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<2024年 礼拝メッセージ>

2024年12月29日
大切だから       

マタイの福音書18章10-14節 松倉善浩執事

 100匹の羊を飼っている羊飼いが数を数えてみると99匹。  あれ!1匹足りません。そこで、99匹を置いて1匹がみつかるまで当然のように探しにいく、その1匹がみつかったら迷わなかった99匹の羊よりはるかに喜びが大きいというお話しです。

 

 みなさまならどう考えますか?探すよりどこかで1匹を足して数をあわせればいい。探しに行って別の羊がいなくなるよりいい・また、探しに行っている間に残された羊が獣にでも襲われたらどうする・と私たちはいろいろと数や量で物事を考え行動してしまいがちです。

 この羊飼いは、探し出した羊を見つけもどってきて、別の羊がいなくなっていると、当然のようにまた探しに行くでしょう。何度でも同じことを繰り返すでしょう。羊飼いにとってこの1匹が特別だったわけではなくすべての羊が特別であったに違いありません。

 神様もこのように私たち一人一人を愛しておられます。数や量でなく目につきにくいところ、見落とし忘れてしまいそうなところに目をとめてとことん探してくださり最後まで大切にしてくださるのです。私たちは大した値打ちもない羊かもしれません。しかし、イエス様にとっては、あらゆるものを捨て置いても見つけ出さずにおれない大切なものなのです。イエス様からみて見失った人はいないのです。誰一人迷子にはなりません。イエス様は最後の最後まで私たちを探して出してくださいます。 私たちは、主の恵みによって探し出され大切にされている者です。イエス様に探し出された私たちは、イエス様に従っていくこと、イエス様の言葉に生かされて歩んでいきましょう。

2024年12月22日
シャローム       

マタイの福音書2章1-12節 三宅真嗣牧師

 クリスマスは美味しい物を食べ、プレゼントを貰い、家族や仲間たちと過ごす嬉しい日です。さて、最初のクリスマスにはいろんな人間模様が描かれています。新しい王誕生の知らせを聞いたヘロデ王は不安になり、一方、博士たちは喜びに溢れています。聖書は、心の平和を乱す原因と神が与える平和について語っています。

 

1.罪の表われ

 人類最初の殺人であるカインによる弟アベル殺人事件がありました。カインは地を耕す者、アベルは羊を飼う者になり、二人は得た収穫の中から一部を神に供え物としていました。人の気持ちとしては、将来のためにできるだけ多くの物を確保しておきたいものですが、アベルは神の祝福を認める信仰があったので、最上の物を捧げることができたのでした。カインは弟が得た祝福を目の当たりにした時、神に対する不満を感じ、弟に対して嫉妬心が起こったのかと想像します。ヘロデ王は政治的策略を巡らし、ローマ帝国から王の称号を与えられトップに上り詰めた人物でした。彼の努力によりますが、カインと同じ罪の性質があり、嫉妬心、猜疑心、怒りによって、心の平和を保つことができませんでした。

 

2.捧げる喜び

 東方の博士たちは、知恵があり、富や名誉がありましたが、この世における悲しみを感じており、新しいユダヤの王によってもたらされる平和を熱く切望していたのかと思います。博士たちは新しい王の謁見のために多大な犠牲を払いましたが、神が人の救いのために払った犠牲は、比較にならないほどです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)博士たちは、貧しい大工の子として産まれたイエス様の姿に神の偉大な愛を見出し、宝の箱を開けて捧げ、確かな心の平和と喜びに満たされていったのでした。

2024年12月15日
その御名

マタイの福音書1章18-25節 三宅真嗣牧師

 心の平和はどこから来て、どのように保ってゆくことができるのでしょうか?さて、マタイ福音書に記されているクリスマスストーリーはヨセフの不安から始まってゆきます。彼はどのように心の平和を得ることができたのでしょうか?

 

1.罪という根本原因を見つめる

 ナザレ村にヨセフとマリアというカップルがおり、一年間、お互いに節操を守る大事な婚約期間を過ごしていました。ところがヨセフにとってマリアが自分には関わりのない方法で、妊娠したという衝撃的な事実を知ることになりました。聖霊によって処女が身ごもるなど前代未聞で、あり得ないことであり、ヨセフの頭は混乱し、深い悩みを抱えていました。天使が夢に現れ「この子は自分の民を罪から救うからである。」(21)とヨセフに語りました。聖書の中心テーマは罪から救いであり、罪こそすべての不幸の根本原因であるとしています。ヨセフは罪から救ってくださる神のご計画に委ねようという思いになったのでした。

 

2.神に信頼し未来へ向かう

 私たちクリスチャンの幸いは神に祈ることができることであり、インマヌエルなる主を体験することができることです。しかもそれは宗教行事に参加している時だけではなく、日常生活の中で、神の恵みを感じることができるのです。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。(23) 不安と緊張の中にあったヨセフは、その約束を受け止め、起き上がって、マリアを妻として迎える行動をとることができました。インマヌエルなる主は私たちと共におられ、私たちの地上の生涯を共に生きて下さるお方です。ヨセフはこの方と共に生きることの安心感を覚え、恐れや迷いから覚め、立ち上がって、未来に向かうことができたのです。

2024年12月8日
平和の君の家系図

マタイの福音書1章1,11-25節 三宅友子副牧師

 1節にアブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図とありますから、ユダヤ人社会では知らない人がいない代表的な先祖の名前が並ぶ家系です。ところが、聖書はそれぞれの人物の良いところだけを記していません。イエス様の家系が決して穏やかな、落ち着いたものではなかったことが分かります。バプテスマのヨハネの言葉を借りるなら、神様は石ころからでもアブラハムの末を起こすことがおできになるお方です。神様のご計画はいつも結果論ではなく、因果応報でもないのです。神様がアブラハムの家系に、そしてダビデの家系に、メシアを与えるという約束が先にあって、イエス様がお生まれになりました。神様主導で、事が運ばれたのです。神様は選ぶと決めたから、ご自身のご計画を成し遂げていかれます。この系図を見ると、アブラハム、ダビデを選ばれた神様の誠実さが伝わってきます。

 次にこの系図を「だからこそ」という見方で受け止めてみましょう。多くの課題と、苦しみと痛みと、的外れな罪、戦いの歴史の中で、そこに神はおられました。私たちの理想の神よりもはるかに偉大な神はその全てから救い出すカギは「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」にあるとヨセフに語られました。これが、世界の答えです。数千年の歴史の答えです。私たちはこの神の恵みを体験しています。

 アブラハムまで遡る約1900年間をご支配され、導かれた方が、ヨセフの心の中の決心のタイミングにピンポイントして、夢の中に天使を送らました。神様はマリヤが罪を犯していないことはもちろんのこと、正しいヨセフが神様の御業のために用いられるように、二人を導かれました。神様がイエス様を送られる目的は「その罪から救うため」です。その系図に残っている姦淫も、捕囚も、ヨセフたちが対面するヘロデ王の脅威も、もとはと言えば、自己中心な罪が原因です。民の長い歴史というホースに穴が開いて、あちこち水が漏れ出ている。神様はその大元の栓を閉める「罪から救う」という大事業をなさってくださったのです。

2024年12月1日
平和の光景

イザヤ書2章1-5節 三宅真嗣牧師 

 私たちの教会は聖書をどれだけ大切に思っているのでしょうか?どんなに優れた賢人の言葉よりも聖書以上に権威ある言葉はないとしています。ところで聖書は将来の見通しや目標について語っています。 

 

1.神に委ねる信仰姿勢というゴール

 預言者イザヤが活躍した2,700年前、世界帝国アッシリアの前で南ユダ王国は風前の灯火でした。46の町と村は破壊され、エルサレムがかろうじて残っていましたが、王宮の宝物庫は空っぽになり、金で覆われた聖所の扉、柱まで差し出すことになり、王の心は打ちひしがれていました。そんなヒゼキヤ王の前に現れたのがイザヤであり、今日の神から預言を語ったのでした。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう」(3)ここで言われている「その道」とは、神を認め、神に信頼し、委ねるという生き方です。礼拝する私たちの姿は平和の光景と言えます。神は神に委ねるヒゼキヤを守ってくださいました。

 

2.イエス様が王座に着座するというゴール

 イザヤ書は、次のように未来を描いています。「主は国々の間を裁き/多くの民のために判決を下される。/彼らはその剣を鋤に/その槍を鎌に打ち直す。/国は国に向かって剣を上げず/もはや戦いを学ぶことはない。(4) ニューヨークの国連本部広場にこの御言葉をイメージするモニュメントがあります。しかし理想とする平和になかなか近づけないという現実があります。ところが、聖書はイエス様による完全な統治があり、平和な世界が実現すると語っています。サタンが縛られ、罪の誘惑もなく、人々が憎しみ、妬み、恨みなどの悪い感情を抱くことなく、争いのない完全な平和な世界がやって来るという約束です。未来に希望を抱き、「さあ、主の光の中を歩もう」と呼びかけ合うのが私たち教会の基本姿勢となっています。

2024年11月24日
取るべき地

ヨシュア記13章1-7節 三宅真嗣牧師

 将来に対して不安を感じない人がいるでしょうか?神はヨシュアに「占領すべき土地はまだたくさん残っている」(1)と語っておられます。ここからどんなメッセージを受け取ることができるでしょうか?

 

1. 戦うべき領域

 この時、ヨシュアは90才を超えていました。彼はモーセの従者として仕えて以来、常に戦場の現場で過ごしてきました。ヨシュア率いるイスラエル軍が主要都市を陥落させることができたわけですが、頑強な要塞にいるカナン人たちを追い出すことができずにいました。この戦いを私たちに当てはめるなら、どんなことが言えるでしょうか?イエス様を信じたことで、罪からの勝利が与えられ、救われました。天国の希望があるので安心感があります。しかし依然として、肉に挑んでくる戦いがあり、失敗もあり、敗北感にさいなまれることもあります。主の御前でへりくだり、自分の弱さを告白し、祈るなら、聖霊による変革が与えられ、勝利してゆくことができ、少しずつイエス様に似る者に変えられてゆくというのが聖書のメッセージです。 

 

2.祝福の取り分

 若い時には自我のため方向が定まらず力を発揮しにくいですが、老人になると、自分の限界に気づくようになるので、大切なものとそうではないものを判別し、意義深い時間の使い方をすることができるようになると言われています。詩編にこのようにあります。「力を捨てよ、知れ わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」(詩編46:11) 自分の力を捨ててこそ、得られるのが信仰の力です。老年になったヨシュアに、神が語った言葉は余りに酷ではないかと思われるかもしれません。しかし、信仰者ヨシュアは目を上げて、積極的な姿勢になったかと想像します。祝福を獲得するための秘訣とは、自分の力を捨て、神に委ねる信仰を働かせてゆくことにあります。

2024年11月17日
長服を着せられて

出エジプト28章1-5,39-43節 三宅友子副牧師

 幕屋建設と共に、祭司という奉仕者について神様がモーセに指示された場面です。祭司は神と人とを仲介する代表的存在でした。

 

 大祭司には「威厳と美しさを添える聖なる」祭服が用意されました。胸当てに宝石が12個もはめ込まれています。エフォドの両肩にも6つずつイスラエルの12部族の名前が刻まれていました。大祭司は両肩にも、胸にもいつでもイスラエルの名前を身につけて奉仕をしました。額には「神にとって聖」とかかれた金の札がありました。大祭司の働きは、選ばれた民を「神にとって聖」とする働きです。私たちにとって大祭司とはどなたでしょうか?私たちとささげものは、仲介者イエス様がいてくださり、イエス様のお名前によって受け入れて頂けるのです。「私たちは宝石のように覚えられている一人一人である」とイエス様を通して言うことができるのです。神様のビジョンのためには、荒野であっても、必要なものが揃うのです。私たちのために、町の外でなだめの供え物となってくださったのはどなたでしょうか?イエス様の十字架は、町の外のゴルゴダの丘の上にたてられたのです。

