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<2021年 礼拝メッセージ>

2021年12月26日

なお、主のうちに

詩編139篇1~18節

 

 「先が見通せない」という言葉がこの2年間いろいろなところで言われました。見えないウィルスの蔓延で、私たちの実際の弱さがあらわにされました。その状況の中から詩編139篇を読む時、すべてをご存じの神、どこにでもおられる神、なんでもおできになる神など、神様のご性質が特に際立ってみえます。

 

1.私たちを究める神

 神様は私たちの精神、思いも、行動も、生物学的にもよくご存じです。存在する前から「わたしの日々はあなたの書にすべて記されている」というかかわり方をなさるのが神様だと作者は信じています。もし、私たちにとって神様が恐ろしい方、悪い方であったなら、これは、恐怖の監視状態ですが、そうではありません。主は良いお方です。神様がわたしたちの居場所や会話、行動をご存知なのは、そこかしこで私たちを祝福したいからです。導き、力づけ、守るために、私たちを究めておられます。私たちが暗闇、先が見えない事態にいたとしても、光にいる時と同じように神様には見えている、私たちを守ることができるのです。神様にとっては、闇も光も変わるところがありません。

 

2.過去の神の御計らいを数えるなら、未来を神にお委ねできる

 2021年をそれぞれ振り返り、私たちも詩編の作者と共に、驚嘆に満ちた感謝をささげましょう。驚くべき力に支えられて、ここまでくることができたことに気づくのではないでしょうか。神様の恵み、神様ご自身について「数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる」と。私たちが神様を究めることなどできません。神様を超えていくことなどあり得ません。私たちは神ではなく、造られた人なのです。私たちはどこまでも、なお、主の中にいるのです。聖書の神がどのようなお方であるかを経験すると、全能の神に見守られる安心感を頂くのです。

 

 

2021年12月24日

まことの光

ヨハネ福音書1章9節

 

 キャンドルの灯には体に良い効果があるそうです。緊張感をやわらげ、リラックス効果があり、疲れを癒します。

 さて、今年のクリスマスのテーマは「光の主イエス」です。聖書は、イエス様という光が来られ、私たちの傷を癒し、生きる喜びやエネルギーを与えると語っています。

最近、テレビで以下のような話を聞きました。養殖のヒラメに緑の光を当てて育てたら、通常サイズより1・6倍の大きさになったそうです。ヒラメは水深100メートルの場所で生息します。ちょうど昼間の光は緑色です。そこで、昼間、養殖水槽に緑の光を当てたところ、ヒラメは活発に動き、食欲が増して体がどんどん大きくなったそうです。このように、自然にある光には、素晴らしい癒しと力があることが分かります。

 ヨハネ福音書で、ヨハネはその光はまことの光であると語っています。例えば、ヨハネがこの宗教を「ともしび教」とし、ローソクの形の神様を作って拝み始めたわけではありませんでした。人間が造った神ではなく、人間を造った神がいて、私たちのために人となって現れ、癒しと力をお与え下さったのです。それは、私たち人間の求めが大きかったから、清く正しく生きたからではなく、神様の意志として愛を表すためにメシアが世に来てくださったのです。

 先日、ラジオでお菓子評論家という話を聞きました。「たべっこ動物」というビスケットがあります。40年以上販売されているロングセラー商品です。その商品が特に売れる日があり、年金支給日の15日だそうです。おじいちゃんおばあちゃんが、銀行からお金を下ろし、スーパーマーケットに買い物に行った時、孫に何かお菓子を買ってあげようと思って、その商品を買います。私はそれを聞いて、とても心温まる話だと思いました。孫の喜ぶ顔を想像しながら商品を手にするわけです。人は誰かにプレゼントすることに喜びを感じます。

 主イエスは「受けるより与える方が幸いである」と語る方であり、自らの命を私たちにお与えになった方です。

 

 

2021年12月19日

光の主イエス

ヨハネ第一の手紙1章5節

 

 クリスマスの時期、教会でよく聞くのが「インマヌエル(神は我々と共におられる)」という言葉です。ところで、多くの人は、自分にとって神は遠い存在であり、どんな関係があるか分からない、「インマヌエル」と言われてもピンとこないという方もおられるかもしれません。神とはどんなお方なのでしょうか?

 

1.愛を動機とするお方

 聖書が私たちに語っているのは、神は全面的に信頼できるお方ということです。それは愛を動機として行動しているからです。ところで、なぜ神が人とならなければならなかったのでしょうか?イエス様が普通の赤ちゃんの姿でお生れになったのは、私たちと関係を結ぼうとされたからであり、愛の動機からきています。

 虐待に遭った元当事者の方が、大人に言われて嫌だった言葉を紹介しています。「あなたのことを思って言っているの!」その言葉の裏に大人のエゴ、利益、満足となるようにという動機を感じるそうです。「神は光であり、神には闇が全くない」(5)とは、神は二面性がなく、表裏がない方であることを表わしています。クリスマスは、百パーセント純粋な愛の動機から始まった出来事です。

 

2.信頼すべきお方

 信頼すべき人とは、どんな小さなことでも約束を守る人です。旧約聖書にイエス様の預言が300以上ありますが、すべて実現しています。

 さて、「あなたの気持ち、わかるよ」という言葉も大人に対する不信感を抱く言葉だったそうです。神がお空の彼方で、人間を見下ろしていたのではなく、イエス様は世に降り、貧しい大工の子として生まれ、世の辛酸をなめ、苦しんでいる人の友となって寄り添ってくださいました。そして、光の主イエスは表裏なく私たちを絶対的な価値観で見てくださり、共に生きてくださるお方です。

 

 

2021年12月12日

輝き

 ヨハネによる福音書1章1-5節

 クリスマスは「キリスト祭り」という意味です。自粛とかリモートという閉塞感を抱くような状況の中にあっても、キリストを喜び、お祝いすることができることは幸いです。クリスマスの主人公であり、光の主イエスとはどんなお方なのでしょうか?

 

1.ロゴスなる主

 二千年前のギリシャ人は、目に見える世界がすべてではなく、目には見えませんが、人間には分からない知恵や力があり、その原理がこの地上の世界で働いているのではないかと考え、それをロゴスと呼びました。ヨハネはギリシャ語圏内にいる人々に彼らが持っているワードを使って、イエスキリストを伝えようとした時、「初めに言(ロゴス)があった。」(1)と語りました。古代ギリシャ人が目に見えませんが、確かに存在している知恵と力を感じていたように、このクリスマス、私たちはロゴスであるイエス様が、この地上に来られたことを思い、喜ぶ時となっています。

 

2.命を与える主

 ギリシャ語には命という言葉が二つあります。「プシュケー」と「ゾーエー」です。「プシュケー」はこの地上の命で、「ゾーエー」は永遠の命を意味しています。植物の成長に、光は欠かせません。動物は植物を食べて成長するので、命の根源は光だと言えます。人間は、光合成の仕組みを説明することができても、どうしてそんなことが可能になるのか解明できません。目に見える太陽が、プシュケーのための光であるように、イエス様はゾーエーのための光となっています。二千年前、電気のない時代、初代教会の人々は、家々で集まり、ローソクを灯し、心に明るさを感じたのではないでしょうか?「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(4)イエス様は私たちに永遠の命を与え、それを養うためにこの地上に来てくださいました。

 

 

2021年12月5日

恐れるな

マタイによる福音書1章18-25節

 クリスマスに登場するヨセフは結婚について悩んでいました。妊娠したマリヤと結婚生活を始めることは正しいヨセフにはできないことでした。困惑したあげく「内密に去らせよう」と決めたとあります。

 

1.神の前で悩む

 神様に従おうとする人が少なからず悩みを通るのは当然なのでしょう。私たちは待降節、アドヴェントの期間に「神を待ち望む」ということを学びます。難しい問題、どちらをとっても100%良いとは思えない問題を目の前にして、選択肢の中でよりよいものを決めていく作業をする私たちの心のうちを神様はじっとご覧になっておられます。神の前で悩みつつ待つなら、神は介入してくださいます。

 

2.神のみこころなら「恐れないで」

 絶妙なタイミングで神様はヨセフに天使を遣わされました。神様はヨセフに深いご計画を持っておられました。「あなたの妻マリヤ」という宣言に、ヨセフの迷いは吹っ飛んだのではないでしょうか。「迎えなさい」とはマリヤとヨセフへの、そして全人類への神様の愛が込められた神様の命令です。旧約聖書の預言の言葉も含め、一つ一つがパズルのようにはまって、ヨセフはこの天使の言葉が神様からのものだと確認したことでしょう。罪からの救い主メシアが与えられる、神は我々と共におられるのだとヨセフ自身が真っ先に恵みを受けました。神の導きがはっきりすれば、もう恐れることはありません。

 

 ヨセフを用いられた同じ神様が、今日もご自身の深いご計画の中で私たちを用いようとなさっています。「神が我々と共におられる」ということが伝わるために、神様の前で悩み、待ちましょう。神様が「恐れるな」の言葉と共に語ってくださることに注意深く耳を傾け、従ってまいりましょう。

 

 

2021年11月28日

キリストについていく

Ⅰペトロの手紙3章13-18節

 今日は、宣教ということについて思いを巡らします。1か月前の「イエスの祈りの実」というメッセージの続きの部分です。

 

1.模範であるキリスト

イエス様は義のためにご自身が苦しむ生涯を送ることが、神の御心によると確信しておられ十字架につかれました。「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。(2:21)」イエス様は、裁判の時も、十字架の上でも、人々を恐れ、心を乱したりなさいませんでした。皆さんは、苦難の最中やその後に「希望について説明を要求された」ことがあるでしょうか。イエス様のように「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明」しましょう。神様のみこころにかなうものになりたいと願う者を神様が充分に助けてくださいます。

 

2.救い主キリスト

18節の別訳では「正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。」とあります。本来なら、神様から離れていた私たちがその罰を受けるべきなのに、キリストが代わりに受けてくださった、だから、私たちは解放され、赦されるのです。キリストの身代わりの死は、過去の罪が赦されるばかりではなく、新しい命に生き、もはや罪の奴隷にならないためだとローマ6章には約束されています。イエス様の身代わりゆえに、私たちは神様のもとに行く事ができるようになりました。イエス様だけが、霊的な世界とこの地上の橋渡しとなってくださった救い主です。私たち人間ができることは地上で精いっぱいこのイエス様をご紹介することです。

 

隣のクリスチャンにぜひ質問してみてください。霊において生きる者として、共にキリストの希望を体験していきましょう。

 

 

2021年11月21日

主の人材

フィレモン書1章8-22節

 今日は成長感謝礼拝です。パウロは、「わたしたちは皆、・・・キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エペソ4:13)と語っています。人はどのように信仰面で成長してゆくということができるのでしょうか?

