで、罪を解消するために一般的に取られる方法として、良い行いをすることがあります。彼は次にように語っています。「わたしは罪をあなたに示し咎を隠しませんでした。わたしは言いました『主にわたしの背きを告白しよう』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。」(詩篇 32:5)ちなみにダビデは神に「私の御心にかなう者」と言われています。彼の功績と言うより、罪を隠さず神に示し、告白するという態度を良しとされたのでした。

 

 

 

 

2022年3月13日
嘆きの祈り 

詩編 116 篇 1-19 節 

クリスチャンとして患難をどのように潜り抜けていくのでしょうか。
 

1.渦中では「嘆き祈る」
この作者と神様との関係は「嘆き」を祈れるほどに親密な愛の関係でした。「魂が死を意識する」状況の中で、「わたしの足を突き落とそうと する者」がいる。二次災害とも言われる偏見や差別がもともとの苦しみ に重なっています。作者は誰にも頼れず、患難の中に置かれた経験をしたのです。「嘆きの祈り」には様々な感情があり、様々な種類の痛みがあります。憤り、怒り、苦しみ、痛みの祈りです。多くのクリスチャンがあの震災の最中にただ「神様!!助けて!!」と大声で祈ったと言います。ありきたりの言葉でもいいのです、ただ神様の名を呼びましょう。 神様には苦難を意味あるものにする力があります。この詩には「死の綱 がからみつき」や「激しい苦しみ」などという言葉に並んで、「愛する」や「信じる」という言葉が混ざっています。神様は苦しみの中でご自身 を見せ、ご自身への信仰を育てようとなさいます。

 

2.救いの感謝をささげる
12節以降には、この作者が公の場に出て神の救いを感謝する姿が見られます。振り返る思い、落ち着きが出てきています。苦難、災難、嘆きからしばらくたった後で、私たちも救ってくださった神に、会衆の中で感謝をささげましょう。震災の時多くの人が「生きていくために必要 なものは多くはなかった」と言うことに気づかされたのに、私たちは11年たって忘れているのです。感謝を神にささげるのは、生かされた者、救われた者の使命です。嘆きも感謝も全てを持ち込んで、主の前に来る時、それらをも神様が共に担ってくださることを体験します。自分のためにも、誰かのためにも、嘆きの祈りをささげ、そして救われたなら感謝の祈りをささげていきましょう。

 

 

 

 

2022年3月6日
救出手段

ローマ書 3 章 21-31 節 

聖書が私たちに語っているのは、神は天のお父様であり、私たちの心配を取り除き、守って下さるお方であるというメッセージです。どのように私たちを救ってくださるのでしょうか?
 

1.贖いの業を通して
聖書の世界では、大雑把に言うなら、三者登場します。神と人と悪魔です。そもそも悪魔は神によって造られた霊的存在でしたが、高慢になり、自ら神の位置に立とうと反逆しました。人も神によって創造され、愛の対象となっていましたが、悪魔の誘惑にあって罪を犯してしまいました。神は正義と完全な聖さがあり、罪や汚れと交わることはできません。もし神が人の犯した罪をうやむやにし、なかったことにするなら、告発者である悪魔は、神に「あなたの正義は破綻している!」と糾弾するに違いありません。神がした人類救済方法とは、三位一体の第二位格のイエス様が人の身代わりとなって罰を受け、死ぬことでした。十字架は神の正義と愛の交差であり、私たちの命を贖うための御業です。


2.信仰の法則によって

教会生活の中で、よくこんな意見を聞きます。「私の信仰は弱いので、もっと強い信仰がなければならないと思います!」考えてみるなら、自分で努力して熱心になり、信仰を強くするということなら、行いの法則であり、行いによらなければ神の恵みを得ることができないことになってしまいます。さて、聖霊なる神の働きは、人に罪を示すことです。自分のことを理解できないのが私たちですが、聖霊によって、自分の中に罪があることにと認めることができ、その自覚があってこそ、神の恵みを受けることができます。私たちの頭が良さや努力によって信仰を持つことができたのではなく、信仰もまた神様からのプレゼントです。神は私たちの行いによらず、一方的な恵みとして救出手段を用意してくださったのです。

 

 

 

 

 

2022年2月27日
無益な者となり 

ローマ書 3 章 9-20 節

聖書と他の宗教の経典が語っていることで、決定的に違うことの一つ は、人間理解だと言われています。「頑張れば、良い人間に変わることができる」とは聖書は語っていません。どんなメッセージを伝えているの
でしょうか?