 さて、長服というと父の特別な愛のしるしであったヨセフの長服を思い起こす方もおられるでしょうか。天の御国では白い衣を着せられている人たちがいます。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」父の赦し、父の愛、選ばれた祭司であることを明確に示している美しい衣です。神の目と人の目に「聖なるもの」と分かるキリストという服です。

 

 選ばれた者として、キリストという服を着せられ、神の御前に立つなら、あなたは赦された者として、恥も引け目からも解放されます。永遠に主の祭司として、立たせてもらえるのです。祭司たちの中でひときわ目立つ大祭司イエス様に注目する礼拝共同体でありましょう。

2024年11月17日
長服を着せられて

出エジプト28章1-5,39-43節 三宅友子副牧師

 幕屋建設と共に、祭司という奉仕者について神様がモーセに指示された場面です。祭司は神と人とを仲介する代表的存在でした。

 

 大祭司には「威厳と美しさを添える聖なる」祭服が用意されました。胸当てに宝石が12個もはめ込まれています。エフォドの両肩にも6つずつイスラエルの12部族の名前が刻まれていました。大祭司は両肩にも、胸にもいつでもイスラエルの名前を身につけて奉仕をしました。額には「神にとって聖」とかかれた金の札がありました。大祭司の働きは、選ばれた民を「神にとって聖」とする働きです。私たちにとって大祭司とはどなたでしょうか?私たちとささげものは、仲介者イエス様がいてくださり、イエス様のお名前によって受け入れて頂けるのです。「私たちは宝石のように覚えられている一人一人である」とイエス様を通して言うことができるのです。神様のビジョンのためには、荒野であっても、必要なものが揃うのです。私たちのために、町の外でなだめの供え物となってくださったのはどなたでしょうか?イエス様の十字架は、町の外のゴルゴダの丘の上にたてられたのです。

 さて、長服というと父の特別な愛のしるしであったヨセフの長服を思い起こす方もおられるでしょうか。天の御国では白い衣を着せられている人たちがいます。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」父の赦し、父の愛、選ばれた祭司であることを明確に示している美しい衣です。神の目と人の目に「聖なるもの」と分かるキリストという服です。

 

 選ばれた者として、キリストという服を着せられ、神の御前に立つなら、あなたは赦された者として、恥も引け目からも解放されます。永遠に主の祭司として、立たせてもらえるのです。祭司たちの中でひときわ目立つ大祭司イエス様に注目する礼拝共同体でありましょう。

2024年11月10日
神と人に愛され

ルカ福音書2章41-52節 三宅真嗣牧師

 生き生きしている人とそうではない人の違いは何でしょうか?その人が成長を求めているかどうかと言えるのではないでしょうか?イエス様は人としてどのように生きられたのでしょうか?

 

1.神様の働きを行う

 大人になるという定義は何でしょうか?ユダヤ人たちにとっては「自発的に神の教えを守り、実践できるようになる」ということでした。ナザレ村からの一行として、ヨセフとマリアたち家族が過ぎ越しの祭りに参加しました。その後、帰りの道すがら、息子イエスがいないことに気が付きました。エルサレムの都に戻って、神殿の境内に行ってみると、「イエスが学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。」(46)「すると、イエスは(両親に)言われた。『わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』」(49)とお答えになりました。原文に「家」という言葉はなく、英訳ではお父さんの仕事(Father’s business)とあります。イエス様は人として、神様のお手伝いをすることこそ、偉大な生き方であることをお示しになったのでした。

 

2.両親に仕える

 神であるイエス様が、都から下り、両親と一緒に行動したというが、どれだけ遜った態度であったのか比較対象がなかなか見つかりません。イエス様は父ヨセフの生業だった大工仕事を手伝い、その技術を身につけ、父亡きあと、家の大黒柱として支えておられました。弟たちに仕事を教え、彼らが一人前になったことを見極め、30歳の時に公生涯に入りました。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。(52)十戒の前半は神への戒め、後半は人への戒めです。神が人となり、成長の姿を表わしながら、神と人とに仕え、神と人とに愛される方として、私たちに生き方の模範を示されたのです。

2024年11月3日
天国人

フィリピ信徒への手紙3章20-21節 三宅真嗣牧師

 クリスチャンは二重国籍であり、この地上国籍と天国国籍を持っています。天国人に、どんな祝福があるのでしょうか?

 

1.帰るべき場所を持つ安心感

 聖書が示しているのは、私たちは旅人であり、この地上で寄留しているに過ぎないというメッセージであり、主を信じる者に帰るべき天国があるということです。私たちもこの地上で、喜びと感動を味わい、いろんなハプニングを経験しつつ、時を過ごし、この地上を離れる時がやって来ます。地上を離れたら天国に帰るという意識があるのは、安心感の上で非常に大きいと感じます。この手紙が書かれた当時、フィリピはローマ帝国の植民都市でした。ローマ皇帝はある一定期間軍隊に入って勤めたフィリピ住民にローマ市民権を与えました。本来、奴隷が市民権を得ることは大きな特権でした。「あなたがたの国籍は天にある」との言葉を聞いたクリスチャンたちは、その意味の重要性をすぐに理解することができました。

 

2.キリストに望みを置く喜び

 どうして聖書は喜びを語っているのだろうか?天国行きの条件は、修行、難行苦行、功徳を積むことではなく、イエス様を救い主として信じるなら救われることです。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(21)「卑しい」とは、罪の性質を意味しています。私たちは罪人であるゆえに罪を犯してしまいます。しかし一方的なイエス様の恵みとして十字架で、罪人の身代わりの死を遂げ、天に昇り、王座に着座してくださり、ご自分と同じ栄光の体に変えてくださいます。どんな人の人生にも、予期しないことがあり、悲しんだり、苦しんだりする経験がありますが、天国人は満たされて次のステージに移ることができるのです。

2024年10月27日
約束の地

  ヨシュア記11章12-15節 三宅真嗣牧師

 もし人生の難問にぶち当たった時、どうするでしょうか? 3,400年前、ヨシュアは大ピンチに陥りました。どのようにしてピンチを打開したのでしょうか?

 

1.神に従って行動する

イスラエル軍の戦いはどんどん激しさを増していきました。10章においてヨシュアは5人の王との戦いに勝利したという話しでしたが、それからまもなく、カナン北部の国々が結集して、大連合の軍ができあがっていました。「それは浜辺の砂の数ほどの大軍となり、軍馬、戦車も非常に多かった。」(4)とあります。ヨシュア記が語るメッセージは、「神に従えば勝利する」「神に背くなら敗北する」です。ヨシュアはすぐに軍を北部に移して、疲れた体に鞭を打って休むことなく、敵を急襲しました。凄まじい追撃戦が展開され、敵を北部まで追い詰め、ついに全滅させることに成功しました。黙って神の御言葉に従うヨシュアの姿に教えられます。

 

2.神に寄り頼む

 神はヨシュアに不思議なことを命じられました。「あなたは彼らの馬の足の筋を切り、戦車を焼き払え」(6)馬や戦車は当時最強の兵器なので、戦利品として得た時、そのまま戦闘に有効に使えるはずです。「軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。」(詩編33:17・新改訳)とあります。神に寄り頼む者を神はお救いくださいます。強い人とはどういう人でしょうか?いざ危機的な状況に陥った時、どうしたらいいか分からなくなるのが私たち人間です。人間は結局弱い者なので、ピンチの時は、自分の力の限界を知って神に頼ること以外方法がありません。本物の強さは神への信仰から生まれ、育ってゆくのです。ヨシュアは神に従い、より頼むことで勝利し、約束の地を受け継ぐことができました。

2024年10月20日
神の特注品

出エジプト記25章1-8節 三宅友子副牧師

 旧約聖書の幕屋は今日の礼拝者にとっても良い教材です。新約時代に生かされている私たちが知るべきことは何でしょうか?

例えば、祭司が幕屋に入っていくから神に会えるのですが、幕屋自体が移動式であることで、群れと共に歩まれる神の姿が伝わってきます。同じように、毎週の礼拝は私たちの旅路に主が伴っておられることを体験させてくれます。また、幕屋の祭具はいつでも礼拝のためだけにそこにありました。礼拝に週に一度集う私たちもこの時間を他と区別しています。献金もしかりです。神様ご自身も礼拝者を「わたしのもの」と聖別されます。

 たった一つの入口から中に入ると大きな庭があり、いけにえをささげる祭壇があります。「神に近づくためには、血が流される犠牲が必要」なのです。祭司たちの「働きと歩み」がきよめられるための手を洗う洗盤もあります。聖所に入ると、金の机の上に安息日ごとに12個の種なしパンとぶどう酒が供えられています。どこから救い出されたかを思い起こし、また神が、地上の歩みにおいて日々の必要を備えてくださるお方であるという恵みを表わしています。聖所内は外部の自然の光が全く入りこまないので、燭台の光だけが頼りです。そして、聖所から至聖所に入る時に忘れてはならないのは、垂れ幕です。これは、聖い神と罪ある人間との間には隔てがあることの象徴でした。大祭司は年に一度、血を携えて至聖所に入り奉仕しました。信仰者はみな「イエスの血によって、、、まことの聖所に入ることができる」と新約聖書は語っています。

 

 救い主イエス様がどれほどのことをしてくださったのかを知らせるために、神様は歴史の中に聖所や至聖所、契約の箱や、祭壇のことを刻み込まれました。神様の特注品のすべての祭具を網羅しておられるのが、イエス様です。さあ、今、イエス様のお名前によって恵みの御座の前に進みゆき、礼拝をおささげしましょう。

2024年10月13日
日よ、とどまれ

ヨシュア記10章7-15節 三宅真嗣牧師

 聖書の話しを初めて聞いた時、あるいは聖書を読み始めた時、どんな感想を持ったでしょうか?驚き、疑問、モヤモヤなどがあったかもしれません。しかし、スッキリしないゆえに、真意を探ろうという気持ちになるのかと思います。神とはどんなお方でしょうか?

 

1.試練を祝福に変える神

 ヨシュア記でたびたび登場するのが、「立ちはだかる者はいない」という言葉です。ここで多くの人は聖書の話しに戸惑いを感じてしまいます。実際のところ、ヨシュアの前にいる立ちはだかる者はどんどん巨大化してゆき、彼はさらに困難で厳しい戦いに巻き込まれることになりました。一般的に私たち人間が思い描く幸せは、何の問題も起こらないことであり、無病息災、家内安全で、平穏に生活できることです。ここで強調されていることは「わたしは既に彼らをあなたの手に渡した。」(8)とあるように神が主導権を握っておられるということです。聖書は私たちがヨシュアのように神に寄り頼んで戦うべきことを伝えています。

 

2.時間と空間を超越する神

 ヨシュアは戦いに完全勝利するため神に願い求めたところ、「日はとどまり、月は動きをやめた。」(13)とあります。現代人の私たちは、科学の進歩によってあらゆることが解決できるし、科学が万能であるかのように感じているので、非科学的に思える聖書の話を聞くと単なるファンタジーか、荒唐無稽な話に思えてしまいます。しかしながら正しい科学と真の宗教は決して衝突も矛盾もしません。自然法則を超えた神の力が働くことを私たちは奇跡と呼びます。ある牧師は、奇跡を「救いという目的に向かっての神の特別な御業」であると定義づけています。神は人間の空想で作り出しのではなく、私たちの理解を遙かに超えて存在する方であり、今も生きて働かれている天地創造の神であり、私たちの救い主なのです。

2024年10月6日
建築家のように

Ⅰコリント3章10-15節 三宅真嗣牧師

 皆さんにとって、教会とはどのような場所でしょうか?信仰の仲間たちが集まり、楽しさがあり、お互いに支え合うことができる場所です。どんな大切さがあるのでしょうか?