 

1.イエスキリストの福音を伝える

パウロはフィレモンに個人的な手紙を書きました。フィレモンはコロサイにいた人で、お金持ちの有力者です。彼はパウロが伝える福音を聞いて、クリスチャンとなり、彼の家は教会となりました。その家に召使オネシモという人がいて、彼は主人の金品を盗み出し、逃亡しました。逃亡先のローマで困窮し、不思議な導きで獄中にいたパウロと出会い、クリスチャンになりました。オネシモという名前は、「役立つ」という意味があります。彼は主人フィレモンにとって、「無益な者」「有害な者」でしたが、福音によって、その名の通り主イエスにあって役立つ、有益な者に変えられたのです。福音を伝えることは喜びであり、神の国の成長につながる働きです。

 

2.愛を持ってとりなす

教会で「とりなす」という言葉をよく使います。もちろん神に祈ることは大切ですが、「人と関わりをもってゆく」という具体的な行動が必要です。偉大な使徒であるパウロを見る時、彼もまた成長してゆくべき性質があったことが聖書から分かります。あまりにも熱血漢の宣教師だったので、人を育てることにおいて愛の足りなさがあったようです。窃盗逃亡者オネシモと関わることは、忍耐がいることだったはずです。人と関わりを持ってゆくことで、自分も育ってゆき、キリストの愛の性質を身に着けてゆくことができるのです。キリストの福音を伝え、愛を持ってとりなすことで、主の人材としてキリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長してゆくのです。

 

 

2021年11月14日

希望の御国

ヨハネの黙示録21章1-8節

 黙示録は12弟子のヨハネが(AD95年)受け取った啓示(幻)を書き記したものです。使徒ヨハネはローマ皇帝によって迫害を受け、流刑地パトモス島に送られました。この地上の恵みだけでは慰めにならない事態に置かれている者にとって、永遠の祝福、天国のみが希望です。

 

1.神が共に住むところ

新天新地では「神が人と共に住み、人は神の民とな」ります。クリスマスには、三位一体のイエス様だけがこの地上に来られ、受け入れない人たちもいる状況でした。しかし、新天新地ではそうではありません。神御自身が人と共にいて、人は神の民となるのです。そして涙も死、悲しみ、嘆き、労苦もないのです。罪の影響が全くない新しい天と地では100%祝福のみです。この地上に終わりがある、それは神様がお決めになった恵みです。

 

2.新天新地に行く日まで

神様ご自身が「見よ、わたしは万物を新しくする」と仰っています。Ⅱコリント5:17にあるように霊、魂の部分で、キリストに結ばれた人々はまず新しくされます。その影響を受けて精神も、あるいは肉体も癒されたり、力を受けたりしています。その神様の新しい恵みは、希望の御国、新天新地に続いています。ですから、「全くの新しさ」の前味、一部分を私たちは味わっているとも言えるでしょう。新天新地では、私たち人間の霊、心、肉体はもちろんのこと、万物を新しくすると神様が仰っているのです。温暖化の心配も、飢餓の心配もなくなるのです。私たちの想像をはるかに超える神様のご計画は、終わりの時に必ず成就します。

 

私たちの信仰生活は、100%の救い、神様の祝福に満ちた新天新地、神の御国に続いています。約束を成し遂げられる神様を信頼して、もうしばらくの間、この地上での歩みを続けましょう。信仰告白をなさっておられない方は、今はまだ間に合います。ぜひ、イエス様を信じてください。

 

 

2021年11月7日

神を知りながら

ローマ書1章18-32節

 

「アメージンググレース」という有名な讃美歌があり、“How sweet the sound!”「なんと甘美な調べだろうか!」という歌詞があります。パウロは、福音は神の力であると言った後、罪の現実について、懇々と諭すように語っています。福音の内容の中に、罪の話しが入っていて、どこがHow sweetなのかと感じてしまいます。どんなことを伝えようとしているのでしょうか?

 

1.創造主なる神と離れている

パウロは、罪の自覚がなければ、福音の重さが分からないということを伝えています。聖書が語る罪は、霊的な病気という意味です。私たちが体に不調を感じ、これは治療が必要な状態かもしれないと思っても、できれば病院に行きたくないものです。しかし、痛みをかかえたまま放っておくと、どんどん悪化して深刻になってゆくことがあります。治療が必要な霊的病にかかっているという自覚がなければ、福音の素晴らしさが分かりません。イエス様は魂の医者であり、私たちの霊的病気をお癒しになります。

 

2.神なし人生の結果

パウロは、まるで臨床医学の研究者のように、人間の心の内部を精査して、21の罪のリストを列挙しています。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」(29-31)私たちは人間ドックを受けるように、自分の心にどんな病気があるのか、チェックすることができます。福音の内容は、霊的病気であることの宣告も含めてのメッセージです。厳しいメッセージですが、覚えておきたいのは、霊的病気を完全に治すことができるイエス様という名医がいることです。

 

 

2021年10月31日

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない

 ルカによる福音書15章1~7節

招詞の聖句詩編23:1は、多くの欠けだらけの私であるにも関わらず「わたしには何も欠けることがない」と言い切っています。私たちは欠けるところが多いものなのにどうして「何も欠けることがない」と言い切れたのでしょうか。本日の聖書箇所と併せて、聴いていきたいと思います。

●99匹と同じように1匹を大切にされるイエスさま

本日の聖書箇所に、99匹の羊といなくなった1匹の羊の譬え話が出てきます。同じ譬え話がマタイによる福音書18:10~14にも記されています。羊を見失った羊飼いは99匹を野原に残して探しに出ます。羊飼いにとっては、99匹と同じように1匹が大切だったのです。「一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか(15:4)」。羊飼いは迷い出た羊を探し出すまで忍耐、執念をもって徹底的に探すのです。羊飼いは、羊が戻ってくるのを待っているのではなく、自分から出かけて行って羊を探すのです。99匹の羊がどうなるかわからない、そのようなリスクを払ってでもご自分から出て行って私を探し出してくれるのです。一人や二人が脱落しても仕方ないという世の中の常識を超えて、見失った1匹を見つけ出すまで探し回り、見つけ出したら、心から喜んでくださるのが神さまです。

●私たちはみな迷い出た弱い羊

ところで、どうしてこのような譬え話をされたのでしょうか。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄ってき」(15:1)て、食事を共にしていました。それを見かねたファリサイ派の人々や律法学者たちが近寄ってきて、イエスさまに、「なぜ、そのような人たちと一緒に食事をしているのか」と、不平を言います。徴税人も罪人も、ユダヤの社会から排除された存在でした。律法をしっかりと守り、落ち度ない生活をしているファリサイ派の人々は、彼らと一緒に食事をするイエスさまを、認めることができなかったのです。そこで、ファリサイ派の人々に、イエスさまが「見失った羊」の譬えを語られました。私たち人間は、本当は皆、この徴税人や罪人と等しく、迷い出た羊ではないでしょうか。ファリサイ派の人々も今を生きる私たちも、自分たちの帰るところを見失っている「迷い出た羊」ではないでしょうか。私たちは、神さまが共にいて下さらなくては、何もできない、弱い存在です。しかし神さまが私の羊飼いである以上、満ち足りないなどと言うようなことが起こりうるはずがない。だから「わたしには何も欠けることがない。(詩編23:1)」 と言い切ることが出来たのだと思います。まさにこの信仰の告白を私たちも日々思い起こし、羊飼いである主に感謝し、歩んでまいりたいと思います。

(内田一郎)

 

 

2021年10月24日

恥としない

 ローマ書1章16-17節

私たちクリスチャンにとって最も重要なことは、イエス様の福音を信じることです。パウロは、福音が最も偉大なことであるかをローマの教会に手紙を書き送っています。

 

1.神の力によって救われる

キリストの「死」「葬り」「復活」を福音の三要素と言われてます。もしイエス様が十字架上で、気絶しただけで、後で意識が戻り、蘇生しただけであるなら、あるいは、もし死んで葬られ、復活がなかったとするならどうでしょうか?死んだままのイエス様を救い主として崇めることができるでしょうか?やはり、死んだイエス様が復活し、今も生きており、私を救う力を持っている方だから、信じることができるのではないでしょうか?パウロが、福音は神の力と語っているように、私たち青葉教会は福音の三要素全部受け入れ、イエス様は私たちを救う力ある神であると信じています。

 

2.信仰によって変えられる

福音を信じた者がたどってゆく段階が三つあります。「義認」「聖化」「栄化」です。私たちは自分を見て、到底、義人とは思えませんが、神の目から見て、イエス様の贖いによって私たちは正しい者とされています。また、私たちは神のお取り扱いを受け、聖められ続けています。聖化は私たちが地上の生涯を送っている間、続けられ、私たちは完成に向けてプロセスを送っています。そして三つ目の段階は栄化です。天国に入る段階で、未完成な人はいません。福音を信じるすべての人はイエス様に似た栄光に輝く完成された姿に変えられると約束されています。ヘブル語の文法には、未来完了形があります。未来のことにあることですが、完了したという表現となっています。福音を信じる者の幸いは、未来に栄光の姿に変えられるという約束がすでに成就したものとして語られているのです。

 

 

2021年10月17日

イエスの祈りの実

 Ⅰペトロの手紙3章8-12節

 今年の年間聖句であるイエス様の祈りが聞かれ、実を結んだ様子が、使徒言行録にあります。使徒2:43-47 この場所で「一つにされる」ということを経験したペトロは、「皆心を一つにし、同情し合い、兄弟を愛し、憐み深く、謙虚になりなさい。」と手紙を書きました。

毎週、私たちは心を一つに礼拝を持っています。唯一の神様に向かって礼拝するということにおいて祝福されています。けれども、お互いに知り合うということにおいては、全体が集まる礼拝の時間では難しいです。使徒言行録には「家ごとに集まって」とありました。これが、多くの人が集う教会において「一つとされる鍵」です。いつも顔を合わせる5,6人なら、お互いを深く知り合うことができます。お互いに物心両面で支え合うことができます。 

 教会での少人数の交わりの重要性を、中国の家の教会のクリスチャンたちが言っていたそうです。「大きな団体で動こうとすると何かと規制がかかる。家々で集まるくらいの少人数の強いつながりが一番」なのだそうです。変動ある社会の流れの中でも、家の教会と呼ばれる小グループの信仰の交わりは柔軟に動きやすく、活動が長く続けられるそうです。

今日の聖書箇所にあるような「キリストにあって一つということを体験しましょう」という勧めを何十人、何百人と集まる教会全体で取り組むこととイメージして読むと、「なんだか理想を語っているのかな」と思えてくるのですが、「教会は小グループの集まりであって、小グループの中でまず一つとされること」をイメージしながら読んでみると、より現実的になると思いませんか?

 

 青葉教会には小グループが実は沢山あります。皆が「私はひとりではないのだな。気にかけてくれる方がいて、私も誰かのことを気にかける立場なのだな」と愛の交わりを経験できるようにしていきましょう。神様の目が注がれ、耳が傾けられている交わりを続けましょう。

 

 

2021年10月10日

この方は主

 ローマ書1章1-15節

私たちは、嬉しい事が遭ったら、家族や友人に伝えたくなります。さて、聖書の福音に対してはどうでしょうか?「はたして彼(彼女)は理解して受け入れてくれるのか?」という不安があるかもしれません。私たちの教会が素晴らしいと認めている福音とは何でしょうか?

 

1.預言者を通して約束された御子に関する福音

イエス様に関する福音は、あらかじめ準備されてきた救いの計画です。成り行き上そうなったとか、時代の勢いや流れで、その人(イエス様)を救い主として祭り上げた方が都合いいからという理由で出来上がった話しではありません。宣教師パウロは、もともと熱心なユダヤ教徒で、教会の迫害者でしたが、、幻の中で復活のイエス様と出会い、彼の人生は方向転換しました。彼が熱心に学んでいた律法と預言書の約束はイエス様のことだったと気が付き、腹にすとんと落ちて、熱烈な伝道者に変えられました。十字架に架かり、死にて葬られ、三日目に死人のうちより甦りという福音が、2000年経った今でも、私たち教会にとって一番大切な教えとなっています。

 

2.召された人々と分かち合うべき福音

パウロはローマに教会ができたことを嬉しく思い、使徒たち、世界のクリスチャンたちも大喜びしました。しかし、パウロは同時に心配もありました。というのは、ローマは偶像の神々の町であり、物質主義の町です。様々な誘惑、価値観に惑わされ、イエス様の福音が、違った方向に向かってしまうのでは?という心配があったはずです。また、教会内でユダヤ人と異邦人たちの間に対立が生じるケースもありました。パウロは信仰を体系的に語り、福音によって一つになって欲しいという願いを抱いて手紙を書きました。同じ信仰者同士が、分かち合い、励まし合いたいという気持ちを抱かずにはいられないのがイエス様の福音です。

 

 

2021年10月3日

祈る前にすべきこと

 マタイによる福音書6章25-34節

1.心配するな、信頼せよ

 「命、体、明日のことを思い煩うな」と言われています。私たちの心配事の解決法の一つが「富に仕える」ということですが、お金には限りがあります。限りがあるものにはすべての心配事のカバーはできないのです。そこで、心配ではなく信頼を呼び起こすようにイエス様は教えてくださいました。私たちの全ての心配に対して、神様はたったお一人で十分です。神様への信頼を深めるために、実際に思い煩わずに生きている「空の鳥」「野の花」を見て、学ぶことができるのです。神様の力を信じるのです。神様には私たちを充分に養う力があるということ、私たちを心に留めていてくださる神の愛を信じるのです。たとえお金が足りなくても、疫病ゆえに社会が混乱していても、全ては神様がご支配なさっていることに変わりはないのです。

 

2.神の国と神の義を求める

 さて、祈る前にすべきことの二つ目は、「神の国と神の義を求めること」です。今抱えている心配事が解決する以上に、神様のなさりたいことが家族の中で、将来において、生活の中でなされていくように求めるのです。私たちは自分の心配なら誰に言われなくても解決を追い求めます。しかし、み言葉は富が基準でもなく、あなた自身が基準でもないと明確に教えます。神こそが、命、体、明日のことを導こうと、私たちにお示しになることがあるのだから、それを積極的に求めなさいと命じられたのです。神の国、神の義を求めるのに一番良いのは「聖書にどう書いてあるのか」調べるということです。私たちは神を知らない者ではありません。自らの限界をわきまえ、へりくだって全能の創造主を仰ぎ見る者です。父なる神様は通常の手段で私たちに必要なものを備えてくださることが普通です。けれども、たとえ通常の手段がにっちもさっちもいかない時でさえも、主は別の方法をもって、十分に私たちを養う力がある愛なる神だということです。

 さあ、思い煩いから解放されましょう。自分自身や身の周りではなく、神ご自身に注意を向けましょう。神と思い煩いは共存できないのです。

 

 

2021年9月26日

最終ゴール

 ダニエル12章1-13節

月明りは、月そのものが光っているのではなく、太陽の光を受けて輝いています。クリスチャンはこの暗い世にあって神の光を受けて輝き、周りの人々に神様の素晴らしさを伝えてゆく者となっています。どのような心の姿勢を大切にすればいいのでしょうか?