1.罪にコントロールされている
現在、ユダヤ民族は、全世界の人口78億人に対して0.02%に過ぎませんが、様々な分野で活躍し、ノーベル賞を受賞する人の4人に一人はユ ダヤ人だそうです。そんな優秀な民族もまた「罪の下にある」(9)存在 であり、パウロは人間がいかに罪ある存在であるかを聖書から引用して 語っています。「正しい者はいない。一人もいない。」(10)地球上にいる 限り、引力の影響を受けずにはいられないように、罪にコントロールさ れずに済む人はいません。江戸時代の人が、浅草寺お参りの後、吉原の 遊郭に行くように、「信心深いことをしたのだから、多少遊んでもいいで しょ」という論理が働きます。伊勢神宮の隣にある古市という歓楽街は 大盛況で70軒の妓楼があり、千人の遊女がいたそうです。良いことをしたと思ったら、罪の力に引っ張られるのが私たちです。

 

2.義に到達することができない
すべての人の地上の生涯の終わりには必ず「死」がありますが、聖書はそれを罪あることの証拠としています。さて、聖書を学ぶことにどん な益があるのでしょうか?「学ぶほどに良い人間になる」とは語っていません。次のようにあります。「律法(聖書)によっては、罪の自覚しか 生じないのです。」(20) 違う方面から見るなら、聖書を学ぶことで、罪の何たるかを知り、罪の自覚が生じます。そのことで、自分で自分を救うことができないことを悟り、イエス様に救いを求める気持ちが起こります。神に近づくことを通して、価値ある存在としての自分を取り戻すことができるのです。

 

 

 

 

 

2022年2月20日
預かりもの

マタイによる福音書 25 章 14~30 節 

キリストはもともと神と共におられ、神そのものであられました。人間に神様を伝える為、また人間の身代わりに十字架にかかる為、人の姿をとってくださいました。もともと天の国におられたのですが、地上に33年間来られました。たとえ話は「天の国」について伝えています。
 

1.すべては預かりもの
主人とはキリストご自身のこと、僕たちは私たちのことです。キリストは私たちに、素晴らしい能力、豊かなコミュニケーション力、家族、芸術的な素質、経済面、良い性質、集中力、霊的な賜物など様々なものを預けられました。たとえ話では、少なくとも20年分の給与額が信頼 して預けられているということです。天の国を意識して生きる者として、すべてを「預かりもの」として見てみましょう。あなたの手にある「預かりもの」とはどんなものでしょうか。

 

2.誰を喜ばせるために生きるか
神様にお仕えする働きは、この地上で完成するものではありません。私たちはついつい、全ての事柄を、この地上での測りで判断しようとし ます。けれども最後に生き方を評価してくださるお方は、そのような測り方はなさらないのです。「怠け者の僕」は僕であるということ自体に不 満を持っていたことがその発言から分かります。また、僕同士の違いを気にして、うらやんだり、ねたんだり、また自分を卑下したりして、20
年分も預けてくださった主人への感謝を忘れたのかもしれません。傲慢で、臆病な心は、主を悲しませます。キリストの前に僕であることを認め、キリストへの信頼を持ち、天の国の視点へと切り替えて生活して みましょう。皆さんは、最後に神様とお会いするのが楽しみですか?「良くやった」と言ってくださるその日を思いつつ、主に忠実に生きていきましょう。

 

 

 

 

2022年2月13日
プライド崩壊 

ローマ書2章17節-3章8節

「プライド」という言葉は良い意味、悪い意味両方で使われます。「自尊心」でもあり、「自分に固執した狭い考え」というニュアンスもあり ます。クリスチャンは神から恵みを受けることで、正しいプライドを身 に着けることができます。恵みを与える神とはどんなお方でしょうか?
 

1.誉れをお与えになる方
もし私たちの身近に、プライドが高い人がいて、協調性がなく、周囲を見下している人がいたらどうでしょうか?そんな人から距離を取ろうとし、当然、自分がそんな人のようにならないように気を付けるはずです。しかし、プライドは正しさ誤りが表裏一体であり、いとも簡単にひっくり返ることがあるのではないでしょうか?もともとパウロは熱心なユダヤ教徒であり、厳格な律法学者でしたが、彼は待望すべきメシアを気づかぬうちに迫害しました。パウロは、すべての人は罪人であり失格者であると語り、十字架の恵みによる方法でしか救われないことを伝えています。自分のプライドが崩壊してこそ、神が用意なさった義の衣をまとい、神の誉れを受けることができるのです。

 

2.真実な方
「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」(4)とあります。パウロが伝えようとしているのは、人間は神を引きずりおろして、議論を戦わせることができるような相手ではないということです。神は時間と空間を超越している存在であり、全知全能なる 方だからです。この方を真実とすることが、信仰生活で何よりも大切です。私たちの教会が聖書をそのまま信じることを大切にしている教会であることを嬉しく思います。「初めに神が天地を創造された。」というス タートがあり、再臨というゴールがあります。「神は真実」であると告白 する者は、正しいプライドを持って揺れない信仰生活を送ってゆくこと ができるのです。