 

1.キリストは信頼すべき土台 

 「この土台はイエス・キリストである。」(11)とあります。私たちプロテスタント教会は、聖書こそ唯一の規範であり、何よりも権威ある言葉としています。聖書をそのまま字義通り信じるというのが、私たち教会の信仰です。しかし残念なことに、昨今、多くの教会において、聖書は古い時代の古い慣習の中で語られた教えであり、現代では適用できない教えもあるという意見をよく聞くようになりました。キリストという土台が盤石でないなら、礼拝が喜びではなくなり、神への信頼も弱まり、信仰することに不安を感じてしまうのではないでしょうか?私たちの教会はイエス様を中心としており、聖書を永遠に変わらない神の言葉としています。

 

2.キリストは唯一の救い主

 教会の中に入り込む福音とは違う異なった教えがあります。人は進化してゆくことができるし、人の努力やアイデアによって実現可能な幸福な世界を築くことができるという誤解です。福音を理解する上で重要なことは以下の通りです。私たち人間は罪人であり、人の努力、アイデアによって救いに到達できず、ただイエス様を信じる以外救いの方法がありません。ちなみに教会に所属することは救いの条件になっていません。しかし教会生活によって私たちの人生は実り豊かになってゆくのです。スマホ一台あればユーチューブで福音を聞くことができます。しかし一人信仰では、愛を成長させることができません。神は、私たちを主の教会を建て上げる建築家のように取り扱ってくださり、いつまでも残る信仰、希望、愛を残してゆくために、私たちを導いてくださるのです。

2024年9月29日
わたしの油注がれた者たち

詩編1051-11節 林大仁神学生

 油を注がれるという表現が旧約聖書からよく出てきますが、この油は、出エジプト30:22を見ると、ミルラの樹脂、シナモン、匂い菖蒲、桂皮などをオリーブ油に混ぜて作られます。油注ぎは古代中近東で一般的に行われ、神の祝福や召しを示す儀式として持たれました。預言者や祭司にも行いますが、主な対象はイスラエルの王でした。サムエル記上24:6でダビデがサウルに対し、「主が油を注がれた方」と言っていることがその例です。イエス・キリストという時のキリストは、ヘブライ語のメシアをギリシャ語訳したものが語源で、油注がれた者という意味です。イエスがヘブライ語のギリシャ語訳で、神は救いという意味であることを考えると、イエス・キリストとは、救い主・油注がれた者という意味となります。

 主なる神が人間に油を注がれる理由は、務めを与えるためです。栄光を受け、恵みや慈しみに安住させるためではありません。詩編105編を見ると、1節~7節に感謝と賛美、勧めが続いた後、8節に契約という言葉が出てきます。ご自分の契約とは、創世記15:18で神様がアブラムに結んだ契約のことです。契約は、双方間で結ばれるのが普通ですが、この契約はそうではありません。17節に「煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた」と書いてあることを見ると、契約遵守の義務は神様のみにあり、一方的な契約であることが分かります。神様は一方的にわれわれを選び、契約を結び、神を信じる私たちの信仰を義と認められ、私たちが継ぐ土地を与え、そこに住まわせられるのです。しかも、神様はその契約をとこしえに覚えられ、千代までも守られるとおっしゃいます。与えられる土地がカナンである意味を、私たちは深く考えなければいけません。平和の中で安泰と平安が続くような地ではなく、虎視眈々私たちを倒そうとする敵に四方を囲まれ、異邦の神々を祭る人との戦いが絶えない地に、私たちは住まわされているのです。これが神様が私たちに油を注がれた理由です。その神様の契約に、今度は、私たちが応える時ではないでしょうか。

2024年9月22日
泉は湧き出ている

イザヤ書12章1-6節 三宅友子副牧師

 聖書の預言は、「将来にこんなことがあるぞ」と言う脅しではなく、神様のメッセージを伝えるものです。成就する前に伝えられる理由は、約束通りに誠実なお方、見えない神様の存在に皆が気づくためです。暗黒時代の入り口で、「その日!」と12章が語られました。人々には見えていないものが、神様には見えていたからです。ご自分を離れては実を結ぶことができない、いずれ枯れて焼かれてしまう存在であるという私たちの現実を神様はご存知です。ですから、救いの「その日」を設けられました。滅びることがないように、いつもいつも私たちを引き寄せようと声をかけ、忍耐して待ち、ルールを定め、個人的に関わり、歴史を導いてくださるのです。

 「その日」の救いとは、神の怒りが去ることです。なぜ、神様は怒りを去らせ、慰めを与えることができるのでしょうか。それは、全世界に救い主イエス様の支配が及ぶからです。イエス様は復活の主です。どこからでも再スタートできるように、私たちの身代わりに十字架にかかってくださったのです。イエス様だけが全世界の人々に赦しを宣言し、救いの手を伸べることができます。救いの全ては神様からきます。私たちは受け取るだけです。

 ところが、「救いの喜び」がなくなった、枯れてしまった、と感じることはありませんか?そして事もあろうに、「神様の救いがなくなってしまった!神様に見捨てられた」と勘違いさえすることがありませんか?渇き、枯れてしまうなら、私たちは喜びどころか、生きることができなくなります。救いは受け取るだけです。ただ、その応答の姿勢を保ち続ける必要があります。神様を見、信頼し、「主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった。」という日々の経験を積み重ねていきましょう。イエス様は大声で「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と呼び掛けてくださったのです。

 枯れることのない救いの泉を私たち自身が楽しみ喜び、そこに人々を招き入れていきましょう。

2024年9月15日
はかりごと

ヨシュア記9章22-27節 三宅真嗣牧師

 私たちは聖書に登場するどの人物の立場に立って読むかによって、神様の違った一面を見ることができます。ギブオン人の側に立って読む時、どんな神様のお姿を拝することができるのでしょうか?

 

1.命乞いを拒否しない

 今回、神は一言も発しておられないので、その御心が分かりづらいですが、命乞いをしたギブオン人が打たれたとか、殺すよう命じられたという言葉がないので、神はギブオン人の命乞いを拒否しなかったと言えます。本来なら交渉してはいけない人々でしたが、ギブオン人は計略を巡らして、イスラエル人たちをだまして、協定を結ぶことができました。聖書に、「(彼らは)賢く立ちまわった」(4)と記しています。彼らの優れた点はどこにあったのでしょうか?自分が将来どうなるのか正確に想像し、どうすればいいのか考え、行動したことです。この地上にいる間に、確実にしておきたいのが、神との和解です。自分の命を救うために行動することは、神の目から見て、賢い行動なのです。

 

2.契約を守る誠実さ

 契約を結ぶ際、相手側に偽証があった場合、破棄することができるのがこの世の常識です。ところが、イスラエルの指導者たちは、主にかけて誓ったため、協定を破棄してギブオン人を殺すなどできないと判断しました。神は真実であり、必ず契約を守る方であるので、その民であるイスラエルも契約に対して誠実でなければなりません。民族の特徴でもあり、聖書(契約)の民の凄まじさです。ギブオン人は呪われ、奴隷となるとありますが、彼らは神の宮に仕えることとなりました。ある面、非常に光栄な身分となったのでした。ギブオン人を私たちと重ねて理解することができます。本来なら、神に遠く離れていた私たちが神の御名によって契約を結んだことで、神のしもべとなり、約束の相続者になりました。神は契約を結んだ私たちに永遠に誠実であるお方なのです。

2024年9月8日
雷の子の生涯教育

マルコによる福音書3章13-19節 三宅友子副牧師

 さて、青葉教会では9月を教会学校月間としています。この機会に、何のために私たちは信仰生活で教育を受けるのか確かめましょう。

 

 イエス様の教育の目的は、弟子たちを召された時の言葉にあります。病人には癒しを目的として関わられ、群衆には「神の国」について知らせるために語られました。弟子たちには「人間をとる漁師にするため」、マルコの福音書では「自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため」に関わられました。イエス様は全世界のために人となられたお方ですし、多くの群衆に何度も語られましたが、12人の弟子たちと過ごすことに何よりも焦点を絞り、重要視されていたことが福音書を見ると伝わってきます。主は青葉教会においても教会学校ではもちろんの事、その他のさまざまな小グループでの集まりの中で、私たちを教育しようと関わってくださっています。これと思う者として主に召し出されたのですから、「わたしは人間をとる漁師にして頂くために、教育を受けるのだ」と目的を明確にして学びましょう。

 さて、イエス様は十二弟子のヤコブとヨハネに「雷の子」と印象的な呼び名を付けられました。ヤコブとヨハネは、思い通りにならないと、切れて激しく怒ってしまう弱さを持っていたようです。しかし、生涯の終わりにこの二人は、イエス様が教えてくださった仕える者となっており、愛の人へと変えられていました。

 

 青葉教会の一人一人がイエス様にニックネームで呼ばれるとしたら、どんな呼び名だと思いますか?その人が、イエス様のそばで、愛の人となり、喜び続け、平和の実を結び、穏やかで、親切で、善い思いを抱き、忠実で、希望をもって待ち続ける人になるよう教育してくださるのです。生涯を変えてしまうような教育をイエス様は私たちになそうとされて、教会を用いておられます。イエス様は諦めずに、教会に関わってくださいます。弟子の群れである教会の主はイエス様だからです。

2024年9月1日
祝福と呪い

ヨシュア記8章30-35節 三宅真嗣牧師

 どうしたらクリスチャンとして、人生の難題を解決し、生き生きと喜びと希望ある毎日を過ごすことができるのでしょうか?この問いかけにヨシュア記は答えています。

 

1.神の愛と赦しを受ける

 ところで、皆さんは神に赦されているでしょうか?罪を犯している状態から離れ、神の方向へ向き直って悔い改めるなら赦されます。簡単なことですが、簡単であるがゆえに、本当に赦されているという感覚がつかめないということもあるかもしれません。商社でも銀行でも、一度、出世コースから外れてしまったら、そのコースにはなかなか戻れないという話しがあります。イスラエルはどうだったのでしょうか? 「主はヨシュアに言われた。『恐れてはならない。おののいてはならない。全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。』」(1) 悔い改めるなら、必ず赦されるという約束があります。ですから、神に赦され、愛される私たちは未来に向かって行動することができるのです。

 

2.神の御言葉に従う

 ヨシュア記を貫くテーマはみ言葉に従うなら勝利するということです。ヨシュアは神のタイミングを待ち、神の言葉に従って劇的な勝利を収めることができました。勝利の後、襟を正すような思いで、イスラエルはエバル山で律法の朗読を聞くことになったのでした。内容は申命記28章であり、神に従えば祝福される、神を捨てるなら呪われるというメッセージです。ヨシュアは、さらに強大な敵と立ち向かうことになりました。彼は経験豊かな軍人でしたが、自分のアイデアや経験に頼らず、神のみ言葉に従い通しました。神のみ言葉は一見すると、時代にそぐわず、古い価値観のように思えることもあります。神のみ言葉(聖書)は、慰め励ましだけでなく、悔い改めに導く働きがあり、私たちはへりくだることで知恵が与えられ、難問を解決することができるのです。

2024年8月25日
感謝をささげよ

詩編30篇1~13節 三宅友子副牧師

 