 

1.神のご計画に信頼する

ダニエル書の預言を通して、我が子を愛おしむ親の愛のような、イスラエルに対する神の深い愛を感じます。いくら失敗しても、我が子を思い、抱き寄せ、傷を癒そうとする神のお姿をイメージすることができます。「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。」(1)この御言葉から、私たちは次のように感じる訳です。「この方を自分の神とすることで、いくら自分が失敗しても見捨てられることなく、この方によって赦され、守られ、祝福される!」イスラエルに対する神の愛を読み取ることで、神の定めたご計画に信頼することができ、その信仰の確信が、周囲の人にも良い影響を与えてゆきます。

 

2.神の定めたゴールを見据える

ダニエルは長い人生を異国で過ごし、何度も危機を乗り越えてきました。数奇な運命であり、波乱万丈の人生を過ごしてきたダニエルは神からたくさんの預言を託された人物でした。しかし、そんな大預言者ダニエルでも世の終わりまでのシナリオについて、ぼんやりしてハッキリ見えない部分がありました。そんな彼にイエス様が語っています。「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」(13)ゴールに到着するまでのプロセスについては分からなくとも、ゴールはハッキリ定められています。地上の生涯を閉じるが、復活の恵みに与るという意味です。私たちクリスチャンが持っている共通した幸いです。天国というゴールがあるから安心することができ、周囲の人に影響を与え、神に引き寄せることができるのです。

 

 

2021年9月19日

主の言葉の前に

 歴代誌下34章29-33節

 

1,共に主の御言葉を聞く

捕囚時代直前に王であったヨシヤは、神殿補修工事の最中に律法の書を見つけます。自分たちが全く律法を守れていなかったことをはっきりと知らされ、神様の憤りを思って、衣を裂きます。御言葉は神様の言葉だと信じることが、信仰の土台です。ジュニア科の子供たちは毎週毎週聖書の言葉、物語をそのまま聞いています。彼らが大きくなって高齢になった時に、今日長寿を迎えておられる皆さんのように、なお聖書の言葉の中に真理を発見し、神様の深い愛に改めて気付いていく、そのような信仰の交わりが続いていることを心から祈ります。

 

2.生きている間の影響力

ヨシヤは人々と共に神様の憐みと警告のメッセージを共有しようとして、呼び掛けます。老いた者から若い者まで、すべての民と共に主の神殿に上り、見つかった律法の書を彼らに読み聞かせたとあります。私たちも「聖書は神様の言葉である」とその権威と栄光を回復すると、「神様に従っていこう!」という信仰の復興が起こるのです。ヨシヤは34章で盛大な過越しの祭りをしています。王が祭司たちを任務に就かせ、彼らを励まして主の神殿の奉仕を行わせました。多くの動員と準備が必要でした。そして、王自らすべての人のための過越しのいけにえを用意したと。どうにかして、皆でこの神様を体験し、喜ぶ時を持とうとしたヨシヤの献身が伝わってきます。ヨシヤが生きている間、良い影響が国にありました。

 

ご高齢の皆さん、どうぞ、何度でも教会の仲間に、神様のみ言葉の素晴らしさを分かち合ってください。皆さんの確信に満ちたその分かち合いに、私たちは信仰を励まされるのです。

そして、私たちは誰でも自分自身の生涯を振り返りましょう。生かされている間に精一杯主を中心に据え、はっきりと主を広めるためにまだできることがあるのではないかと、主に求めていきましょう。主はみ言葉を与え、アイディアを与え、励まし合う信仰の友を与えてくださいます。

 

 

2021年9月12日

北と南の戦い

 ダニエル書11章27-35節

買い物をして失敗したという経験はないでしょうか?購入予定の製品が本当に信頼できるかどうか、見定める必要があります。さて、聖書の神は信頼できるでしょうか?私たちは、どのように見定めることができるでしょうか?

 

1.神は私たちに啓示を与えている

一般的に宗教とは、教えの宗(もと)と書き、地上から天国へ、あるいは人間の側から神の側に近づこうとする教えです。そのような意味でいうなら、聖書は宗教書ではありません。聖書は人間ではなく神の側から与えられている啓示の書です。どうしてそんなことが言えるのでしょうか?人間は明日のことも分かりませんが、預言された言葉が、実際に成就したことから聖書は神の言葉であることが分かります。さて、ダニエルは最晩年、戦いの幻を見ました。天使と悪魔の戦い、北と南の戦い、未来における最終的戦いについてです。北と南の争いの話しはダニエル11章2節から35節までとなっています。あまりにも膨大な情報があるので複雑に感じてしまいますが、逆を言うと、それだけ神は歴史がどう動いてゆくのかを事細かく見ておられ、未来に起こる出来事を詳細かつ正確にダニエルに語っておられるということです。神は預言の正確な成就を通して、ご自身が真実であり、信頼に値する存在であることを示してくださっています。

 

2.神は試練の中で民の信仰を強める

ギリシャ時代、イスラエルの民はどう生きたのでしょうか?南の国が強くなると、北に進撃し、陸の回廊であるイスラエルを通ってゆきます。北が強くなると南に進撃し、エルサレムを蹂躙することになります。民は右往左往し、どちらに味方するか難しい選択をいつも迫られました。しかし、神は彼らに教えていることは、北でも南でもなく、本当の助け、救いを与えてくださる天の神に心を向けなければならないということでした。神はギリシャ時代、ご自身の民がどんなに苦しむのかを知っており、ダニエルを通して預言を伝えておられます。今も神は私たちの心の状態を知っており、私に信頼せよとみ言葉を通して語っておられるのです。

 

 

2021年9月5日

力強い御手の下

 Ⅰペトロの手紙5章6-11節

ペトロの手紙は、各地に離散して仮住まいをしている人々宛てです。日常を失い、新しい環境の中で様々な苦労をしていた人たちにペトロが信仰に立ち続けるようにと励ましています。

 

1.神にお任せする

国から逃げてきたことで、神の選びの中からも追い出されたように感じていたかもしれないユダヤ人クリスチャンに「力強い御手の下」にいるのだと言っています。神の国は時間と場所を超越しているので、どこでも「神の力強い御手の下」なのです。神の力強い御手は、天地を造られ、奴隷だったイスラエルの民をエジプトから脱出させ、キリストを復活させた死をも打ち破る強さをもつ、私たちを救いに導く御手です。その御手の下で私たちは「身を低くする」必要があります。「私のことを心にかけてくださる全能の神にお任せしておこう」と信頼するなら、自分の力の及ばないことにまで心を騒がせる必要がなくなります。

 

2.目を覚ましている

力強い神の御手の下にいることを忘れず、神への信仰を保つために、私たちに攻撃してくる悪魔に抵抗しましょう。彼らの攻撃方法は「ほえたける獅子のよう」とあります。恐れを与えて、神様の御手の下にあることを忘れさせ、神への信頼を揺るがせるのです。神様を信頼する心を失えば、私たちは他の何者かに信頼するか、恐れに満たされるかでしょう。しかし、悪魔の攻撃はしばらくの間であって、神は永遠への栄光へ招いてくださっているという事実を覚えましょう。「あらゆる恵みの源である神」が、日常であれ、非日常であれ、緊急時であれ、平和な時であれ、生きておられ、あなたを守られます。私たちは力強い神の御手の下なのです。

 

ゼロコロナになることはないし、世界中が完全な平和になることなどないように見えます。それでもみ言葉は「苦しみは終わる」と告げています。恐れず、御言葉を信じましょう。そこに思いを寄せて、永遠に治める神の御手の下に居続けましょう。

 

 

2021年8月29日

天上の戦い

 ダニエル書10章11-14節

祈りは神とのコミュニケーションと言われています。つまり、一方通行でなく、両方向からの呼びかけ、応答があり、豊かな交わりを持ってゆくものです。今日のダニエル書から、祈りについてどんなことを学ぶことができるでしょうか?

 

1.私たちの祈りは瞬時に神に届いている

イスラエルの民はエルサレムへの帰還を果たしましたが、神殿を再建できず、礼拝を捧げることができませんでした。ダニエルはその事実を知って、21日間におよぶ嘆きの祈りを神に捧げていました。その時、一人のみ使いが遣わされ、ダニエルに次のように声をかけています。「ダニエルよ、恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た。」(12) 遠く離れていても、誰かとつながっているという感覚は、喜び、安心感、心地よさをもたらします。このダニエル書が伝えていることは、「祈りで神様とつながっています」という真理です。私たちがイエス様のお名前によって捧げる祈りを神は喜んで聞きてくださっているのです。

 

2.私たちの祈りは霊的な目を開かせる

聖書は霊的存在である天使、悪魔、悪霊について語り、見えない世界で霊的バトルが起こっていると教えています。現代人にとって、天使というと、キューピーマヨネーズのキャラクターの赤ちゃんのような姿を想像するのではないでしょうか?ダニエル書は、それとは違うイメージを示しています。天使は、物理法則を超えるような驚くべき怪力の持ち主であり、目に見えない天上では、超ド級のバトルが繰り広げられています。さて、聞くところによりますと、現代世界の戦いは空中戦だと言われています。太平洋戦争における勝利の条件は、制空権を握るかどうかでした。今はステルス戦闘機やドローン兵器、ネット情報が主要な武器であり、空中で激しいバトルとなっています。天上において見えない霊的戦いがあります。主は私たちを神の視点を持つことができる者となるよう導いておられます。教会は主のご計画を知り、祈りを通して主の働きに参与しているのです。

 

 

2021年8月22日

祈りで造り上げる教会

 マタイによる福音書18章15-20節

 コロナ禍の中、教会堂に来る機会が減って1年以上が経過しています。そのような中でも青葉キリスト教会は存続しています。教会は何をもって教会として存在するのでしょうか。

 この1年の間、1人で祈り、神様と対話する機会が増えた方もいらっしゃるかもしれません。もちろんそのような機会は大切ですが、1人の時間だけを持っていると気づかないうちに道を外れてしまうことがあるかもしれません。15~17節では、そのような人に気づいたときにどうするべきかが書かれている、とも読むことができます。世の中では一度の過ちを過度に責め、再起のチャンスが奪われてしまうこともありますが、ここでは、道を外れてしまっていることに気づかせ、正しい道に導く手助けをするステップが述べられています。それができるのが教会という集合体であり、毎週日曜日の礼拝ではないでしょうか。

 19節では「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら」と複数人で祈り求めることの大切さを述べています。そして20節では「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」とあります。「集まる」という意味合いはこの一年で大きく変わったように思います。物理的に同じ場所に集まる、という意味合いはもちろんですが、Webツールを活用して物理的には離れていても同じ場所に集まっている時と同じようなコミュニケーションをとることが普通になってきている方々もいることでしょう。聖書が書かれた時代にはなかったツールも活用し、複数の方が同じ場に集い、心を一つにして祈ると、その中には必ず神様がおられる。この光景が教会の基本形ではないでしょうか。今年度の青葉教会の主題は「祈りの絆を深める」です。まだしばらくの間、直接顔を合わせて祈りあうことは困難かもしれません。しかし、パソコンや携帯の画面越しで祈りあうことは出来ます。その場に神様がおられ祈りを聞いてくださいます。