 

 

 

2022年2月6日
救いの達成

フィリピの信徒への手紙2章12-18節 

1.自分の救いのスチュワードシップ
救いを「新生」と言いますが、信仰は肉体と同じで本人が健康で適度 な栄養と関わりがあると自然に成長していきます。しかし、成長を阻む 病気や怪我がある時には、神様の思いのままに造り変えて頂く働きかけ があります。「救いの達成」は神様の偉業が私たちの中に成しとげられる ことだからです。キリストに中に見られる従順とへりくだりを例にあげ て、パウロは「恐れおののきつつ」とその生活をするよう勧めました。 神が備えられた目的を成就する力を得るとともに、キリストの品性と願 いをも自分のものとする成長を与えられるのです。


2.教会の一致という救いのスチュワードシップ
また救いの達成は「自分たちの救い」のことであり、教会の一致という成長でもあります。救いの達成、信仰の成長のためには、一人で聖書 を読んで祈っていれば十分というのではなく、人の助けが必要なのです。 イエス様のような成熟した性質は、人間関係の中で育まれます。人間関 係を持っていれば「感情」に触れ、不平や理屈を言いたくなる場面は多々 あります。しかし、パウロは獄中から自由に生活している人々に向かって「不平や理屈を言わずに喜んでいなさい」と書き送ったのです。自己中心の人々と同じように不平や理屈を言い合って、よこしまで曲がった 時代を作っていくのではなく、非の打ちどころのない神の子どもとして 星のように輝き、聖書に従い、イエス様を心にしっかりと保ちなさいと。 イエス様が再臨される日に、そのような教会が残っていることを願い、 そのために殉教することになっても、喜びましょうとまで言っています。救いの達成に向かって、日々成長させて頂きましょう。様々なことを通らされますが、不平や理屈を言わずになすべきことを行い、主を礼拝し、喜びましょう。

 

 

 

 

2022年1月30日
公平なジャッジ

ローマ書2章1-16節 

聖書は神からのラブレターであり、グッドニュースだと言われています。ところが、今日の聖書の箇所は強烈なメッセージです。一言で言う なら、「あなたは罪人だ」と語っています。このメッセージにどんな目的があるのでしょうか?
 

1.罪に気付かせる
嘘をついたことはないでしょうか?小学校の頃、よく使われるありがちな嘘があります。「宿題はやったんです。宿題をやったノートを忘れました。」平然を装って言いますが、心臓はドキドキして、嘘をついている ことのやましさを心の中で感じるわけです。ところが、人間は年齢を重 ねると、知識が増してゆきますが、一方、罪に対する感覚がどんどん鈍 感になってゆきます。次のような聖書の言葉があります。「悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。」Iコリ 14:20 悪事に関しては幼子のように敏感になり、自分の罪を嘆きなさい ということです。聖書は、罪に真剣に向き合う心は尊く、その行為は幸 いな恵みであることを伝えています。

 

2.イエス様に近づかせる
罪の意識を持つことはなぜ幸いなのでしょうか? 罪の問題を解決できるイエス様に近づくようになるからです。ニュースで山からサルが住宅 街に迷い込んでしまったという映像を見ることがあります。大勢の人が 動員され、網を持って大捕り物になります。なかなか網にかからず、四苦八苦しますが、それでもあきらめません。これは大の大人たちが寄ってたかってサルをいじめているわけではありません。むしろ、サルを救ってあげるためです。網にかけ、安全な山に逃がしてあげるために行っています。パウロは、言うなれば、「罪人」という網にかけ、そこに閉じ込めて、安全な場所であるイエス様のもとに連れてゆこうという思いか らこのメッセージを語っているのです。

 

 

 