 詩人の個人的体験の歌が何千年も残ることとなり、その一節が青葉教会の年間主題となりました。

「とこしえに揺らぐことなどない」そう言っていた時が問題だったと告白しています。栄えている時こそ、神様を忘れやすいのです。感謝もせずに主から離れてしまうことは霊的に危険な状態です。その後詩人は瀕死の重病を経験し、揺らぐ思いを主に叫び、そして助け出されました。この経験を通して、彼は神を思い出したのです。困難が与えられ、祈り、そして救われる、この循環は感謝をもって完成するのです。賛美も感謝も主の恵みへの応答です。主が命ある限り注いでくださる恵みに対して、私たちは応答するのです。それが生きるということです。

 さて、詩人は自分の個人的な恵みの出来事を歌いながら、皆に向かって「感謝をささげよ」と呼びかけました。詩編の時代から、どれほど個人の生活における恵みの経験が、共同体にとって重要であるかが示されているのです。教会は泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶところです。神への感謝を持ち寄りましょう。

 新約からこの詩編を見るならば、私たちの最大の敵である「死」にイエス様が勝利してくださった恵みへと繋がります。神様と完全に決別しなければならない滅びという霊的死から、救い出し、永遠に神と共に生きるという救いを与えてくださったということです。キリストの救いは誰も奪い取ることができません。これほど感謝なことがあるでしょうか。

皆さん、教会では遠慮することなく感謝しましょう。賛美しましょう。詩人は「嘆きが踊りに変えられた」    「荒布を脱がせ、喜びを帯としてくださった」と歌っています。沈黙ではなくほめ歌が詩人の口に与えられたのです。「死んだら賛美できないではないか」と言っていたのに、「とこしえに感謝をささげます」と。イエス様の救いが与えられたからこそ、実現する言葉です。肉体の死を迎えても、終わりではありません。イエス様を信じる者には、とこしえの礼拝の場、天国が用意されています。さあ、今日精一杯の感謝の言葉を主にお伝えしましょう。

2024年8月18日
わたしを愛しているか

ヨハネによる福音書21章15-19節 藤井義喜執事

  本日の聖書箇所では、イエスがペトロに対して3度、「私を愛しているか」と尋ね、ペトロが3度とも「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。日本語では愛するという同じ言葉ですが、ギリシャ語では、最初の2回、イエスがペトロに、私を愛しているか、と尋ねたときには、無償の愛を表す名詞「アガペー」の動詞形である「アガパオー」という言葉で問いかけられ、3回目は友情の愛(友愛)や兄弟愛を示す名詞「フィロス」の動詞形である「フィレオ―」という言葉で問いかけられています。対してペトロは、イエスからの3度の問いかけ全てに対して友愛・兄弟愛を示すフィレオ―という言葉で、「私があなたを愛していることはあなたがご存じです。」と返事をしているのです。イエスが十字架にかけられる前、3度、「イエスのことを知らない」と言ったペトロにとって、イエスからの問いかけに対して、「はい愛しています」ましてや「無償の愛で愛しています」と答えることなど、到底できない心境だったのだろうと思います。自分の愛などいつでももろく崩れさってしまうことを自覚しているからこその応答だったのでしょう。そのようなペトロに対して、イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と牧者として歩むことを命じました。

 イエスは、「私を愛しているか」という問いかけと同時に、「あなたの隣人を愛しているか」という問いかけも私たちにされているのではないでしょうか。イエスへの愛を実践する第一歩が聖書を通してイエスのことを知ることだとするならば、隣人を愛することを実践する第一歩は、相手のことを知ることです。私たちは忙しい日々を過ごしていると用件だけの必要最低限の会話、メールだけの会話で済ませてしまうこともあります。青葉教会も来年教会組織30周年を迎えますが、60人、70人という礼拝出席者が与えられている中で、すぐに全員のことを詳しく知りあうというのは難しいかもしれません。そのような中で、青葉教会としては小グループでの活動を一つの軸としています。小グループでの交わりの先に、「私を愛しているか」「隣人を愛しているか」というイエスからの問いかけに対する自分なりの応答を見つけることができればと思います。

2024年8月11日
聖なるかな

イザヤ書6章1-3節 三宅友子副牧師

 「聖」とは「非日常的で冒しがたい宗教独自の価値。神聖。日常的・一般的現象の価値である「俗」と対置される。」と辞書にありました。私たちは神様に似せて造られたので、愛、憐れみ、誠実などの性質はいくらかでも持っています。しかし、遍在、全知、全能、そして聖さはないのです。聖さは、神様のものであり、神様のために他のものから区別されるという意味もあります。イザヤ書6章とよく似ているのが黙示録4章6-11節です。そこでも「聖なるかな」と同じ言葉が三度も繰り返されています。神様についての真理を強く情熱的に表現する、神様だけに告白する言葉です。

 神様はイザヤに天国の情景を見せられたのですが、その時俗世界では、大きな問題がありました。北王国と呼ばれたイスラエルは崩壊していました。次は南ユダが攻められる、大国の間にあって、政治的にはあれもこれもと策を講じなければならない時にウジヤ王は死にました。ユダ王国が最も霊的に、道徳的に衰退していた頃とも言われています。沢山の課題の中にいたイザヤに、聖なるご自身をお見せになり、ご自分がどんな方であるのか、イザヤに印象づけられました。社会が大変な時に、個人の生活が苦しい時に、天国の情景を見たところで何の意味があるのかと思う方がおられますか。「聖なるかな」の後に続くのは、「その栄光は全地に満ちる」です。何物にも支配されない単独の神、その神があなたを満たすのだ、その神が天と同じように地に満ちているのだと、霊的事実をイザヤにお見せになったのです。

 聖なる主の御業、神様だけがなさったその業、それはイエス様の十字架です。ただお一人で完結しておられる神様は、聖なる御業、救いの御業を成し遂げてくださいました。この御業以前に天国を見せられた時イザヤは「汚れている」と反応しました。けれども、黙示録では、聖なるお方にただ近づいて礼拝することができるのです。救いの御業ゆえに、私たちは未来を約束して頂いたのです。イエス様は「聖」であられたのに「この世」に来てくださいました。それは、聖なる父によって私たちが一つになるためです。さあ、今日お集りの皆様、聖なる御名を唱えましょう。ただ一人聖なる方の御前にひれ伏しましょう。「俗」をも主に治めて頂くことを求めましょう。

2024年8月4日
アコルの谷

ヨシュア記7章10-13節 三宅真嗣牧師


 好きな俳優、作家、音楽家などいるでしょうか?その人物のことを好きになった場合、すべての作品に触れ、その人物のことをもっと知りたいと思うのではないでしょうか?新約聖書だけでなく、旧約含め66巻すべてに表れている神について知ってこそ、全体像が見えてくるわけです。

1.すべてお見通しの神
 イスラエル軍は、エリコを攻略した後、アイという町を攻めるため上って行きました。アイはエリコと比べると小さな町であり、それ以前、連戦連勝だったイスラエル軍にとって恐れるに足りない相手でした。ところがそんな小さな敵に敗北することになり、ヨシュアは、悲しみに打ちひしがれて、苦しみ、弱り果て、泣き言を言い始めました。しかし、アイに敗れた原因ははっきりしていました。神が次のように語っています。「イスラエルは罪を犯したのだ。わたしの命令に背いて、取ってはならないと命じた戦利品を盗んだ。盗んだだけではない。偽って、自分の持ち物の中に隠している。」(10)神は全知全能であり、どんなに隠された罪でもご存知です。小さながん細胞を見つけるレントゲンのように、神の目にはすべてが明らかになっているのです。

2.罪を憎む神
 罪を告白したアカンでしたが、その後、家族、全財産もろとも滅ぼされるという非常に厳しい裁きが下されました。私たちは病気とりわけ癌に関しては敏感ですが、神に逆らう罪に対しては、鈍感になりやすい者です。アカンの話しは現代において意味のない荒唐無稽な話でしょうか?自分の罪を知り、自分は滅ぼされて当然な存在と考えるなら、この物語は重要な話となってゆきます。私たちの心にアコルの谷があり、私たちの身代わりとなって処刑されて下さったお方がおります。父なる神の激しい怒りが十字架に架かったイエス様に向けられました。そしてイエス様は私たちの口から出るはずだった言葉を身代わりとなって、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコ15:34)と叫んで死んでくださったわけです。アコルの谷は罪の恐ろしさと同時にキリストによる贖いの偉大さを伝えています。+

2024年7月28日
主を賛美せよ

詩編148篇7~14節 三宅友子副牧師


 音楽は良いものです。聞く事、歌うこと、奏でること、音楽は人生を豊かにしてくれます。その中に賛美というものがあります。いや、実際のところ、音楽の歴史を見ると、賛美があって、そこから様々な音楽が生まれて来ました。最初に音楽を始めたのは、天使たちです。神をほめる、それが音楽の始まりでした。賛美には神様との関係が深まる要素がぎゅっとつまっています。神様をもっと知りたい、神様にもっと近づきたいと願っておられる方は、ぜひ賛美をやめないでください。

 7節からは被造物である動物も植物も主を賛美するように命じられています。主を賛美するために、全てのものは造られたのです。それらの被造物の列記の最後に人間も主を賛美するように告げられています。特に11節では支配者たちが挙げられました。リーダーこそ、神様の前でへりくだって主を賛美せよと。自分が王座に座り、責任者という隠れ蓑で支配欲を満たそうとしていないでしょうか。心の王座にイエス様をお迎えし続けていますか。賛美について調べ始めると、歴史の向かうところ、また私たちの生かされている意味も、教会形成も神への賛美にあると発見します。
 私たちは今日もこの時間を聖別して礼拝に集いました。特に「賛美」「祈り」「献金」は私たちが神様にささげるものです。賛美をする時に、何にも優って、心が神様に集中できているのかということに最大限注意を払いましょう。私たちに御子をさえ惜しまずに与えてくださったお方に、ほんの少しでもささげましょう。主に近くある民として、私たちを生かされるお方、この方をほめたたえていきましょう。

 これから応答賛美をいたします。これが生涯最後の賛美かもしれないと思って心を込めるのもいいかもしれません。青葉教会の礼拝を神様にもっともっと喜んで頂きたいのです。「この群れを導いてきて良かった」と教会の頭であられる主が満足そうな笑みを浮かべてくださるような賛美をささげたいのです。ただお一人賛美を受けるにふさわしいお方に、言葉を尽くして、心と思いと力を尽くして、誉め歌いましょう。

2024年7月21日
黙す、滅ぼす、興す

エレミヤ書21章8~10節 林大仁神学生

 エレミヤは、ユダ王国のヨシヤ王13年の時に預言者としての働きを始め、ヨアハズ王、ヨヤキム王、ヨヤキン王、それから王国最後の王、ゼデキヤ王に至るまでの40余年をユダ民族へ下される神の正義を預言し、バビロンに降伏することを語り続けた預言者です。21章には、いよいよ差し迫ったバビロン王ネブカドネツァルのエルサレム侵攻を前にゼデキヤ王が主の御心を伺おうとエレミヤのところに送った祭司らを前に、エレミヤが改めて神の厳しい裁きを告げる場面が記されています。エレミヤは、死の道に見えるものが実は命の道であることを説きます。が、そのエレミヤの話に祭司らは耳を傾けず、それどころか、イスラエルの民は寧ろ、どうして主はこのような大いなる災いをもたらすのか、どうして我々を脅かすのか、我々は、どのような悪、どのような罪を我々の神、主に対して犯したのかと開き直ります。