 

 

2021年8月15日

耳を傾ける方

「耳を傾ける方」  歴代誌下7章11~16節

76回目の終戦記念日です。世界中を巻き込む痛みの歴史として、コロナ禍も第二次世界大戦と同じように記録されるでしょう。人災をも含む災いの中でクリスチャンがどうすることを神が願っておられるのか、ソロモンの祈りから聞いていきましょう。

 

1.災いについて

 ソロモンの祈りと主の答えの中に、災いを主が導かれたととれるような表現があります。これは、自然災害が起こるずっと前から、神様がどれほど恵みを注ぎ、守り続け、御業を行ってくださっていたかということをも示しています。ソロモンと共に謙虚になって「すべてをご支配なさる神」を心に信じましょう。

2.主の名をもって呼ばれている民に注目される主

 災いの最中に「わたしが目を留める場所がある」「わたしの名前で呼ばれるわたしの民がいる」と主はご覧になっています。新約聖書では、ひとりひとりのクリスチャンも神の宮であると言われています。私たちは神が選ばれた神殿であり、イエス様の名前で呼ばれているクリスチャンです。私たちの祈りは私たち自身が思うよりも、神様にとって大きなものです。「わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる」と言われています。

3.私たちはどのように祈るのか

 へりくだって祈り、主の返事を待つようにして御顔を仰ぎ、悪の道を捨てて立ち帰るなら「わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす」と約束されています。私たちは災いを経験して、まず目に見える事柄を祈り始めるのですが、神は目に見えない霊の部分、精神の部分から癒し、そして大地さえも癒すと約束されています。

 

 新約時代の終わりに差し掛かった今、私たちクリスチャンは多くの祈りのチャンスを頂いています。皆さんがそれぞれ得ておられる情報に従って、国々のために祈っていきましょう。

 

 

2021年8月8日

神のロードマップ

 ダニエル書9:20-27

コロナ禍の状況の中、ロードマップ(行程表)が出されています。神はダニエルにお示しになったロードマップは、世の終わりまでの計画でした。どのような目的があるのでしょうか?

 

1.不安を取り除く

ダニエルはエレミヤ書を読んでいました。そこには、七十年の時を経て、イスラエルの民は祖国に帰還することができるという預言でした。通常なら、手放しで喜ぶべきところですが、断食し、民族的悔い改めを神にささげました。おそらく、彼は「イスラエルが再び偶像礼拝を行い、律法を破り、神を悲しませるのではないか?」と不安になっていたのかと思います。その時、天使ガブリエルが飛んできて神のメッセージが届けられました。ここでゴールが明らかにされ、6つの祝福が示されました。・イスラエル民族の神への反逆は終わる・罪のない世界が訪れる・不義は神の贖いによって帳消しになる・永遠の正義が実現する・神の預言が確証され成就する・神殿が聖められ、神の栄光が輝く。神はダニエルに世界歴史の全体像を見せ、素晴らしい祝福があることを教え、不安を取り除きました。

 

2.希望を与える

七十週の「週」という言葉は、シャーブイームという七という意味があります。七十シャーブイームは490年というのが、大方の聖書学者の解釈です。バビロン捕囚の民に帰還せよという宣言から数えて483年後、イエス様が地上に来られました。さて、神の時計の針は六十九週でいったんストップしています。「あなたの民とあなたの聖なる都についての70週の預言」とあるように、イスラエル民族と神殿が結びついて初めて、時計が進んでゆくと解釈できるからです。かつて考えられないことでしたが、近年、イスラエルはアラブ諸国と良好な関係を築いています。イエス様は、いちじくの木を見て、時を悟れと語っておられます。いちじくとはイスラエルを象徴しており、若葉を見て、実が付き始めるのが近いことを知ります。イスラエルの動向を見て、最後の一週に突入することが間近であることを悟ることができます。神の預言を教会で共有することは幸いなことです。神は私たちに希望ある未来を用意してくださっています。

 

 

2021年8月1日

口先ではなく

 イザヤ書43:1-4

聖書の神様は全世界の人々を一人残らず愛しておられます。神様が愛をこめて何をなさったかを確かめて、本日の御言葉が本物だということをお伝えしましょう。皆さんの心に神様の愛が届きますように。

 

1.なぜなら、神様があなたを造られたから

私たちは健康を失ったり、老いを感じる時、いのちは自分の手中にはないと認めざるを得ないでしょう。聖書によるといのちは神様のものです。神様はよくご自身を「創造主」として紹介され、私たち自身よりも私たちのことをご存じで、生み出される前から私たちの存在に責任を持っておられるお方として私たちの前に現れてくださるのです。神様はまず「存在自体が大切だ」と変わらない価値を人の中に見ておられます。神様が「あなたの存在を価高く、尊い」と仰る理由、それは神があなたを創造されたからです。

 

2.なぜなら、イエス様を身代わりにされたから。

もう一つの神の愛の根拠となるのが、「わたしはあなたを贖う」ということです。昔バビロン帝国がイスラエルの民を故郷から連れ去ったように、私たちを神様から引き離すのは罪です。そして最後は神様がおられない滅びへと向かおうとしていると聖書が伝えています。その罪を取り除くために、ひとり子を十字架につけられたのです。代わりに私たちが永遠に「父なる神様」と共にいるためです。聖書にはこのイエス様が罪からの救い主だと記されています。これを受け入れるなら、神様の前で罪が赦されて、私たちは創造主のもとに戻ることができるのです。創造主から差し出される愛を受け取るなら、自分が高価で尊いことが分かります。愛されていると分かります。

 

キリスト教は「信じるだけで救われる」ということで有名です。「信じる」は「受け取る」とも言えるかと思います。信じることで、私たちは神様の救い、愛というプレゼントを自分のものとして受け取ることができるのです。

神様はあなたに毎日愛で満たされていてほしいと願っておられます。あなたの存在そのものを愛してくださる方との歩みを始められることを、心から応援しています。

 

 

2021年7月25日

祈りの友へ

 ローマの信徒への手紙15:30-33

パウロは様々な手紙の中で何度も「私のために祈ってください」と言っています。祈りの絆を深めつつある私たちは彼から学びましょう。

 

1.イエス様の教会に祈ってもらう

「兄弟たち」と呼びかけ、お願いしています。パウロにとってエルサレムに献金を運ぶという奉仕は、神のみこころだと固く確信すると同時に困難が伴う奉仕でした。ですから、祈りにおいて一緒に戦ってほしいと求めたのです。キリストのからだの一器官であるから、本体から切り離されて存在することはできないと自分を見ていたのです。教会の交わりの中で、「他の人の祈りが必要です」と認めることは、全く恥ずかしいことではありません。神様は私たちをそのように造られたからです。私たちクリスチャンが相互に助け合うように、祈り合うように望んでおられるのです。

 

2.奉仕、伝道のために祈ってもらう

パウロが出した祈りの課題は特に奉仕・伝道のためのものです。もしかすると、パウロの働きの重要さにピンとこない読者もいたかもしれません。けれども、聖霊に頼って祈るなら、心を込めて熱心に祈れるようになるのでしょう。特に来週は、伝道的な礼拝を持とうと計画しています。この1週間、ぜひそのために祈りましょう。 

 

3.互いに祈る

「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように」とパウロも祈りました。パウロはローマの異邦人クリスチャンたちの間に真の一致が育てられるためにも、ユダヤ人クリスチャンたちへの奉仕が祝福されるためにも、神様の平和が必要だと信じて、祈ったのです。当時の「ローマの平和」と呼ばれた政治的、軍事的平和ではなく、キリストによって与えられる霊的一致、愛による交わりを与える神があなたがたと共におられると祝福したのです。

 

教会全体が「祈りの絆を深める」今年度の間に、ぜひ個人的にも「祈りの友」と呼べる方を見つけていきましょう。そして、平和の源であられる神を共に体験していきましょう。

 

 

2021年7月18日

夜と朝の幻

 ダニエル書8:15-27

ダニエルという名前は「神はさばく」という意味です。ダニエルは、苛烈な弱肉強食の世界を生き、世の波に翻弄されながらも、神は正しい審判者であり、支配者であるという信仰を持ち続けた人物です。ダニエルは幻を見ました。ここから、どんなことが分かるのでしょうか?

 

1.神のみ言葉は真実

インサイダー取引という犯罪があります。企業の機密情報を新聞社やテレビ局の社員が事前に知っており、株を売り買いして、お金を儲けたとしたら、即、懲戒処分を受け、刑事罰を受けなければなりません。さて、仮に聖書の預言が、事が起こった後から付け足すような誤魔化しをしていたらどうでしょうか?聖書が、知恵深い言葉に満ちていても、どんなに素晴らしい倫理道徳の教えがあっても、信用されないどころか、有害な書物とみなされるでしょう。紀元前300年頃の現存する最古の旧約聖書にダニエル書が含められています。ダニエル書は、エルサレム神殿を破壊するエピファネスについて預言していますが、その人は紀元前150年頃の人物です。ダニエル書は、エピファネスが3年半に渡って神殿を蹂躙することをピタリと預言しています。真実を語っている聖書は、信頼すべき神のみ言葉です。

 

2.神は御心を共有するお方

天使ガブリエルは、ダニエルが見た幻を解説しました。それが、あまりに強烈だったので、ダニエルは疲れ果てて、何日か病気になるほどでした。神の御心が、そのままダニエルの気持ちに投影されたと言えるのではないでしょうか?神は信仰者にご自身の計画を打ち明け、御心を共有なさるお方です。神はソドムとゴモラの町を滅ぼそうとなさった時、「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。」と仰っています。神の大いなるご計画が、私たちの教会にも語られ、一人一人の信仰者と共有されているのは不思議なことです。主は、私たちを友と呼び、信頼し、御心を共有しておられます。私たちは神の遠大な救いのご計画に参与しています。すでに救い主イエス様が来られ、十字架による贖いを完成なさっています。夜のような暗さを感じる時代も希望の朝を感じるような時代も、神は私たちと共に生き、その御心を分かち合おうとなさっているのです。

 

 

2021年7月11日

主の癒し

 列王記下20:1-11

私たちの神様は救い主であると同時に、癒し主です。神に癒しを願ったヒゼキヤ王の物語から、主の癒しについて知っていきましょう。

 

1.神は主権者だから癒すことがお出来になる

ヒゼキヤ王の病気は死の病だったと記されています。この時ヒゼキヤは預言者を通して「主から告げられた」のですから、「どれほどのショックを受けただろう」と信仰者である私たちは想像します。王はただ一人になって神様に向かうために、壁の方を向いて祈るよりほかありませんでした。私たちもヒゼキヤのように祈りたいものです。どこまでも神は神であるという一線を超えることなく、しかし、どんな祈りにも耳を傾けてくださる癒し主に信頼して祈りをささげたいものです。ヒゼキヤ自身を認めて、返事をなさった神様ですが、その願いを聞かれるのは良い行いのゆえではなく、ダビデとの契約、約束ゆえだと仰っています。新約時代を生きる私たちの祈りを聞かれるのも、「イエス様との契約ゆえ」です。

神様はどんな方法をもっても癒すことができるお方です。どんなに偉いお医者さんにも分からないことでさえも、全ての主権者であられる神様はご存じで、さまざまな方法をもって癒されるのです。

 

2.癒された後、神様の計画がある。

癒しのための祈りは「癒されて終わり」ではありません。癒しがゴールではないのです。神様にとって、癒しは通過点であって、その後の計画があります。まず、「三日目には主の神殿にのぼれる」そして、神様はヒゼキヤ王の癒しを通して「この都を守り抜く」というご自身の国に対する計画がありました。ヒゼキヤの命と、国の守りが、両方とも神様のご計画の中にあったのです。この後で、19章のアッシリアのセナケリブとの対決があったのだろうと言われています。この癒しの出来事、主の思いをしっかりと受け止めたこの時があったから、ヒゼキヤはセナケリブの嘲りの言葉にもしっかりと立ち、主に信頼して、国を守ることができたのだと分かります。

これまで主に癒された経験がありますか?元気になった後、神様のお手伝いをしていますか?私たちはこの地上で神様の手伝いをするために、今日生きる力を、命を与えられているのです。

 

 

2021年7月4日

第五の国

 ダニエル書7:1-14

聖書には黙示文学と呼ばれるジャンルがあり、将来起こる出来事について預言しています。解釈が困難で、「いったい今の自分に何の関係があるのだろうか?」と困惑してしまいます。黙示預言にどのような意味があるのでしょうか?