2022年1月16日
御顔を求め

イザヤ書40章27~31節

愛唱聖句とされている方も多いこの聖書箇所は「神様に忘れられている」と思える状況にあった民への預言です。忍耐の期間が長引くと、 希望を見失いそうになります。そこから何が始まるのでしょうか。
31節で、イザヤは「主に望みをおく」と表現しました。私たちは信 仰生活でも頑張ってしまうところがあります。しかし、神様は時に御自分の力に着替えさせるために、人の力を打ち砕かれることがあります。 ただ主を仰ぎ見、主ご自身を求める時、その人の中にはなかったもっと 偉大な神様のお姿を現してくださるのです。過去数年間起こったことば かりを考えていた民に、神様は「わたしは永遠の神だ」と現れます。イスラエルの神に守って頂けないような外国に来てしまったと感じていたであろう民に、「私は地の果てまで創造した」と仰るのです。他国と比べ て無知であること、技術の足りないことを思って嘆き、やはり悪の力は強いと打ちひしがれていた民に「神様の英知は測り知れない」とご自身を現わされます。神様がご存じない状態で起こる出来事などないのです。 全ては神の手の中です。
主を待ち望み、想像をはるかに超える神ご自身を知らされる時、私たちは新たな力を与えられ、勢いを与えられます。鷲が上昇気流に乗って大空を飛ぶように、聖霊という風に乗って、私たちは神様のご計画の歩みを始めることになります。
主を待ち望みましょう。「祈りの絆を深める」今年度もあと少しです。 主ご自身との絆を深めるために、ぜひ「待ち望む祈り」を加えてください。私たちが抱いている枠組みに入りきらないほど偉大で、素晴らしい主を求めて、心を開きましょう。主が触れてくださること、主が語ってくださること、主ご自身が現われてくださることを待ちましょう。

 

 

 

 

2022年1月9日
マイナスをプラスにかえてくださるイエス様 

ヨハネによる福音書 9 章 1‐12 節 

 新共同訳聖書のこの箇所の見出しは、「生まれつきの盲人をいやす」とあります。イエス様が、道を歩いておられるとき、目のみえない彼を見られた。そして彼の目にドロをぬり「シロアムの池に行って洗えば目が見えるようになる」とイエス様は言われ、その通りに彼が行うと目が見えるようにいやされたという物語です。

 目のみえない彼を見た弟子たちは、「生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」と質問しています。この弟子が言っているのは普通の考えです。だいたいの人がこのように考えるのではないでしょうか。今、この人が負っているものの原因の理由を求めてしまいます。
 弟子たちの質問に対しイエス様は、「神様のわざがこの人に現れるた めである」と言われます。イエス様は、私たちが過去に何を行ったかは あまり関心がありません。「何でだろう」と思うよりも「何のためにこの ような試練を私に与えてくださったのか」と考えるように導かれ、今の 状態から回復できるようにされようとしてくださり、そして神様の命に あずかり神様の恵みの中で生きていけるように導いてくださいます。たとえそれが、自分の思いや理解をこえていることであっても、主が言われたことに従い、一歩踏み出すことで、神様のみわざが実現するのです。
 イエス様は、あなたの悩み・苦しみや問題をすべて解決することができます。あなたを暗闇の中から救いだしてくださいます。「なんで」「どうして」と過ぎ去ったことで後ろをみるのでなく一歩踏み出す勇気を与 えてくださる、イエス様に目をむけることが大切です。イエス様が、すべてのものを働かせて益にかえてくださることを私たちは知っています。神様は、将来の希望・恵みを約束してくださっています。神様は約 束を必ず守ってくださいます。神様を信じて与えて下さる将来の希望・ 恵みをみつめて、一歩前に踏み出し、神様に期待して歩んでいきましょう。 松倉善浩

 

 

 

 

2022年1月2日
求め、得よ 

イザヤ書 55 章 1‐3 節 

新年、神様に何を求めているでしょうか? 今日の聖書箇所に、「魂に命 を得よ」という不思議な表現があります。私たちの魂に生き生きとした 命が宿っていなかったら、いくら健康で物質的にも恵まれても人気者で居られても、喜びを感じることができないことがあります。絶対的なお方に認められ、愛されているという感覚が生きるために必要です。私たちに「求め、得よ」と呼び掛ける主とはどんなお方でしょうか?


1.豊かさを与える

漁師だったペトロたちはイエス様の弟子になった話しがあります。彼らは「今日は獲れた!」、「今日は獲れなかった!」という繰り返しの毎 日を過ごしていました。魚の取れ高で幸せかどうか決まるとするなら、 幸せバロメーターが上がったり下がったりです。そんな時、イエス様が 近づき、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」(マルコ 1:17)という呼びかけがありました。彼らは、神の大きな目的のために自分の命を燃焼したいという思いと同時に、高い望みを抱いて、崇高な 目的の為に人生を送ることができるのではないだろうか?と考えて主イエスに従ったのかと思います。幸せになる法則は、「神に聞き従うこと」という単純明快なメッセージを聖書は語っています。
 

2.真実な契約を結ぶ

新改訳聖書によると、「代価を払わないで買え」(1)という通常あり得ない表現があります。代価を払わないとすると、「貰え」です。これは誰かが代わりに代価を払ってくれたという意味であり、その恵みを受けることを「買え」という表現で語られています。イエス様は十字架の上で絶命する際、「完了した(テテレスタイ)」と叫びました。経済用語で代価を完全に支払い終えたという意味です。十字架で血の代価を払ってくださったイエス様を信じることは、神とのとこしえの契約を結ぶことであり、魂に命を得る方法です。

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