 BC11世紀頃サウル王が全イスラエルの王になってからその王国は、BC586年南ユダ王国がバビロンによって滅ぼされるまで約500年間続きました。旧約聖書全39冊のうち、24冊がこの時代のことを書き記しています。すなわち、この時代は、神の救いの歴史において大変重要な意味を持つのです。ユダ王国には20名の王がいましたが、主の目にかなう正しいことを行ったと神に評されているのは、3代目のアサ王、4代目のヨシャファト王、13代目のヒゼキヤ王、16代目のヨシヤ王の4人しかいません。残りの王は、悪に黙すか、悪を興すかでした。彼らは、主に従って歩まず、主の定めと掟を守らず、それを戒める預言者に耳を貸さないところが共通していました。主の目にかなう王のはずだったヨシヤの後を継いだヨアハズ、ヨヤキム、ヨヤキン、そして最後の20代目の王、ヨシヤの三男ゼデキヤは、奇しくも揃いも揃って主の目に悪とされることを行い続け、神の国を滅ぼしました。

 われわれバプテストは、万人祭司です。1人1人が霊的指導者として立たされていることになります。その責任はとても重いものです。

2024年7月14日
壁崩壊

ヨシュア記6章1-27節 三宅真嗣牧師


 問題を抱え、悩んでいる人はいるでしょうか?人生に問題は付き物であり、悩みや心配は尽きることがありません。さて、聖書は人生のマニュアルと言われていますが、ヨシュア記から大きく立ちはだかる問題をどう克服するか教えています。

1.勝利するため
 ヨシュア記が語っている勝利の秘訣は神の方法に従うことです。イスラエルの民は、エリコの城壁を一日一周、七日目に七周し、鬨の声をあげることを命じられました。私たちにとって神の方法に従うことに難しさを感じることがあります。それは、無理難題なことを要求されているからではありません。世の中の常識、価値観、自分の考え、経験による方法のほうが優先されてしまうからです。 「そんなことをやっても何の意味もない。常識外れだ。そんなに世の中甘くない。」という気持ちになると神に従うことができなくなります。しかし聖書によると、「民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ちた。」(20)とあります。近年、発掘により、実際に1400年前、エリコの城壁が崩れたことが分かったそうです。聖書の話しはおとぎ話や道徳本ではなく、実際にあった事実に基づいた歴史書であり、神に従う時、私たちは勝利すると聖書は伝えているのです。

2.勝利し続けるため
 この時エリコの住民はどのようにすることが正解だったのでしょうか?遊女ラハブはイスラエルの神に降伏し、斥候をかくまったという話を以前学びました。先回、ヨシュアは神の使いの前で履物を脱ぎ、ひれ伏して拝しました。城門を堅く閉じるのではなく、神に降伏することで救いの恵みを受けることができると示されています。「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。」(詩篇34:18) 信徒手帳には、日々の祈りと聖書通読、毎週の礼拝、祈祷会、献金、伝道を推奨しています。それらは、救いの条件ではありませんが、さらに勝利を重ねてゆき、生き生きとしてクリスチャン生活をおくるために必要な行為となっております。

2024年7月7日
出てゆく教会の祝福

マタイ福音書28章16-20節 野口日宇満宣教師

 復活のイエス様が弟子たちに与えられた唯一の命令は「全世界に出て行って福音を宣べ伝えよ」(マタイ16:15)という「大宣教命令」であった。世界宣教は、大きな教会、豊かな教会がするものであり、多くの教会にとって自分たちとは直接に関係ないものであるかのように感じられるかもしれない。けれども、イエス様の大宣教命令は、すべての教会に対して語られている。
 コロナパンデミック以降、多くの日本の教会は疲弊し、教勢の低下と厳しい財政状況に苦しんでいる。自分たちの足元だけを見るとき、とてもイエス様の大宣教命令に応えることができるような状況ではないと言いたくなるような現実がある。しかし、そこにおいて私たちの信仰が試されている。自分を見るのではなく、主の約束を握り、主の命令に従うところに教会の祝福の鍵がある。主は、私たちの教会が目に見えるものによってではなく、目に見えない神の言葉に従うことを願っておられる。
 主は私たちに、自分たちの安全な場所に留まるのではなく、出て行くようにと命じておられる。なぜなら福音宣教の本質は出て行くことだからである。父なる神様は、罪のゆえに苦しむ私たち罪人のために、独り子なるキリストをこの世に遣わされた。それは他でもない父なる神ご自身が出て行かれる神であったことによる。父なる神の中に燃えていた罪人を救いたいという救霊の情熱が御子キリストを世に遣わされた原動力であった。
 私たちの教会が聖霊に満たされる時、父なる神の中に燃えている救霊の情熱に燃やされる。それこそが私たちの世界宣教の原動力である。確かに出て行くよりも待っている方が楽である。今はインターネットもあるし、わざわざ海外まで出かけて行かなくても、宣教師を遣わさなくても世界宣教を行うことができるという声もあるかもしれない。けれども、教会が実際に宣教の現場に出て行かなければ福音を聞くことのない人がいる。聖霊に満たされて、主が託してくださった大宣教命令に喜んで応答しようではないか。その時に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という主のインマヌエルの事実を私たちの日々の生活の中で体験するようになる。

2024年6月30日
聞く耳

マタイによる福音書13章1-23節 高橋 寛幸兄


 「カクテルパーティー効果」という言葉があります。人間の聴覚の機能の一種で、「選択的聴取」と呼ばれるものです。カクテルパーティーのように多くの人がそれぞれ雑談をしているような中でも、自分の興味のある人の話や声、自分の名前などは自然に聞き取れるようにできているのだといいます。人間は様々な音の中から自分の聞きたい音だけを選択的に聞いているというのです。
 イエス様が宣教を開始され、多くの群衆たちに向かってたとえ話で神の国のことを語られました。そんな時、イエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われます。この「聞く耳」とは何でしょうか。
 イエス様は、当時の市民たちが囚われていた律法からくる慣習、律法が「当たり前」となっているために新しい真実の話を聞くことができなくなっていた(見ても見ず、聞いても聞かない状態に陥っていた)人々に対して、「私の言葉に耳を傾けなさい」と強く注意を促したのです。
 そして、種蒔きのたとえのように、群衆の市民たち誰もが経験でよく知っているたとえを用いて、優しく、わかりやすく、神の国とは何かを語ってくださったのです。イエス様の一言で、群衆の耳はもう「聞く耳」になっていたのです、
 聖書を読む私たちにも、イエス様は同じことを言われます。日常生活の中で、様々な雑音や誘惑によって、私たちはいつの間にか聖書から聞こえてくるはずの神様、イエス様の声を聞き取ることができなくなってはいないでしょうか。
 蒔かれた種とは「御言葉」のことです。御言葉を聞く、御言葉に聞くとは、聖書から、神様の声を注意して聞き取ることです。私たちも「聞く耳」を持って神様の声に耳を傾けましょう。何よりも、いつも神様が、私たちの声、私たちの祈りに耳を傾けてくださっていますから。

2024年6月23日
信仰現場

使徒言行録18章1-4節 三宅友子副牧師


 「クリスチャン人生」のイメージはどのようなものでしょうか。教会の中だけではなく、この社会のビジネスがまさに信仰の現場というのはどういうことなのでしょうか?今日は株式会社ノアから野村弘さんの証を伺います。聖書にもそのような人々が登場するので、読んでみましょう。

 使徒たちは見えない神様の導きを信じて、自分の手で働きながら、奉仕人生を送った人たちです。使徒パウロは、与えられた召しに従って、伝道を主たる働きとし、天幕づくりを副業としている時期がありました。その時、パウロには同業者であるアクラとプリスキラとの出会いがあったのです。この夫婦はユダヤ人です。故郷を追われた離散の民としてローマに移住していた夫婦ですが、クラウデオ帝の「ユダヤ人追放令」によってローマも離れなければならなくなったというのです。故郷もローマも追われたこの夫婦はコリントでどのような気持ちで天幕造りをしていたのでしょうか。しかし、そこにパウロとの出会いが用意されていたのです。神様は良きことも悪しきこともご自分の栄光のためにお用いになることができます。パウロはアクラとプリスキラの家に同居し、一緒に仕事をして生計を立て、信仰の交わりをしました。この夫妻には、パウロの働きを十分に理解するための交わる時間が与えられました。後に「家の教会」の働きも始めた彼らは、ビジネスマンクリスチャンとして主の働きに従事しました。この夫婦との出会い、交流が、パウロを大きく支えたに違いないことは、パウロが何度も手紙の中で二人の名前を出していることからも明らかです。社会の仕事をつづけながら、福音宣教に従事することができることを、プリスキラとアクラは私たち読者にも見せてくれています。

 青葉教会の皆さん、あなたのお仕事はお給料のためだけでしょうか?家族のためだけなのでしょうか?神様は、目的をもって、あなたをそこに遣わしておられます。日曜日だけではなく、月曜日から金曜日までもがまさに信仰の現場だと思える人生が、神様にあって可能です。あなたはこれからの生涯を、そのようにダイナミックに歩みたいと思いませんか?

2024年6月16日
​聴従

ヨシュア記5章1-15節 三宅真嗣牧師


 みなさんは、今、どんな課題を抱えているでしょうか? 仕事上でのこと、人間関係、老いや病との戦い、誘惑との戦いなど、生きることは、つねに戦いが付きまといます。一般的に、もっと強くなれば、もっと努力すれば、もっと賢くなれば乗り切れると考えます。さて、イスラエルの民はヨルダン川を渡り、最初の攻略地であるエリコに近づいていました。どんな作戦がとられたのでしょうか?

1.主に向き合う
 民は激流のヨルダン川を背にして立つことになり、もう後には戻れない状態となり、おそらく極度に緊張していたことと思います。ところが、そんな彼らに主がお命じになったのは不思議なことでした。それは男子に割礼を施すことです。割礼をした場合、三日ほど、傷の痛みで動けなくなります。戦士となる男性がすべて動けなくなったとしたら、大ピンチの陥る可能性があります。主は私たちの強さ、賢さ、能力の高さを見るのではなく、聞き従うかどうかを見ておられます。さらに、主は過ぎ越しの祭りをせよとお命じになりました。それは、奴隷からの解放を喜び、神に感謝をささげ、お祝いする時となっています。主に向き合い、主によって強められ、豊かにされることを、現代に生きる私たちにヨシュア記は伝えています。

2.主に味方する
 ヨシュアは200万の国民のリーダーとして、その肩に重い責任がずっしりのっかっていました。エリコの近くで思い悩んでいたところ、天の御使いが抜き身の剣を手にして近づいてきました。ヨシュアの「あなたは味方か、それとも敵か」という問いかけに対して、御使いは味方とも敵とも言いませんでした。「主が味方となる」「主に味方する」言葉の響きは似ていますが、全く違う意味となります。通常私たち人間が神に向かう時、一番の関心事となるのは、神が私の味方となり、私にご利益をくれるかどうかです。何をもってキリスト教が真の宗教と言えるのでしょうか?神中心となるのが真の宗教です。それが勝利の秘訣であるとヨシュア記は語るのです。

2024年6月9日
慈しみに生きる

詩編107篇23-32節 三宅友子副牧師

 「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らを苦しみから救ってくださった。」「主に感謝せよ。主は慈しみ深く 人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」荒野で迷い飢えと渇きから救い出してくださった主。貧苦と鉄の枷に捕らわれた民を、導き出した神。重い病気で死の門に近づいた者らを破滅から救い出された方。ひどい嵐の中から、望みの港に連れていかれた方。これらは皆、人々の行動の結果ではなく、ただ神がしてくださったゆえに今日も生かされているという恵みの体験です。

 今年の主題聖句には「主の慈しみに生きる人々よ」との呼びかけがあります。「慈しみ」という言葉は、神様のご性質をあらわすものです。「慈しみはとこしえに」に表されているように「決して絶えない」という性質があります。主はシナイ山でモーセに厳かに宣言されます。「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ちている」と。旧約の神は怖い神だと言われる方がおられますが、出エジプトの時から、「慈しみとまことに満ちている神」として現れておられました。

 神は誰に対しても慈しみ深くあられますが、そこに気づけるのは、「主に助けを求めて叫ぶ人」であり、神の子、神の民とされたことを意識している人でしょう。神様がおられなければ、生きられないことを認め、慈しみが注がれてくる管をそのままにしておかなければなりません。私たちは神に栄光を帰すために生かされています。主がしてくださったことを明らかにして、主の名を高めることが、私たちのいのちの理由です。

 

 「人の力はそこまで」「どんな知恵も役立たない」、、、そんな嵐の中におられる方がいらっしゃるでしょうか。主の慈しみ深いまなざしを思い描いてみましょう。母が子を見守るように、見つめておられる主を信頼しましょう。私たちはイエス様の十字架の血潮によって買い取られて、正式に神の子とされたのです。主の慈しみを経験したなら、分かち合ってください。礼拝の中で「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らを苦しみから救ってくださった。」「主に感謝せよ。主は慈しみ深く 人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」と繰り返し、共に歌いましょう。

2024年6月2日
生ける記念碑

ヨシュア記5章14-24節 三宅真嗣牧師

 40年間、荒野で訓練を受けたイスラエルの民は、新しい歴史の一歩を踏み出すことになりました。神が民に命じておられることは何でしょうか?同時に新しい年度を迎えている私たちに語られていることは何でしょうか? 