 

1.神が歴史の支配者であることを示している

ダニエル書は不思議な書物です。1から6章まで歴史の出来事が書かれており、突然7から12章まで黙示預言に変わります。この書に貫かれているテーマは「神は生きて働いておられる」です。危機を乗り越えた信仰者の出来事を通して、神こそ主権者であり、支配者であることが示されています。横暴な王が、神の奇蹟を目の当たりにし、イスラエル人の神こそ、まことの神であると宣言する場面が幾度もありました。捕囚の民イスラエル人は、神が生きておられ、すべてを支配しておられることに気が付き、勇気づけられたことでしょう。聖書の預言を読む私たちも、神が世界を治めておられる主であり、私たちに希望の計画を持っておられる方であると知ることができ勇気づけられるのです。今から2500年前に生きたダニエルによって与えられた預言は、歴史の中で実現し、正確であることが分かります。預言を通して、神が歴史の支配者であることを伝えています。

 

2.神は歴史のゴールを定めている

コロナが収束したら、旅行に行きたいと思う人が多いと聞きます。なぜ旅行が楽しいと感じるのでしょうか?それは、家があるからではないでしょうか?戻る場所(家)がなかったら、不安で心細く、悠長に楽しんでいられません。同様に私たちの生涯も、帰る場所である神の国があるから、安心し、楽しむことができるのです。聖書が語っているように、やがてすべての人は神の法廷に立つことになります。獣の角に象徴されている存在は、神の厳密で正確な裁きの許、罰を受けます。私たち信仰者はどうでしょうか?神から責められる審判ではなく、豊かな報酬を受ける審判となります。なぜなら、人の子メシアなるイエス様が私たちの身代わりの罰を十字架で受けてくださったからです。イエス様は、第五の王国の支配者となり、平和の王、祝福を豊かにお与え下さる王として君臨してくださいます。

 

 

2021年6月27日

獅子の洞窟

 ダニエル書6:4-25

聖書を読んで難しいと感じることはありませんか?多種多様な形式で、内容もバラバラのように感じますが、聖書は「神の国」という一貫したテーマがあります。ダニエルは、目まぐるしく権力者が変わってゆく激動の時代を生き抜いた人物ですが、彼は神の国に生きた人物です。どんな価値観を持って生きたのでしょうか?

 

1.神第一

神の国とは、「神が支配する世界」という意味です。聖書は二つのイメージを示しています。一つは天国であり、もう一つは、ダニエル書にあるように、自分が周りをコントロールするのではなく、神の支配を受けた者に与えられる世界です。獅子の洞窟であっても、そこは神の国となり、調和と秩序、平和がありました。ダニエルを憎む敵対者たちは、ダニエルの信仰深さを利用して、罠にはめることに成功しました。ダレイオス王以外の他の神に祈るなら、処罰されることを法令として定め、結果、ダニエルは獅子の洞窟に放り込まれることになりました。聖書は、私たちが、地上の王を愛し、為政者を尊敬し、従い、とりなすことを、良いこととしています。ところが、神か王かと選べと言われるなら、神を選ぶのが、聖書に登場する信仰者の行動でした。神の国を求めるとは、神を第一とし、神の御心に従うことです。

 

2.感謝

神の国を求める人の特徴は感謝することです。新改訳聖書では、「ダニエルはいつものように、・・彼の神の前に祈り、感謝をしていた。」(11)とあります。自分の死(獅子の洞窟)を目前に、平常心で、神に祈り、感謝を捧げることができるでしょうか?ダニエルのように生きるために鍵となるのは、神に信頼し、委ねるということです。「私はお手上げです、あなたは主なる神ですから、すべてお任せします。」という態度こそ、神が私たちにお求めになっておられる信仰です。この時、ダニエルが唯一行動としてしたことは、いつものように祈って感謝したことです。最終的に、ダレイオス王は、「この神は生ける神、世々にいまし/その主権は滅びることなく、その支配は永遠。」(27)と語り、主の栄光が現わされました。聖霊によって一致し祈ることで、私たちの足もとから神の国は築かれてゆきます。

 

 

2021年6月20日

父の声

ルカによる福音書15:11-32

 

「放蕩息子」と呼ばれるこの物語はイエス様が語られたたとえ話です。15章にある3つのたとえ話は、どれもが「罪びとが神様のもとに戻ってくることがどれほど喜ばしいことか」と伝えています。今日は特に二人の息子に語り掛けた父の言葉に注目します。  

 

次男は遺産を使い果たします。タイミングを同じくして、飢饉がやってきて、どん底まで落ちていきます。そして我に返り「父のところには食べ物が沢山あるではないか」と父の家の恵みを思い出すのです。父の声は、「雇人ではない、お前は息子だ」とあふれる思いを伝えます。父はボロボロのこの人にただ「食べるもの、寝る場所」だけを提供しようというのではなく、親子の関係を取り戻したかったのです。

たとえ話の長男もまた父との関係を誤解している人物です。次男が感じていたのと同じように父との関係を束縛にさえ感じていたのかもしれない発言があります。父のもとにいることを楽しむことも、将来与えられる恵みを思いながら過ごすということもなかったようです。

イエス様は「父と一緒にいる恵みを忘れないで」と先に救われた私たちに仰りたいのでしょう。「足りないことがあれば、いつでも神様に言えばいいのだよ」と、子とされていることの安心感、充足感と共に、何より、父なる神様がいつでも心を大きく開いて共にいてくださることを忘れないでと勧めます。

息子たちそれぞれの言い分にも想像が膨らみますが、それ以上に父の思いに焦点を絞ってみましょう。自分のもとから離れていった次男を可哀そうに思い、悲しみながら、帰ってくるのを待っておられ、息子たち二人と全てを分かち合いたいと願っておられたのです。

 

私たちは、神様のみこころがよく分からないと思うことがあります。聖書は難しいと感じることもあるかもしれません。そのような時、もしかすると、自分の声や周りの声が父の声を遮っていないでしょうか。まっさらな心で、まっすぐに語られる父の声を受け止め、信じましょう。そして、父が願われるのですから、当人はもちろんのこと、先に救われ、主のために奉仕を続けている私たちも、救いの喜びの席に共にいましょう。どんな人がこれから先、青葉教会に導かれてきても、父の喜びをお祝いしましょう。

 

 

2021年6月13日

神の指

 ダニエル書5:1-9 17-30

 

一般的な歴史書では、地上権力が衰えてゆくという現実、人の命の儚さやこの世の虚しさを伝えています。聖書は、それだけでなく歴史の背後に神がおられ、御心を行っておられることを伝えています。神はどんなお方なのでしょうか?

 

1.歴史を支配する

ダニエル書のテーマは、ダニエルがベルシャツァル王に語った次の言葉です。「いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままに王を立てられる」(21) 本当の支配者は地上の権勢をふるっている王ではなく、天の神であり、神は思いのまま、王を立て、そして退けることがおできになります。さらに次のような言葉があります。「あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神」(23)神に逆らい尊大にふるまう者にとっては、警告の言葉であり、信仰者にとっては喜びと希望を意味する言葉です。神はイスラエルの民を忘れず、覚えてくださり、解放を与えてくださいました。ペルシャ帝国の時代、捕囚されたイスラエル民族は、祖国に帰還することができました。神が私たちの命と行動の一切を握っておられることは、慰め、励ましです。

 

2.人を計り評価する

神の指で壁に書かれた文字は、「メネ、メネ、テケルそしてパルシン」(25)です。「メネは数えるということで、すなわち、神はあなたの治世を数えて、それを終わらせられたのです。テケルは量を計ることで、すなわち、あなたは秤にかけられ、不足と見られました。パルシンは分けるということで、すなわち、あなたの王国は二分されて、メディアとペルシアに与えられるのです。」(26-28) 神は正義の神なので、人の善行、悪行を計り、審判を下す方です。当然のことながら、スポーツの審判員が、一方をひいきにして、ルールを無視して反則を見逃したり、有利になるよう働いたりするなら、試合は無茶苦茶になり、観客は審判員に激しくブーイングするでしょう。クリスチャンも神に正確にジャッジされるべき存在です。しかし感謝なことに、私たちの罪はイエス様が身代りとなって十字架に架かり、清算してくださいました。復活の主は、「子よ、あなたの罪は赦された」と語って下さり、私たちは天国に迎え入れられるのです。

 

 

2021年6月6日

イエスの祈り

ヨハネによる福音書17:20~26

 

 目には見えませんが、祈りは不思議なものです。祈りは神との交わりであり、祈っている者同士の交わりです。イエス様はご自身のために、目の前にいる弟子たちのために、そしてなんと未来に主の弟子になる私たちのために祈っていてくださいました。

 

1.クリスチャンを一つにしてください

様々な関係性の中でもイエス様と御父との関係は特別です。天地創造の前からもともと一つであられたし、その後もずっと一つ、唯一の神として救いの御業を成し遂げていかれました。同じようにその目的と意図に関して、イエス様を信じるすべての人々、すべての教会が一つになるようにと祈られたのです。新しい方々を神様との個人的関係に導くことにおいて妥協することなくクリスチャンが一つになるようにと祈られました。教会生活をしていて「心が騒ぐな。一つになれていないな」と感じたなら、イエス様のこの祈りを思い出しましょう。そして、イエス様と共に祈りましょう。

 

2.御父の御子への愛がクリスチャンの中にあるように

私たちが一つになると、どんな素晴らしいことが起こってくるのでしょうか。世が「イエス様が神様に遣わされたこと」と「クリスチャンが神に愛されていること」を知ることになります。祈りの中で一つになることが、伝道に直結するのです。「愛の届くだけ遠く祈りも届く、また祈りの届くだけ愛も届く」と言われます。祈ることができるということは、もう確かなつながりが始まっているということなのです。祈りを通してイエス様が私たちにわかって欲しかったのは、「御父がイエス様を愛しておられるように、御父は私たちを愛しておられる」ということです。

 

今年度は「祈りの絆を深める」ということをテーマにしていきます。私たち自身がまず、祈りの中で父に愛されていることをしっかりと受け止め、この絆の中に他の方々がはいってこられることを願って名前をあげ続けましょう。祈りの絆を深めていくためにどうか「祈りの奉仕者」となってください。祈りこそが神様との時間を豊かなものにし、教会全体も祝福されていく鍵ではないでしょうか。

 

 

2021年5月30日

祈るときには

ルカによる福音書11:1~13

 新型コロナウィルスの感染拡大防止が言われるようになり、もう二年以上が過ぎました。未だ先の見えない状況で、私たちもなかなか満足に教会に集えない状態が続いております。

 ついこの間まで私も、自宅で一人祈るだけしかできない..という思いを持ってきましたが、そうではないということに気づきました。祈るだけしかできないのではなく、私たちはどんな時でも祈ることだけはできるんだという思いに満たされました。

 私たちには様々な理由から「祈れないとき」もあります。神様を忘れてしまう時、祈ってもしょうがないと思ってしまう時、どう祈ったらいいのかわからない時、何かに躓いてしまう時があります。

 イエス様の弟子たちはそんな時どうしたでしょうか。祈っているイエス様のもとに行って「私たちにも祈りを教えてください」と頼んだのです。するとイエス様は「祈るときにはこのように言いなさい」と言って「主の祈り」を教えてくださったのです。

 そして、続けてあの有名な「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」という言葉をくださったのです。

 私たちは祈るとき、どういうイメージで祈るでしょうか。天の上に、遠くにおられる神様に向けて、そこに届かせるように祈るというイメージでしょうか。それも祈り方のひとつだと思いますが、もっと会話をするように、いつも私たちの傍らにおられるイエス様に、遠慮なく話しかけるように祈っても良いのではないでしょうか。

 こんなことを祈ったらおかしいのではないか、こんな変な祈りじゃ神様は聞いてくださらないのではないか、そう思って言葉を飲み込んでしまうことがありませんか。神様は、あなたが何を求めているかを、父親のようにすでに知っておられるとイエス様は言います。もちろんイエス様もです。気軽に何でも祈っていきましょう。そして、それでも本当に祈れないということがあれば、私たちには「主の祈り」があります。