 

1.救いの恵みを覚える

 神は激流のヨルダン川をせき止める奇跡を行い、乾いた川底を民は渡ることができました。その際、神は「ヨルダン川の真ん中の、石を一つずつ肩に担いで来い。」(5)と命じておられます。民が担いできた石とは、御影石や大理石でもなく、何の変哲もないどこにでもある石でした。それを加工することもなく、そのまま積み上げて、記念碑としました。神がそれを行うように命じた理由は、民が救いの恵みを覚えておくようにするためです。私たち人間は忘れやすいので、素晴らしい奇跡を体験しても、過ぎ去ってゆくとすべてセピア色になり、古びてきて、忘れてしまうことが多いわけです。今の私たちにとって記念碑とは何でしょうか?主の憐みと恵みを語り合うことによって、心の中にある記念碑に向き合う時間となっています。私たちは主の救いの恵みを証しし、喜び合う家族となっているのです。

 

2.次世代に神の恵みを語り継ぐ

 記念碑となって積み上げられた十二の石は、特段、価値ある物ではありません。特別な神の力が働いて、石が光り輝き、神の偉大さを語り始めるというわけでもありません。神の偉大さを語るのは、子供たちに「この石は何を意味するのですか?」(21)と尋ねられた人々です。普通の人々が、普通の石の意味について、普通ではない神の特別な恵みについて語るということです。そして、その次の世代が、石の記念碑について、語り継いでゆくこととなりました。今、私たちにとって記念碑とは何でしょうか?それは私たち自身であると言えます。私たちは、川底にいる石のような普通の存在です。「どうしてクリスチャンになったの?」と 疑問として尋ねられることがあるかと思います。そんな時、「主は私の人生において、良いことをして下さった!」と証しし、そのようにして私たちは生ける記念碑になるのです。

2024年5月26日
励ましに満ちた言葉

使徒言行録15章22-35節 三宅友子副牧師

 エルサレム会議の続きです。会議が終われば、その決議を皆に知らせる必要がありますが、使徒たちはどのようにしたのでしょうか。

 簡潔な決議を知らせる手紙が用意され、多種多様な人種、文化の中でイエス様の救いが伝わるために、必要なことが書かれました。決議の文書と共に、口頭で説明する人をきちんと遣わした辺りに、心を感じます。そして、派遣されるバルナバとパウロ、ユダとシラスを推薦しています。エルサレム会議には、ただ事柄を決定するだけではなく、働き人たちをしっかり選び、信者全体に推薦しなおすという要素もあったようです。

 「聖霊とわたしたちはこの他のことは一切重荷を負わせない」この言葉から、聖霊が自由な霊であられることが分かります。イエス様に気付かせ、罪の告白へと導き、信仰を励ます聖霊は救いによって与えられる自由の中を生き生きと活動できるよう、重荷を負わせないお方です。恐れを取り除き、不安を希望へと変え、神の子としての自信を取り戻すお方です。

皆さん、会議の決定を聞いて「励まし」を受け取ったことがありますか?会議とは、何か堅苦しい、守らなければならない事柄を決定される窮屈なものというイメージがありませんか?エルサレム会議はせっかくクリスチャンになった方々が「無割礼の私たちは本当は救われていないというの?」と悩んでいることに思いを寄せての会議でした。教会の会議は「励ましに満ちた」ものであることができるのです。教会を導く聖霊なる神が励ましに満ちておられるからです。

 ユダとシラスが賜物を用いて、いろいろと話をした時も、兄弟たちは励まし力づけられました。あなたの気づきはどうすれば教会の建て上げのためにもっとも効果的に用いられるでしょうか。「よく気づく」という賜物を与えられた主が、それをどのように用いればいいのかも教えてくださいます。アドバイスを与える側も、育ててもらう側も両方をよくご存じの主が、丁度良い伝達方法をご存知です。言葉は人を生かしも殺しもするからです。今まで以上に互いの言葉が、人を建て上げ、教会を建て上げるために用いられる群れとなっていきましょう。

教会総会が、青葉教会の次の一歩を踏み出す励ましとなりますように。

2024年5月19日
上よりの力

Ⅰテサロニケ1章5-7節 三宅真嗣牧師

 聖霊は天使ではなく、被造物でもありません。最初からおられた三位一体の神であり、ご人格を持ち、感情があるお方です。そして、私たちの信仰生活において欠かすことができないお方です。どんなお働きがあるのでしょうか?

 

1.聖霊によって福音を受け入れる

 一人の人がクリスチャンになるためにどんな条件が必要なのでしょうか?善行を積む、頭が良さ、熱心な修行によって、福音を理解することができたという訳ではありません。聖霊がその人の心に働いたから、霊的な祝福が分かり、クリスチャンとなる決断をすることができたと言えます。パウロの宣教チームがテサロニケの町に入った様子が使徒言行録17章に書かれています。その町でイエス様を信じる人たちが現われ、教会ができました。パウロは福音を「説明し、論証した。 それで、彼らのうちのある者は信じた。」(使徒17:3-4)とあります。パウロは当時、第一級の聖書学者で、熱心さ、行動力を兼ね備えたスーパー宣教師でしたが、彼は言葉だけに頼るのではなく聖霊に寄り頼みました。聖霊は目には見えませんが、私たちの願いに応えて、人々の心深くに、福音が届くよう影響を与えてくださるのです。

 

2.聖霊によって生き方が変えられる

 テサロニケでクリスチャンになった人たちは、イエス様を信じることで、人生が一変しました。彼らは、とりわけ、不幸な人生を送っていた訳ではなく、住む家があり、三食食べることができ、家族もおり、それなりに幸せな人生を送っていたはずです。クリスチャンになったことで、むしろ、迫害され、牢屋に入れられ、散々な目に遭いました。しかし、驚くべきことに彼らは嫌になるどころか、聖霊による喜びを持っていました。イエス様を受け入れることは自分の生き方の変革と言えます。変革はボトムアップ式(人間からの行いや努力)ではなく、トップダウン式(上よりの力)です。二千年前のペンテコステの日から、聖霊の力が解放されました。聖霊なる神は上からの力であり、この方によって変えて頂くことができるのです。

2024年5月12日
神抜きには起こらない

使徒言行録15章1-21節 三宅友子副牧師

 教会の中の会議は、やはり普通の会議とは一味違います。定期総会を意識しつつ、初代教会の会議をのぞいてみましょう。

 エルサレム会議で「救いはイエス様を信じることによる。割礼というしるしはいらない。」とパウロとバルナバ、ペトロたちは意見しました。

 ペトロはまず10年ほど前から皆で共有してきた部分から話し始めました。彼自身異邦人伝道をし、この会議で取り上げている課題について、実際に問い続けてきたことでしょう。彼は「神が異邦人をご自分のものとされた」その証明を見たと言っています。「神のものである」というしるしのない異邦人が「聖霊」を受けたことを証印だと言っています。そして、彼らの心が清められていることが、その後の信仰生活で見て取れたのでしょう。神に従う人生を送る異邦人クリスチャンを目の前に見て、ペトロは「神は何の差別もされていない」と確信したのです。

 「先祖もわたしたちも負いきれなかった軛」とペトロは表現しています。割礼を受け律法を完全に守っていこうとしたユダヤ教ですが、それは自分たちの汚れを明らかにするばかりでした。「律法の行いによる救いはない、主イエスの恵みによって救われる」と、異邦人伝道を実践してきたペトロは発言しました。すると感情が静かになったことも不思議です。「分かった、アーメン」と一つになったのです。これもまた聖霊の業です。ペトロもヤコブも神がなさったことを分かち合います。「どう考えても人間業ではない、神がなさっているとしか言いようがない」、、、教会活動の中で、そういうことがあります。ヤコブは最後に「異邦人の救いは昔から神様がご計画されていたことだ」とみ言葉を引用しました。このみ言葉によって会議で判子が押されたようです。現実に起こった事と、み言葉が完全に一致して、会議は結論に向かいました。「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。」と。

 

 会議の場で、神がなさったことに注目してみましょう。エルサレムへの道すがら神の御業を語って喜んだパウロたちのように、定期総会の日まで一年間を振り返り、神様がしてくださった恵みを数えましょう。私たちは心を柔軟にして、神がなさる新しいことを追いかけていきましょう。

2024年5月5日
渡河作戦

ヨシュア記3章1-17節 三宅真嗣牧師

 聖書の神はどんなお方でしょうか?さまざまな恵みをご用意下さいますが、重要な恵みとしているのは、信仰成長という祝福です。私たちの信仰が成長するために、どのように取り扱ってくださるのだろうか?