 すべてをご存じの神様に、安心して委ねて、日々祈ってまいりましょう。

高橋寛幸

 

 

2021年5月23日

変えられ、用いられ

 使徒言行録11章1-18節

本人の信仰、文化、生き方に加えて、使命においても異なるにも関らず、異邦人伝道の第一歩目という大きな節目で、神様はペトロを用いられました。神様は、「先にもう準備をしておいたから、あなたが行きなさい。もう神がきよめたのだ」と先立つご自身を幻の中で見せておられます。その直後、タイミングよくコルネリウスの使いの者たちがやってきます。幻+現実に起こった出来事=ペトロは神様の導きに気づきます。ペトロは10:35ー43のメッセージを語る役目があったのですが、そのお膳立てをペトロの内側でも外側でも神様がなさってくださいました。異邦人伝道に立ちはだかる高い壁。それを神様は乗り越えていかれました。神様との歩みというのは、実は、神様の働きに間に合うように、私たちが変えられていく歩みです。

確信を持って語るペトロと、「主がお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神のみ前に出ております」という心を開いた人々。そこで聖霊がお降りになったと15節でペトロが報告しています。見えない霊が降ったとペトロが分かるペンテコステの出来事が起こりました。コルネリウスたちに聖霊が先に降ったのは、恵みだなと思います。もし、そのようなことがなければ、ペトロはいつまでたっても水のバプテスマのお勧めをしなかったかもしれません。ペンテコステの時のように聖霊に降ってきて頂くというのは、心に住んで頂くだけにとどまらず、聖霊によるバプテスマ=全身浸すと表現されるほど豊かに働きかけて頂くということです。

 

私も「心を開いて、御前におります。」と自分を差し出し続けたいと思っています。ペンテコステの日から始まった聖霊の豊かな働きかけを両手を広げて受け入れ、神様のために用いて頂きたいと願っています。皆さんもご一緒にいかがでしょうか。「神様、あなたの働きに必要なら、私を変えてください。そして、誰かを救いに導いてください。その為に聖霊によって満たしてください。」と祈り始めましょう。

 

 

2021年5月16日

無に等しい

 ダニエル4章25-34節

聖書には、非常に極端な経験をした人が登場します。ネブカドネツァルもその一人です。彼は多くの諸民族の上に立つ権力者でしたが、晩年、心の病になりました。そして、癒され、神を褒めたたえています。彼の生涯を通して、どんなことが分かるでしょうか?

 

1.目を上げて天を仰ぐ

ネブカドネツァルは、自ら建て上げた都を臨み、「なんとバビロンは偉大ではないか。これこそ、このわたしが都として建て、わたしの権力の偉大さ、わたしの威光の尊さを示すものだ。」(26)と誇りました。ところが、神の裁きは速やかに下り、彼は、王の威厳を失い、まともに服も着ず、野生の獣のように唸り声をあげ、朝露に体を濡らして、人間社会から隔絶された世界で7年も過ごすことになりました。その後、彼は定められていた時を過ごし、神の癒しを経験しました。彼が癒しを経験することになったポイントはどこにあるのでしょうか? 「その時が過ぎて、わたしネブカドネツァルは目を上げて天を仰ぐと、理性が戻って来た。」(31)天のおられる神を見上げ、神に栄光を帰すことで魂の癒しを経験しました。

 

2.すべて地に住む人は無に等しい

ネブカドネツァルは7年の時を経て、無に等しい者であると実感し、神の偉大さを褒めたたえています。無と等しい者とされることを通して、神の御前で大いなる者とされることを体験し、喜ぶことができるのです。聖書には、低くされてこそ、高くされるという原則があります。例えば、私たちが、高くジャンプしようとする場合、一回、膝を折り曲げてしゃがまなくてはならなりません。人生の中で、神から高められる前段階で、苦境に立たされたと感じるような場面があります。一度倒され、無に等しい者となったからこそ、神が偉大であることを知り、祝福を体験し、神を褒めたたえることができるのです。

 

 

2021年5月9日

祈りの助け手

 ローマの信徒への手紙8章26-30節

福音書に登場する弟子たちはイエス様についていくために仕事を辞めた人たちです。主が行かれるところについていき、必要なお手伝いは何でもしました。そんな弟子たちの弱さがあらわれたのは、ゲッセマネの園での祈りです。心は燃えていても、祈りに弱いのです。「どう祈ったら良いのか分からない」とあります。祈りが必要なほど弱いのに、どう祈ったら良いのか分からないとは、大変な弱さです。神様のみこころが分からない弱さと言えるかもしれません。神様の心を理解することにおいて弱さがあると言えばいいのでしょうか。いろいろな苦しみの中で「神は本当に愛なのか、全能なのか」と祈れなくなることもあります。そんな弱さを聖霊は助けると書かれています。傍らで一緒になってうめいてくださると。イエス様は天で神の右の座でとりなしてくださり、聖霊は地上で私たちの内側からとりなしてくださっています。

そして有名な御言葉が続きます。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」苦しみがなくなるという意味ではなく、苦しみ、うめきの中から良いものを引き出されるのです。最高に良いものとは、主イエス様のようになることです。神を愛する者は御計画に従って召された者であり、その者が御子の姿に似るのが御計画です。神様の御計画は私たちの肉の望み、企てとはとても違います。31節以降にあるように、神様をより愛すること、神に愛されていることを確信することが、聖霊のとりなしの最終目的です。神様と私たちの関係が深まるために、神様は万事を益とされて働くようにしてくださるのです。

 私たちは「御子の姿に似たものにされる」という御計画の中にいます。神様が将来約束されている希望は必ず実現します。この希望に目を向け、絶大なとりなし手に支えられながら、信仰生活を続けていきましょう。

 

 

2021年5月2日

そうでなくとも

 ダニエル書3章8-30節

今朝の聖書の話しは非常に有名です。神を信じるシャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王が命じる偶像礼拝を拒んだことで、王の怒りを買い、燃える炉の中に放り込まれました。ところが、神は天使を遣わし、彼らを守られたという話です。彼らの信仰的行動を通して、神の素晴らしさ、偉大さを学ぶことができます。

 

1.神の教えを基準とする

日本で生きるクリスチャンは三人が置かれた立場がいかに難しかったのかを理解することができます。私たちは、多神教の世界の中、葛藤しながら聖書的価値観に生きようとしています。十戒の第一の戒め、「私のほかに他の神々があってはならない」とあります。人間側の都合で神様とお付き合いするのではなく、天の神様の御心に思いを向け、その教えを基準としてゆくべきことを命じています。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは、神の教えを基準としたので、他の神を礼拝することを拒否しました。それが、簡単なことでないことは、私たち日本に住むクリスチャンは肌で感じています。しかし、彼らは妥協せず神の教えに従うことの大切さを示しています。

 

2.神を王とする御国で生きる

私たちはこの三人が王に対して語った「そうでなくとも」の言葉に注目したいのです。神は良い方であり、信じる私たちに最善をなさってくださるという絶対的な信頼がこの言葉に表れています。神は私たちが知りえない答えを持っておられますが、私たちが望むような状況やタイミングで、答えてくれるとは限りません。信仰生活で重要なのは、願いが効かれるかどうかではなく、神を王とする御国で生きるという姿勢です。主イエスの言葉です。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17: 21) 神は私たちを祈りの仲間とし、神の国の民としておられます。

 

 

2021年4月25日

不安の中

 ダニエル書2章17-30節

聖書物語には、ピンチに陥った人物がたびたび登場します。特にダニエル書は「窮地に生きる信仰」がテーマとなっています。私たちの祈りの対象者である神とはどんな方なのでしょうか?

 

1.神は最善を行う方

今から2600年前、バビロン帝国の王、ネブカドネツァルが夢を見たことから、大騒動が起こりました。夢について語らないまま、占い師、知者、賢者たちを呼び寄せ、その夢を解釈せよと命じました。困惑している賢者たちに対して王は怒りを発し、ユダヤから来たダニエルたち若者たちも処刑の対象となったのです。ダニエルは窮地の中で神に祈りました。一般的に、神への信仰がない場合、祈ることは無駄な行為、時間に過ぎません。しかしクリスチャンである私たちも、つい現実問題ばかり目に留まり、祈りをないがしろにしてしまうことがあるのではないでしょうか?ダニエル書は、神はすべて知っておられ、問題に答えをお持ちになっていると伝えます。神はすべてをご存じであり、問題に対処してくれるだけでなく、最善をなしご自身の栄光を表してくださいます。

 

2.神は歴史を支配する方

ネブカドネツァル王は、夢で一つの像を見ました。「頭が純金、胸と腕が銀、腹と腿が青銅、すねが鉄、足は一部が鉄、一部が陶土。」(32-33) この像は、人類の支配国家の歴史を表わしています。預言の正確さは、聖書が誤りなき神の言葉と信じることができる証拠となっています。バビロニア帝国の後、メドペルシャ帝国、ギリシャ帝国、その後、ローマ帝国となり、イギリスアメリカを中心とした西洋が覇権を握り現代に至ります。後にイエス様という石が像を打ち砕き、人類の歴史を清算し、神が治める新しい世界を築いてくださいます。不安の中にあっても、神に信頼し、希望と平安、喜びを抱くことができるのです。

 

 

2021年4月18日

もうひとりの助け主

 ヨハネによる福音書14章15-31節

イースターが終わって、50日するとペンテコステがやってきます。クリスマスにはアドヴェントが、イースターにはレントがありますので、ペンテコステを待つまでの期間もその日のことを覚えて聖書を開いてみるのもお勧めです。

 

1.父が子を遣わして、父と子が聖霊を遣わされる

ペンテコステ、聖霊降臨は突如、急に起こったことではなく、旧約時代からの預言の成就であり、イエス様も何度か弟子たちに告げておられたことでした。私たちはイエス様が神様に遣わされた御子だということを信じていますが、同じように、聖霊は父なる神様と御子が、私たちに遣わされたお方だということです。聖霊が遣わされた最も大きな目的は「永遠にあなたがたと一緒にいるように」ということです。聖い聖霊を宿す者となったクリスチャンだから、聖なる神様が関わることができるという訳です。誰でもキリストを主と告白する者のうちには、聖霊が住んでおられます。

 

2.聖霊は助け主、真理の御霊

「もうひとりの助け主」、これは16節で新共同訳では「別の弁護者」と訳されています。原語はカウンセラー、とりなし手、助けるためにそばに呼ばれた者、助言者、励まし慰める者、忠告者、代弁者、味方、友など様々に訳せる言葉だそうです。同じ種類のもう一つという意味なので、聖霊は主イエスのように神であり、イエス様がなさっていたことを継続され、神の真理に人々を導き入れられます。

 

イエス様が永遠に共におられるということを今こそ知りたい方、神様に心を満たされて歩んでいきたい方は、今日聖霊に心を開いて、「どうかそのことを教えてください」と求めて祈りましょう。世が与えるものとは違う神の平安が与えられることを信じています。

 

 

2021年4月11日

神から恵まれ

「神から恵まれ」  ダニエル書1章1~21節

私たちは日常生活の中で、いろんなことを見て、緊張、不安を感じることがあります。不思議なことに、信仰者は目に見える事柄、現象に対し恐れを抱くことなく、見えずとも現実にある主なる神の力や助けを体験し勝利しています。主とはどんなお方なのでしょうか?

 

1.主は支配者

今から約2600年前、「バビロンの王ネブカドネツァルが攻めて来て、エルサレムを包囲し(まし)た。」(1) 「包囲」という言葉に、恐怖、緊張、不安を感じ、絶望感を抱いていた住民たちがいたことが表されています。さて、私たちはどうでしょうか?コロナ感染の話、景気悪化、国際政治情勢の暗いニュースばかり聞いているなら、当然、心は暗くなるばかりです。神に礼拝を捧げるという時間が人生にあることは幸いです。礼拝は、分厚い雲が吹き払われるような喜びの時間です。聖書は霊的な視点で、「主が、ネブカドネツァルの手中に落とされた。」(2)と本当の支配者は主であると記しています。目には見えませんが、神の国が築かれており、その中で私たちは生きることができるのです。

 

2.主は養護者

ダニエルたち四人の少年は、異国の支配者の宮中で王に仕えることになりました。ユダヤ国家は滅びても、良い身分に転身し、毎日ご馳走を食べ、高級ワインを飲めて、結果的に良かったと思ってしまいます。しかし、これは神の国にとって重大な危機となりました。ユダヤ人たちが異国に住み、異国人と同化してアイデンティティを喪失してしまうなら、救い主がお生まれになる土台を失うことになります。この時、人類救済計画が実行されるか否か、四人の少年の肩にかかっていたのです。彼らは「神から恵まれ」(17)、非聖書的な世界で神の祝福を受けて生きることになりました。私たちもまた、世にあるすべてのものではなく、主によって恵まれた人生を送ることができるのです。

2021年4月4日
約束通りに

「約束通りに」 ルカによる福音書24章1-12節

ルカの福音書24章には「空の墓物語」があります。イエス様は体ごと復活なさったということを伝えています。復活のことに始まって、聖書の全ての事をどのように信じていけばいいのでしょうか。

 

1.聖書の神は約束を守る方

 そもそも聖書をくださった神様はどういうお方でしょうか。聖書の神様はいつも約束をする方であり、約束を守る方です。希望の約束を与え、それを成就する方です。この神様を身をもって体験されたイエス様は、父の約束の言葉を非常に大切にしておられました。イエス様は自分勝手に語る言葉ではなく、父の言葉を弟子たちにも与えていかれます。

 

2.約束の言葉によって復活の主と出会う

 女性の弟子たちはイエス様が当然死んだままだと思ってお墓に来ました。私たちもまた、よみがえることはないという世界観の中で、イエス様を探すかもしれません。そんな私たちに「死者の中を探しても、イエス様には出会えない」「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」と語られます。天使に促されて、女性たちが御言葉を心で思い出した時に、突然すべてが一つに結びついたのです。イエス様が死ぬなんてありえないと思っていた彼女たちは「イエス様の死は神様の計画だったのだ。だから、復活も本当だ」と分かったのです。御言葉には悟らせる力があります。 

 いつでも「イエス様はなんと仰っていたか」と思い出す癖をつけてください。気になることは沢山あると思いますが、誰よりも神様を尊重しましょう。比類なきお方に心を開き、求めて生きましょう。

2021年3月28日
​なぜわたしを

 マルコによる福音書15章33-41節

イエスキリストの十字架は聖書の中心的な場面ですが、論理的に理解しようしても、訳が分からないと感じるでしょう。今日の聖書箇所から多くの人が抱く二つの疑問についてご一緒に考えてゆきましょう。

 

1.「なぜわたしをお見捨てになったのですか」

どうして神の子であるイエス様が、そんな思いを吐露したのでしょうか?神の子なら、黙っているか、もっと肯定的な言葉を語るべきでは?と多くの人は思うかもしれません。これは罪の呪いを受け、神に捨てられ、全ての人の罪を背負い、神の罰を一身に受けられた方の言葉です。私たちが、心責められ、まるで真っ暗闇な出口の見えないトンネル中で叫ばなければならないとしたら、「神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というセリフではないでしょうか?感謝すべきことに、イエス様が私たちの代わりに叫んで下さったので、私たちはこのセリフを言う必要がなくなりました。イエス様の絶叫の裏に、私たちに対する深い恵みが隠されているのです。

 

2.「本当に、この人は神の子だった」

百人隊長は、十字架上の死刑囚である見るも無残な姿のイエス様を見て、なぜこの言葉を告白したのでしょうか?通常私たちは表面上のことしか見えず、見えるものしか信じられないところがあります。この百人隊長の言葉から、見えてはいるが、その背後に偉大なこと、尊ぶべきことが存在することを感じます。私たちは地上からあらゆるものを見て判断します。しかし一方、地上の生涯の向こう側に永遠の世界があり、永遠の世界から地上の出来事を見るなら、当然、見方が変わっているはずです。十字架上のイエス様の絶叫は、敗北の叫びではなく、勝利の叫び、天国の扉を開くための叫びとなっているのです。私たちは「なぜわたしをお救いくださったのですか!」と感謝することができるのです。

2021年3月21日
イエスの証言

 マルコによる福音書14章53~65節

今日の箇所は、正式な裁判の前に、祭司長たちがイエス様を死刑にする証言を見つけるために、前夜に集まっている場面です。イエス様は「お前は神の子、メシアなのか」という問いかけに対してだけ、はっきりと「そうです」とお答えになりました。イエス様が「救い主」なのは、十字架があるからです。十字架のないイースターがないように、イエス様は贖いのない救い主ではあり得ないのです。十字架に向かう受難の中こそが「わたしは救い主です」とイエス様ご自身が明らかにされるベストなタイミングだったのです。

当時の最高議会は「わたしはメシアだ」というイエス様本人の証言を、偽証であり、神を冒涜する言葉と判断しました。ところが、この証言が本当に正しく真実であることを、2000年間の教会の歴史が表しています。こんなに変わることのない真実があるでしょうか。このように永遠に堅く立つ証言があるでしょうか。

私たちが心から求めている時も、あるいは反抗してしまう時、例えイエス様にひどい暴言をはいてしまう時でさえも、「わたしが救い主です」と仰るお方です。この主の証言がどれほど揺らぐことがないか分かって頂けるでしょうか。「イエス様こそが救い主だ」という真理の強さを感じとれるでしょうか?

 

「自分の思いか、それとも人の意見か?」と揺れることは誰にでもあるものです。その時、クリスチャンとして、自分でも人でもなく「神のことばを重視」しましょう。悪い意味で人の意見に縛られず、それでいて究極の自己中心に陥らずに生きることができるのは、絶対他者である、神様のことばを軸に据えるということではないでしょうか。

聖書からイエス様を理解しましょう。そこに書かれているイエス様の証言は確かです。何にも振り回されることのない真理です。昨日も今日もいつまでも変わることがありません。主と共に生きるために、みことばを思い出し、自分をお委ねし、神様を尊重しましょう。

2021年3月14日
疲れない

 イザヤ40章27~31節

東日本大震災から10年を迎えました。心に深い傷を負っている人に、どんな言葉をかけてよいか分かりません。しかしながら、私たち教会は、どんな時も聖書が伝えている希望を伝え、またお互いにその大切さを確認したいのです。

 

1.私たちを支えてくださる

福島第一聖書バプテスト教会の佐藤彰先生のお証によると、地震後、教会員が避難している場所に向かってゆく時、「きっとみんな『どうして神を信じているのにこんなことが起こったのですか?』というに違いない。その時、どんな返事をし、どんな言葉をかけたら良いだろうか?」と悩んでいたそうです。ところが、再会した教会のメンバーたちは口から出たのは、「あんなひどい津波が起こったけど、神様は助けてくれました」という言葉だったそうです。預言者は語っています。「主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。」(28)神はいつも私たちを励まし、どんな状況の中にあっても私たちを支えてくださいます。

 

2.未来を創造してくださる

今日の聖書箇所に、「疲れ」という言葉が4回出てきます。肉体の疲れだけでなく、精神的、霊的な疲れがあります。どんな人でも、緊張と不安が極限の状態になった時、疲れを感じ、生気を失ってしまいます。しかし、私たちが信じる神は「疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。」(29)衰えた鷲は、標高の高い岩場で孤独に過ごします。どんどん痩せ細り、目を閉じじっとしているそうです。ところが、しばらく経つと、新しい爪、羽、クチバシが生え再生するそうです。預言者イザヤは神の御前にいる信仰者と新しい翼を広げて飛んで行く鷲の姿に重ねています。信仰者は神によって回復が与えられ、未来に向かってゆく力が与えられるのです。

2021年3月7日
​御前で喜べ

 詩編100篇1~5節

 聖書でいったい誰が「建物」や「場所」が礼拝のために必要だと言いだしたのかというと、それは、神様です。出エジプトしてきた民に対して、神様は事細かに移動式の礼拝堂の作り方について説明されます。見えないお方を礼拝するのに、見える場所を群れの真ん中に指定されました。

 

1.主を知るために集う場所

捕囚時代、神殿が破壊されて、共に集うことができないことを民は70年間経験しています。しかし、不思議なことに、その中で「主だけが神だ」という信仰が養われてもいきました。この捕囚時代を経て、第二神殿時代以降に詩編100篇は作られたと言われています。主の御前に共に集えることの喜びがあふれ出ているのです。共に集う場所は、私たちの全存在をもって神様を知り、心、魂、力を尽くして主を愛するところとして、与えられているのです。

 

2.感謝と賛美をささげるために集う場所

礼拝堂に集うにあたって、感謝の歌、賛美の歌を歌うようにと4節で呼びかけています。神様が私たちを受け入れてくださるかどうか心配する必要はありません。イエス様の十字架があるので、罪のためのいけにえは完ぺきだからです。この地上で門が開いているうちは、誰もが御前に来ることができるのです。「主は恵み深く、慈しみはとこしえに 主の真実は代々に及ぶ」と。今という一瞬に振り回される小さな私たちなのに、こんなに大きな神様が受け止めてくださるのです。

 

 礼拝のいつもの歌声、聖歌隊の声、讃美フェスタは今や旧約聖書のの祭りのようです。会堂が閉鎖中でも、私たちの教会生活、信仰生活は続きます。そして、会堂が開かれたなら、私たちは再び主を知るために集いましょう。感謝と賛美を携えて、玄関を入ってきましょう。

2021年2月28日
​栄光のため

 ヨハネ福音書17章1~8節

キリスト教において、人は地上での使命を果たし終えた時、天国に迎え入れられるという死生観があります。主は十字架の死に臨む際、どんな祈りを父なる神に捧げたのでしょうか?

 

1.使命を果たすため

イエス様は「父よ、時が来ました」(2)と祈っています。レビ記によると、罪過のために必要なものは、傷のない小羊が犠牲となることです。イエス様は罪のない、すなわち傷のない小羊として、人類の罪の贖いとして十字架で死んでくださいました。私たちの心の中に、妬み、怒り、不満や否定的な気持ちなど暗い部分があることを感じることはないでしょうか?本来、そういう私たちに待っているのは死ですが、グッドニュースがあります。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(3)十字架こそ栄光であり勝利です。

 

2.とりなし

17章のイエス様の祈りは「大祭司の祈り」と言われています。大祭司とは、神と人との間に立ち、とりなす仲保者の役割を果たします。イエス様への信仰を持つ私たちは「圧倒的な勝利者」(ローマ8:37)とされています。しかしながら、クリスチャンの人生の中で、自分への失望を感じることもあり、到底、勝利者と思えないような現実があります。聖書には、私たちへの叱咤激励もありますが、今日の聖書から分かることは、イエス様が私たちのために、今も神にとりなして下さっていることです。この祈りの後、ユダヤ当局者が来て、イエス様を逮捕した時、弟子たちは恐れのあまり逃げ出してしまいました。主はそのこともご存知の上で、弟子たちの信仰が守られ、神からの使命を立派に果たすことができるようお祈りくださったわけです。イエス様は今も私たちのためにとりなし祈っておられます。

2021年2月21日
​主にささげる喜び

「主にささげる喜び」  歴代誌上29章10~19節

ダビデ王が神殿建築のささげものをした民の代表として献金の祈りをしている場面です。ダビデの祈りから、「全き心をもってささげる喜び」を知り、まねていきましょう。

 

1.ささげる相手がどんなお方であるか

ささげものを受け取った相手はとこしえの神であること、一切のものをお持ちであること、支配しておられることを祈っています。奪い取って手に入れるという不当なものは別として、正しい方法で手に入れたものはすべて神様からのものという理解です。それは富といった物質的なものだけではなく、力や栄光、国も、勢いも、あらゆる立場ももともとは神様のものですという告白です。

 

2.神様のお働きに携わることのできる喜び

自分たちは限りある地上にいる者だと意識すると、神様は比べることのできないお方だとはっきりします。そして、私たちのようなものが、世界をお造りになり、ご支配されている神様のお手伝いができるという喜びが湧いてきます。ダビデが大胆にお勧めできたのは「神殿建設」という大事業は神様の働きだからです。今、教会の中に「ささげることは喜びです」という雰囲気があることに感謝します。

 

「私たちの主よ、あなたの御名が崇められますように。私たちは今年を振り返った時、あなたにこれまでとは違った形で礼拝をささげ、奉仕をささげ、献金をささげてきました。しかし、すべてはあなたから頂いたもの、私たちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。主よ、どうか私たちの心をこれからも確かにあなたに向かうものとしてください。そして、皆でささげたこの献金、奉仕、賜物、すべてが、あなたの救いのご計画の中で、大胆に用いられていきますようにお祈りします。         イエス様の御名によって アーメン」