 

1.私たちに先立って歩む

 専門家によると、地上軍事作戦の中で渡河作戦が一番、困難であるそうです。どんなに最新の水陸両用車に乗り込んでいても、向こう岸から狙い撃ちされるので、命を落とす可能性が大きいわけです。今回ヨルダン川を渡ったのは、活力ある男性ばかりではなく、幼い子供、身重の女性、礼拝の祭具、家財道具、家畜、モーセが残した資料(モーセ五書)であり、しかも200万人ほどの大群衆でした。この時の作戦は、契約の箱を担ぐ祭司たちに続いて川を渡るという不思議な方法でした。契約の箱は神の臨在が表われており、民はこの箱を通して、神が生きておられるということを体験することとなりました。民は、「これまで一度も通ったことのない道」(4)を歩んでゆきました。神の臨在が私たちに先立ってゆかれます。主は絶えず私たちの前を歩んで、私に従えと声をかけてくださるお方です。

 

2.信仰の一歩を促す

 この時、祭司が足を激流に足を踏み入れると同時に、水は逆立って大きな壁のようになり、乾いた地が表われ、民はそこを渡ってゆくことになりました。40年の荒野での訓練を経て、新しい世代に求められたのは、信仰の一歩を踏み出しなさいということでした。私たちの人生の中には、困難な状況のまま、神に信頼して一歩を踏み出すような場面があります。イスラエルの民、リーダーヨシュアにとって、一歩踏み出さなかったら、この不思議な奇跡はありませんでしたし、そのままヨルダン川を背にしてまた荒野に向かっていったら、何も変わらないどころか、彼らはそのまま滅びることになったかもしれません。ヨルダン川がせき止められるという大きな奇跡を体験した後、彼らは力づけられ、さらに大きなチャレンジに立ち向かうことができるようになりました。神は信仰の一歩を祝福し、状況を変えてくださるお方なのです。

2024年4月28日
後で、分かる

ヨハネによる福音書13章1-11節 三宅友子副牧師

 3月末にイースターを迎えてから1か月が経ちました。実際に復活のイエス様にお会いした弟子たちは、今までとは違う畏敬の念をもってイエス様を見つめたことでしょう。私たちもイースター後の視点をもって、イエス様の一つの場面を思い巡らせてみましょう。

 

 「洗足」はイエス様の十字架直前、最後の夜の場面です。洗足にはイエス様の愛があふれています。ところが、ペトロは一度足をひっこめてしまおうとしました。イエス様の愛に対して断る理由の一つは「今は分からないから」です。求めれば主は答えをくださいます。その一方で、これは信仰の世界です。どこかで、「分からないけれども、信じます」という信仰がどうしても必要です。聖書に信頼をおき、イエス様の愛を受け取るなら、事は動き出します。私たちは信仰生活の中で常に「神がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考える」ことが必要です。「自分が何を成し遂げたか、自分が何をしたいのか」という自分中心ではなく、「神がどれほど愛して下さったか」という神中心で信仰の恵みを思いめぐらすのです。イエス様を救い主と信じるということは頭のてっぺんから足のつま先まで、神の子とされた、神様のものとして回復したということです。それは過去も現在も未来も清められたということです。神様はご自分のもとに帰ってくる者をいつも清めておきたいのです。

 私たちがイエス様の愛を受け取れない別の理由は、「あとで裏切るかもしれない」という不安かもしれません。イエス様はあとで裏切るのが分かっているイスカリオテのユダの足も洗われました。いや、彼の心の中にあることが分かっているからこそ、彼の足に触れられたのかもしれません。

 イエス様にとって「愛」は「赦し」「清め」を与えることなのです。私たちにとって、イエス様の赦しを受け取ることが神の愛を受け取ることなのです。弱さを見せ、欠けを見せ、汚れさえも差し出す時、イエス様はご自分の方法で清めてくださるのです。

 

 今までクリスチャンとして頑張ってきた皆さん、一度肩の力を抜きましょう。「後で分かるようになる」でいいのです。さあ、イエス様に心を開きましょう。

2024年4月21日
真っ赤なひも

ヨシュア記2章1-24節 三宅真嗣牧師

 私たちはクリスチャンとして神の恵みを知っているわけですが、まだまだ神の全体像を捉えきれていないのではないでしょうか?神とはどんなお方なのか、さらに学んでゆきましょう。

 

1.天と地の神

 ヨシュアは二人の斥候(スパイ)を送り、敵情を調べようとしました。エリコ城壁の幅は8メートル、高さ20メートルであり、内部には空間があり、遊郭があったので、そこへ入っていきました。そこで二人はラハブという遊女と出会いました。その時、エリコの王は、スパイが忍び込んでいるという情報を掴んだので、追っ手を遣わして、捕らえようとしました。絶体絶命の中、遊女ラハブは彼らを助けることにしました。そして、「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。」(11)と信仰告白しています。ところで、なぜ神はカナン人を滅ぼそうとしたのでしょうか?イスラエルが正義だったからではありません。神はアブラハムに、「アモリ人(カナン人の総称)の罪が極みに達する」(創世記15:16)時に、あなたの子孫が帰ってくると語っています。遊女ラハブは、自分たちが滅ぼされて当然であるという前提で、救いを求めることになったのでした。

 

2.誠意と真実の神

 英語圏の教会で、イエス様を受け入れることを証しする時、surrender(明け渡す・降伏)という言葉をよく使います。二人の斥候は、ラハブとその一族を助けるため、「我々がここに攻め込むとき、我々をつり降ろした窓にこの真っ赤なひもを結び付けておきなさい。」(18)と語っています。ラハブは降伏し、命が助かっただけでなく、驚くべきことに神の栄誉に与ることになりました。異邦人であり、遊女だったラハブは、ダビデ王家に繋がる家系に組み入れられることになり、さらにイエス様の家系の一員となりました。通常、降参することは屈辱的な行為ですが、不思議なことに、神への降伏は栄誉に繋がってゆきます。誠意と真実の神は、私たちの悔い改めを喜んで聞いてくださり、赦すだけでなく、祝福をお与え下さる方なのです。

2024年4月14日
主の羊飼い

ヨハネによる福音書21章15-19節 三宅友子副牧師

 私たちの真の牧者はイエス様ただお一人です。と、同時に、私たち自身が羊飼いになるようにと聖書は教えます。羊飼いなるイエス様のお手伝いをするようにということです。

 

 羊飼いの働きをする者に必要なのは、主と一対一で向き合うことです。イエス様は復活後みんなで食事をした後、ペトロの昔の名を呼ばれました。葦のように風に揺れ動くシモンが、岩のように強いペトロになっていく過程を思いながら、主への愛を確認されたのです。これこそが、奉仕の、牧会のもとになるものです。「羊を愛していますか」とも聞かれていません。「主であるわたしを愛しますか」なのです。

 神様との関係において、躓きがあるのならば、いくら別のもので上塗りしようとし、あるいは、奉仕という善行を沢山積み重ねたとしても、根本解決にはなりません。あるいは、矛先を誰かほかの人に向けたり、自分で償おうとしても、神様との豊かな関係の回復はやってきません。神様との関係の回復は、神様と向き合うことなしにあり得ないのです。イエス様の死と復活による罪の赦しと新しいいのちでなければ、そこから前に進めない。そういうことが信仰生活にはあるのです。全てを見通される神様の前に裸にされるような体験は、きついものです。「ペトロは、イエスが三度もわたしを愛しているか」と問われたので、悲しくなった。」とあります。自分の過去を思うと、そこまで胸をはって言えない、あるいは、神様がお求めになる高貴な愛にはなっていない、と私たちも言うかもしれません。イエス様は私たちの愛を受け取って、「わたしの羊を飼いなさい」と働きを託されるのです。イエス様のそばにいるうちに、愛情が育まれ、その中で働きを託され、改めて「あなたはわたしに従いなさい」と言われているのです。

 

 皆さんはイエス様を愛しておられますか?全てをご存知のイエス様にそう問いかけられたら、なんとお応えになりますか?教会の奉仕、家族のための奉仕、主に託された地域の働きに忙しくする前に、イエス様の問いかけに答える時間を持ちましょう。

2024年4月7日
新しい出発

ヨシュア記1章1-18節 三宅真嗣牧師

 春は様々な変化がある季節であり、緊張を感じている人もいるかもしれません。モーセという偉大な指導者の後継者となったヨシュアは恐れと不安を抱え、緊張していました。どのように乗り越えたのでしょうか?

 

1.神の約束を信じる

 神はヨシュアに何度も繰り返し語り掛けている言葉があります。 「強く、雄々しくあれ」6・7・9節 そして、次にように励ましておられます。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」(5) 神がヨシュアに語ったのは祝福の約束でした。神の約束は必ず成就するというのが、ヨシュア記のテーマとなっています。「主がイスラエルの家に告げられた恵みの約束は何一つたがわず、すべて実現した。」(21:45)

私たちもまた、人生の様々な変化の中で、「どうしたらいいのだろうか?」と、うろたえたり、自分に自信を失って、うなだれたりすることがあるかもしれません。しかしながら、イエス様のゆえに私たちは祝福に導かれているのです。「強く、雄々しくあれ」と主は語っておられます。

 

2. 神のみ言葉を守る

 ヨシュアとイスラエルの民にとって、カナンの地で待ち受けていたのは、激しい戦いでしたが、神がヨシュアに命じたのは、「み言葉を守れ」という 不思議な命令でした。「馬をそろえろ」、「軍事訓練をしろ」、「弓、槍の手入れをしておけ」ではありませんでした。「わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。」(7)と約束されました。どうしてめそめそしていたヨシュアが、敵を震えあがらせるような働きをすることができたのでしょうか?彼がみ言葉に忠実だったということに、秘密がありました。私たちがヨシュア記から学ぶことができるのは、「神に従うなら強い。そして祝福の中、生きられる。」という単純な法則です。ヨシュアが祝福の中、生きることができたように、神は私たちに祝福の人生を用意して下さっているのです。

2024年3月31日
復活がなければ・・

Ⅰコリント15:12-20 三宅真嗣牧師

 

 キリスト教には明るさがあると感じます。クリスマスは冬至が終わって、どんどん日が長くなり、日差しがゆっくりと強まってゆくタイミングで行われます。そしてイースターというイベントも命を感じる春に行われます。イースターにどのような明るさの内容があるのでしょうか?

 

1.将来の希望

 将来にどんな希望があるでしょうか?年齢問わず、どんな人にも将来に希望があり、喜びを感じることがたくさんあります。しかしながら、現実問題として、どんな人の人生でもいつか終わりが来ます。「死後、自分がどうなってしまうのだろうか?」という疑問に対して、どんな人でも恐れと不安を感じます。私たちが死ななければならない理由を聖書は、罪があるからであると語ります。ですから罪の問題さえ解決できるなら、私たちは生きることができるわけです。イエス様は私たちの身代わりとなって十字架の死を遂げ、三日目に肉体をもって復活して下さいました。この出来事を信じることによって、私たちは神から罪なしと認められ、天国に招かれ、永遠の世界に入るのです。

 

2.生きる喜び

 童話ムーミンに登場するスナフキンはこんなことを言ってます。「旅をするのに、大きなカバンはいらない。口ずさむ歌があればいいんだ。」私にとって人生の旅をするのにあたって、口ずさむ歌とはイエス様です。寂しい時、悩む時、不安な時、イエス様への愛の歌を口ずさむなら、心満たされ、勇気が与えられます。クリスチャンが喜びある人生を送ることができる秘訣がまだまだあります。ある牧師は、イエス様を信じる者は、約束手形を手にしているようなものだと語っています。死という区切りを経て、神が私たちを天国の世界に招き入れ、用意された財産を授けてくださるのです。イエス様は墓を破って死者の中から復活した最初の方となって下さいました。この出来事に希望と喜びの源があるのです。

2024年3月24日
十字架がなければ・・

ヨハネの福音書19章23~30節 三宅友子副牧師

 四つの福音書全てに十字架の場面が記されています。十字架がなければ、どんな違いがあるのでしょうか?例えば、イエス様ご本人にとって地上の苦しみがなくなります。裸にされることもなく、弟子の裏切りを経験することもなく、母マリヤを悲しませることもないのです。弟子たちにとっても、愛するイエス様と離れることなく、突然の死別という大きな痛みを経験せずに済みます。イエス様を十字架につけなければ、ピラトも律法学者や祭司たちも後世に至るまで悪口を言われずに済みます。この地上のことだけ考えていれば、イエス様の十字架はなくてもいいものでした。いやむしろあってはならないものでした。

 では、なぜ神様は「あってはならないもの」をみこころとされたのでしょうか?十字架がなければ、み言葉の信ぴょう性はなくなってしまいます。30節で「父なる神様に託された救い主としての働きが完成した」と宣言されています。十字架がなければ、罪の解決がなく、私たちの人生から神様との親しいつながりが消えます。私たち自身が「渇く」「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と言い続けることになるのです。十字架がなければ、過去の傷をどこまでも引きづっていくことになります。弱さも欠けもさらけ出してありのままで生きるなどあり得ない緊張感の中、平安なく生きることになるでしょう。

今日ここに集う私たちの霊的関係も、イエス様の十字架の贖いが基礎にあります。十字架の下では血縁関係も全て超えて、「自分たちのためにキリストが死んでくださった」というその意識のゆえに結び合わされるのです。そして、特に生涯の終わりに十字架は大きな影響を与えます。人は皆、死んだら終わり、地獄に行くしかないからです。十字架がなければ、永遠のいのちがないからです。

 

 イエス様は渇かれました。私たちが満たされるためでした。イエス様は成し遂げられました。私たちが神の子とされるためでした。イエス様は身代わりの十字架の上で息を引き取られました。それは私たちがこうして神様と永遠に生きるためでした。あなたにイエス様の十字架が必要ですか?