2021年2月14日
​バベルの塔

 創世記11章1~9節

せっかく努力して頑張ったが、結局、失敗に終わってしまったという経験があるでしょうか?神は世界を一新しましたが、ノアの子孫たちは、かつての人間のように神に反逆するようになってしまいました。しかし、神は忍耐強く、人が救いの道を歩むよう導いておられます。

 

1.人の高慢さを砕く

ノアの子孫たちは、山地から平地に降り、ユーフラテス川沿いにバビロンという町を建て始めました。彼らは、泥を整形して、釜で焼き、粘着性のあるアスファルトを使い、どこまでも高い巨大な建造物を建てるようになりました。科学進歩により、人間があたかも万能であるかのように錯覚してしまうことがあります。町の支配者ニムロデは、神なし世界を築き、神に対抗するような力を持とうとしました。私たちの中にも小さなニムロデがいて、神を排除し、周りをコントロールし、高慢という塔を建てようとすることはないでしょうか?神は人類救済計画が頓挫しないために言葉を混乱させました。この時、神が介入してくださらなかったら、人類は自ら滅びてしまったことでしょう。

 

2.救いを準備する

言語学的に、進化論ではどうしても辻褄が合わないことがあります。時代をさかのぼるほどに、文法は複雑になり、語彙量も膨大になります。英語が堪能であっても、四百年前のキングスジェームス訳聖書を読むことはできないでしょう。時代とともに、文法はより単純に、語彙量はより少なくなっており、むしろ退化しているのです。バベルの塔事件から、人々が分かれて住むようになり、「それぞれの地に、その言語、氏族、民族に従って住むようになった」(10:5)のでした。神はその先にある計画として、アブラハムを選び、民族を興し、時が満ちて、イエス様の十字架により罪の贖いを完成してくださったのです。

2021年2月7日
​神のもの

サムエル記下7章18~29節

スチュワードシップとは「すべては主のもので、私たちはただ主から頂いたものをささげて、主のご栄光をあらわす」ということです。

 

1.神から賜ったすべてのもの

ここはダビデ契約と言われ、「永遠の神の国の契約」と言われています。アブラハムから約千年後、主はダビデによってエルサレムを都とする王国を建て、ダビデの家系から神の国の王キリストが出ることを予告されました。ダビデ自身は感嘆の祈りで応答しています。私たちもスチュワードシップ月間に「どのようなところから神様が選んでくださったのか」ということに思いを巡らせてみましょう。神様は選ばれた者に永遠に関わられます。しかも深く関わられます。ダビデは「遠い将来にかかわる御言葉まで賜りました」と喜んでいますが、ダビデ契約の延長線上、新しい契約の真っただ中にいる私たちこそまさにそうです。「イエス様を信じるなら天国に入れて頂ける」という遠い将来の約束を、クリスチャンは皆頂いているわけです。

 

2.主が神として崇められますように

聖書の神様は契約の神様です。一方的な恵みの約束もあれば、「従うなら祝福する」という約束もあります。けれども、どの契約にも共通しているのは、神が神であられるということです。私たちは恵みの応答として、さまざまなものを捧げます。けれども、神様の恵みへのお返しとして十分なものなど実は私たちにはありません。私たちが神様から頂いているものは、私たちのささげものよりもはるかにはるかに大きく深く長く豊かです。神様に栄光をお帰ししましょう。

 

スチュワードシップ月間で、私たちが神様に選ばれたこと、救われたことを振り返って恵みを受け取りましょう。神様の御前に讃美と感謝の感嘆の祈りが満ち溢れる教会となっていきましょう。

2021年1月31日
大丈夫

箴言29章25節

 クリスチャンになると何か変わることがあるでしょうか?生きている中で、心配事が尽きず、いろんな失敗もあり、怪我や病気もあり、失望することもあります。しかし、聖書が示しているように、神様を信じて、信頼することで安心感が得られ、どんな状況にいても「大丈夫だ」という気持ちになることができます。

 

 聖書には、「人は恐怖の罠にかかる」とあります。ある人を見るだけで、その声を聞くだけで、固まってしまい、金縛りのような状態になるという苦手な人がいるかもしれません。過去にあった出来事を思い出すたびに、心が苦しくなることもあります。あるいは、苦手意識がある場合、どうせダメだとあきらめの気持ちになることはないでしょうか?聖書はそれを「恐怖の罠」と語っています。そんな私たちに、聖書は、「主を信頼する者は高い所に置かれる。」と語ります。高い所とは、堅固な櫓であり、私たちは、敵に囲まれながらも、お城の中にいるような安心感を持つことができるのです。神は私たちが恐怖の罠にかかりやすいことを知った上で、私たちを導き守って下さるお方です。神によって大丈夫という気持ちになることができます。 

 

 百円ショップなどで、様々な便利な道具が売っています。しかし、説明書がなく、現物そのものが置かれているなら、どう扱ったらいいか分からない場合があります。「私は何のために生きているのだろう?」「俺の人生に意味や目的があるの?」という疑問を感じる時、誰かに、「あなたは他の誰でもなく、あなたなのよ。他の人の目を気にしないで、あなたらしく自由に生きたら良いんだよ。」と言われたらどうでしょうか?「あなたらしく」と言われても、それがよく分からないのが私たちです。私たちが「大丈夫だ」と安心して生きるために、創造主なる神、私たちを用いてくださる方のもとに行き、尋ねるなら、自分を知り、安心することができるのです。

2021年1月24日
​信頼

1サムエル記23章1~14節

置かれた状況の善し悪しにかかわらず、困難が迫り来る時も、祝福にあふれていた日々も、ダビデは祈る人でした。

 

1.確信を得るまで確認する

 決して余裕のある生活をしていた訳ではないダビデに「助けて欲しい」という知らせが入ります。麦打ち場が略奪されたという人々の叫びでした。ダビデが主に「私が行くべきでしょうか」と聞くと「行け。ペリシテ人を打ち、ケイラを救え」と答えが返ってきます。主はご自身に信頼する者との会話をスムーズにやりとりされるのです。神のみこころを行いたいという願いと意志は、神に近づくうえで本質的なことです。しかし次に周りの兵士たちが反対します。ダビデは神様と兵士たちの間で板挟みです。ダビデが神様に従うためには、兵士たちの協力は欠かせません。ダビデは再び主に尋ねます。主は信頼する者とのやりとりの中では、何度でも答えてくださるのです。

 

2.どこまでも神に頼る 

「さあ、神様の導きを求めましょう!」と言うと、私たちはゴールまで一直線の良い方法が示して頂けることだと思いがちです。あるいは、すべてが穏やかにすむ方向こそが神のみこころだと思い込んでいます。しかし、神様の方法と私たちの思いは違い、私たちの経験と、神様の導きは合わないことも多いのです。ダビデは神様に従うことを選びとり、神に従うために、神に尋ねました。一見右往左往しているように見えるダビデですが、主は守っておられました。

 

神様が、私たちのすべての問題、課題の答えをお持ちだということを覚えましょう。何度でも主に尋ねてみましょう。主はゴールではなく、一歩先だけを示されるかもしれません。それでも、ダビデのように主を信頼して、祈りつつ、歩みを続けましょう。

2021年1月17日
​地は混沌

 創世記9章18~28節

聖書は不思議な書物です。誤りのない神の言葉である聖典ですが、多くの失敗談が載っています。今日の聖書箇所では、ノアの失敗が書かれています。神は何を伝えようとなさっているのでしょうか?

 

1.救いは神の主権による

人の立派な人格や業績によって救いは成就しないことを伝えています。ブドウ園の農夫をしていたノアが発酵したワインを飲み、酔い潰れて裸になって寝ていました。それを見たハムが父を物笑いのタネにして、他の兄弟を呼び、父をバカにするような行動をしました。後でその事実を知ったノアは怒って呪ったという話しです。これは禁酒すべし、両親を敬うべきという道徳の話ではありません。ノアほど、純粋な心で神の御心に従った素晴らしい信仰者はいませんでした。そんな彼でさえ、お酒の事で失敗し、物笑いされたことに激怒し、人を呪ったのでした。ノアもまた、世界を罪から救うメシアでないことが示されています。

 

2.人の罪を覆う神の愛

ノアの息子たちセム、ハム、ヤフェトは、世界の諸民族の祖になった人たちです。創世記10章21節にエベルという名前が書かれています。エベルはヘブル民族の最初の人であり、その子孫から、アブラハムが産まれ、メシア・イエスにつながってゆくのです。偉大な信仰者ノアも失敗することもあり、原罪を受け継いだ者でした。刑事罰で言うなら、罪を犯したら犯罪人と見なされます。一方、霊的な面で言うなら、私たちは罪人だから、罪を犯してしまいます。心の中で、悪い思いに耽ったり、権威に逆らう気持ちになったり、怒りに任せて暴言を吐いたりするわけです。「セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。」(23)とあります。主は私たちの罪を覆い、神の義の衣を着せてくださるのです。

2021年1月10日
無力さに始りがある

「無力さに始まりがある」ルカによる福音書18章10-14節

新しい年を迎えましたが、いつもよりも一年の計画が立てにくい状況です。こんな時には「祈り」を深めてみましょう。イエス様は祈りの恵みをどのように伝えてくださったのでしょうか。

 

1.神の御前にいる自分を知る

神の御前に出る時、私たちは心を気にしているでしょうか。神様が気になさるのは外側ではなく内側です。徴税人は神の御前に自分は罪人であるということを認識しています。ファリサイ人は罪を犯さないようにし、律法で定められた以上のものをささげていると言っています。私たちは以前はファリサイ人のように世界をコントロールして生きていけると思っていましたが、今はコロナ禍で「あなたの助けなくてもやっていけることを感謝します」とは言えない状態にあります。私たちは常に不安定で、不確かなものの上にいるのです。どうしたらいいのでしょうか。

 

2.神を必要とし、見上げる

実は、神様の目に、私たちはもともとそのような存在です。私たちがそのことに気付かずに生きてきただけです。神様は私たちに自分の罪、的外れな部分、不安定な将来を見つめる時を与えられます。そして、「私は全く無力です。あなたの側で償ってください」と全責任を神様にとって頂く、投げ出す、降参する、そういう祈りを聞いてくださるのです。なぜでしょうか。このたとえ話をしてくださったイエス様ご本人が十字架の上で責任を取ってくださったからです。神様は、旧約時代からずっとこのような祈りを待っておられるお方です。(イザヤ書55章6-9節)

 

クリスチャンであっても、まだそうでなくても、素直に神を必要とする祈りをささげていきましょう。

2021年1月3日
契約の恵み

 創世記9章1-17節

聖書の神とはどんな方でしょうか?一言で言うなら、契約を通して私たちと絆を結んでくださる方です。洪水後、神は箱舟から出てきたノアと契約を結んでいます。契約にどんな恵みがあるのでしょうか?

 

1.神との絆

コロナ以後、私たちの社会ではネットでの活動が増えています。オンライン上、一番重要なことは、通信状態が良いことであり、逆に状態が悪ければ、どんな高性能の機器を使っても、対話することができません。神はノアとその家族を見て、「人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ」(創世記8:21)と語っております。神は、人が原罪の影響を受けていることを知っておられながらも、祝福の契約を結んでいます。つまり神は憐み深い方であり、一方的な恵みで祝福し、絆を結んでくださいます。もし、人が自由意志を持たず、神の言いなりになるだけのロボットのような存在であるなら、もはや神との対話において、愛も赦しも、感動もありません。神は私たちが、完全な者でなくても、関係を築き、対話してくださいます。

 

2.命の肯定

あるカウンセラーによると、相談として「将来、何をしたいのか分からない」という悩みが一番多いらしいです。将来の展望を抱けない人の特徴として、小さい頃から、親から、「そんなことをやっても無駄、あなたには無理、意味がない」と言われ続けたという経験があるということです。神は、ノアに「産めよ、増えよ。地に満ちよ。」(1)と語っています。これは神が私たちの命を祝福し、肯定してくださっていると受け止めてゆくことができる言葉です。箱舟から出てきたノアとその家族は、恐ろしい洪水を経験し、自分の命を肯定的に受け止めることができない感覚があったかもしれません。私たちは、神によって、安心感を抱き、希望に満ちた新しい年を迎えることができるのです。

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