2024年3月17日
アーメンである方 

ヨハネ黙示録3章14-22節 三宅真嗣牧師

 今春、私たち家族が横浜に来てから十年目を迎えることになりました。我が家の子供たちも、進学、進級をすることになり、成長している姿を見ることができ嬉しく思っています。ところで、イエス様は私たちのどんな心や態度を見て、お喜びになるのでしょうか?

 

1.イエス様だけが主であると認める心

 ラオディキアは金融業で栄えた豊かな町でした。ラオディキアは、「人間の統治」という意味があります。人工的に造った町で、10キロ離れた温泉地から、パイプで繋げて水を確保してました。教会の雰囲気としては、事なかれ主義で、真理を求める気持ちも薄く、真理のために戦うこともありませんでした。いつの間にか、イエス様がいなくても自分たちの力で豊かになれるのでは?と勘違いしていたようです。イエス様は、「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(16) と叱責しています。人間が決める価値観や判断による生き方でなく、私の方に向き直りなさいとイエス様は語ります。イエス様はアーメンなる真実なお方です。私たちも真実な心で、イエス様に向き合うことが必要です。

 

2.イエス様に心を開いて歓迎する

 ラオディキアは19世紀以降の現代の教会を表しております。「人間の統治」という言葉の通り、人間が価値観を決め、正誤を判断し、法律を定め、社会を築こうとする特徴があります。「神は死んだ」「宗教はアヘン」 というセンセーショナルな言葉が交わされるようになり、その影響が教会の中にも入り込んできました。イエス様は教会に語ります。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(20) 教会の中にイエス様がいない状態であり、イエス様が戸を叩き、呼びかけています。聖書に書かれていることをそのまま信じて受け入れ、神に信頼する者をイエス様はお喜びになります。単純な信仰を持ち、これからもイエス様を歓迎する教会になってゆきましょう。

2024年3月10日
3.11私たちは決して忘れない

Ⅱコリント1章3,4節 柳瀬洋先生

 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。

 

 今日は3月10日、2011年3月11日に発生した東日本大震災から明日で13年です。私は音楽家ですから、音楽を通してどのように被災者の方々に向き合ってきたか、どのように主の導きと恵みをいただいたかを証したいと思います。
 被災地支援には、行政だけでなく多くの人の力と思いやりが必要です。それぞれに果たすべき役割があり、出番(時期)があります。それをわきまえなければ、かえって人々を傷つけることにもなってしまうのです。だから、私たちキリスト者は祈りのうちに主の導きを求めなければなりません。

 困難や悲しみ苦しみの解決は大きなテーマですが、人が主イエスの福音に出会うことは最も重要なことです。それは私たちキリスト者にしか成し得ないことです。 確かに大震災は多くの人の命を奪い、人々の日常を奪いました。しかし、このことがなかったなら主イエス・キリストの福音を聞くことがなかった人、キリストに出会うことがなかった人々もおられるのです。
「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)という告白を私は何度も聞きました。


 福音宣教には役割分担がありますが、音楽にも大きな使命と可能性があると信じています。その証をさせていただきます。それが皆様の励ましとなり、福音宣教への熱い心となることを願っています。

2024年3月3日
み言葉を宣べ伝える

テモテへの手紙二4章1~5節 内田一郎執事

 本日は、会堂感謝礼拝として礼拝を守ります。最初に今の会堂を建築することになった経緯等を証しを交えてお話しさせて頂きます(巻頭言では省略)。

 そして、会堂感謝というときに、この会堂が神さまに喜ばれる教会として用いられているか、私たちは神さまに喜ばれるために何をするように求めておられるのか、そのことをもう一度確認していきたいと思います。会堂が与えられている喜びだけでなく、この会堂を神さまはどのように使うことを望んでいらっしゃるでしょうか。

1.教会とは、イエスさまを神の子と告白する群れ

イエスさまは、マタイ16:13で「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と言われました。それは、ペテロが、イエスさまのことを「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したからです。教会の基礎となるのは、イエスを神の子、救い主と言い表す信仰の告白です。その信仰を告白するものの群れ、それ自体が教会だとおっしゃっています。教会の大小をイエスさまは言っておられません。その教会の中心に神さまがおられるか、その群れである私たち一人一人が神さまのみ旨を求めているかが問われています。

2.み言葉を宣べ伝える

 その群れである私たちは、何をしなさいとイエスさまは求めておられるでしょうか。

ペトロはイエスさまが復活されて以降、大きな働きを始めます。ペテロの熱心な説教に耳を貸す人たちが増えてきたのをうれしく思わない議員たちが、ペテロにイエスの名によって話をするなと釘を刺しますが、ペテロは「私たちが見たことや聞いたことを話さないではいられない」(使徒言行録4:13~20)、というのです。み言葉を宣べ伝えるのは順風満帆の時ばかりではないのです。ペテロやパウロは、「折がよいとき」より「折の悪いとき」のほうが多かったと思います。そのような中で、み言葉を宣べ伝えていきなさいとイエスさまは私たちに求めておられます。それがイエスさまのみ旨だからです。

 今年の主題「福音宣教を味わい楽しみながら教会を広げよう」を、もう一度思い起こしましょう。家庭で、職場で、この世での生活のすべての場面で、「折が良くても悪くても」宣べ伝える機会が与えられています。それぞれが与えられた賜物を用いて、み言葉を宣べ伝えていく、そのことが教会の群れである私たちに与えられている神さまからの使命、み旨であると信じます。

2024年2月25日
ダビデの鍵を持つ方

ヨハネ黙示録3章7-13節 三宅真嗣牧師

 私たちクリスチャンは、日常生活の中で、み言葉によって励まされ、知恵が与えられ、難しい問題が起こった時でも、主により頼んで解決が与えられることがあります。イエス様はフィラデルフィア教会に励ましの言葉を語っています。どんな言葉でしょうか?

 

1.門を開いておいた

 「あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。」(8) フィラデルフィア教会は、イエス様を否定しない、すなわち積極的に肯定した教会です。伝道はイエス様を肯定することであると言えます。 「イエス様は私の救い主です。そして、あなたの人生にもイエス様が必要です」とイエス様の名を肯定して伝えることが伝道です。フィラデルフィア教会は弱小でひ弱でしたが、伝道する教会であり、イエス様はこの教会に宣教の門を開いておられました。この教会を時代の型として見る場合、17世紀から19世紀の教会であり、この時代、世界宣教が拡大しました。その働きの担い手となったのは、一般庶民であり、小さな宣教団体でした。イエス様は力のない者に力を与えることができるお方です。

 

2.わたしもあなたを守ろう

 フィラデルフィアは七つの中でも一番小さな町でしたが、ヨーロッパとアジアを結ぶ幹線道路が通っていたので、人、物、情報が行き来しました。教会にもいろんな人が出入りし、いろんな情報も入ってきたことでしょう。正しい情報もあれば、そうではない情報もあり、もし偽りを信じて受け入れてしまったら、弱い教会はたちまち混乱し、消滅してしまったことだったでしょう。弱い者が勝利する秘訣は、イエス様のみ言葉を守ることです。イエス様は、み言葉を守る者を守ると約束しています。

 私たちが生きているのは、情報化の時代であり、何が正しいのか分からなくなるような混乱の時代です。聖書のみ言葉を正しいとして、こだわって守る教会を患難の時にあって主イエスは守ってくださいます。

2024年2月18日
4つの捧げもの

Ⅱコリントの信徒への手紙9章6~12節 三宅友子副牧師

 

 先週、私たちは天の父によって養われるということを聖書全体から確認しました。主の扶養家族とされているということは大きな安心を与えます。その土台に立ったうえで、主の家族としての応答を見ていきましょう。頂くばかり、世話をしてもらうばかりではなく、私たちの側の応答があってこそ、関係の伴う信仰が成り立ちます。私たちの信仰は、何かを得るためのものではなく、父なる神様との関係を持つことだからです。特に経済面において応答する方法を4つ、ご紹介します。

 

①一つは十分の一献金です。自分の手で働いていることさえ、神様の助けなしにはできません。ならば、神様が「十分の一はわたしのもの」と仰ることに、逆に「十分の九も自分のために使っていいのですか!」と言ってもいいくらいです。そして、神様のものを神様に返しただけなのに、従った時の祝福の約束が半端ありません。

②2つ目の献げ物は、初物です。これは「こんなにして頂いて、ここまで導かれました!収穫を得るまでに至りました!」という感謝の報告のようです。

③3つ目は、施しです。これは人に差し上げるものです。最近では能登半島地震の復興のための募金なども含まれるでしょう。箴言19:17「弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。」絶対にお返しがないだろう人、そのような力がない人、弱者に差し出したものに対して、神様が報いてくださると。ですから、私たちはその人からの見返りは気にせず募金することができます。差し上げることができます。父なる神様が知っておられるからです。

④4つ目は種を蒔くような献げ方です。教会の働きの為に十分の一以上の献げ物をすることです。一粒の種を蒔くと、いくつの実がなりますか?作物の種類にもよりますが、病気ではない限り30倍、60倍、100倍の実を結びます。そして、この4つ目の献げ方だけが、自分のものを神様に献げる行為だということです。十分の一献金は、神様のものをお返しするということですし、初物もお礼を込めてのお返しです。そして、施しは神様ではなく人に向かって差し上げるものです。だから、この種を蒔くように献金をすることが唯一自分のものを神様に献げることなのです。もともとは神がささげるべき種をその人の手に渡しておられたのですが、神様の目的通りにその種が差し出されたことで、神様は大いに用いることができるのです。十分の一以上の献金は神様への投資です。

 献げ物をする時、私たちの心には感謝、従う心、人を憐む思い、神様に期待する思いが沸き起こります。神様は好意を持つ者の期待を裏切る方ではありません。

特に会堂建築のための献金は、種にあたるのではないでしょうか。新会堂が建ったことで、皆さんはどのような恵みを頂きましたか?どれほどの祝福を頂きましたか?この会堂の中で、言葉には言い表せない神様の恵みを頂き、神様のご栄光を拝してきたのではないでしょうか?

 これからも神様に期待して種を蒔き続けましょう。あなたの献げ物に目を留めて、喜んでくださる神様に心を込めてお献げましょう。

2024年2月11日
主の扶養家族

Ⅰ列王記17章1~16節 三宅友子副牧師

 聖書全体から父なる神様がどのように私たちを養ってくださるのかをお分かちしましょう。

 

①まずは、「自分で働く」ことによって養われることが言われています。自分で働くのに「神に養われる」というのはおかしいでしょうか?神様の支えがあってこそ、私たちは毎日働くことができるのです。

②神様は人を用いて、別の人を養うこともなさいます。1テモテ5章には、まずは家族が、そして身寄りがなければ教会がやもめの世話をしなさいと勧めています。それぞれの力に応じて養い合いながら過ごすように、パウロは教会を牧会していたテモテに教えました。

③社会全体が困っている人を養うことも聖書には記されています。思い出すのは、ルツ記などに見られる落穂ひろい。畑の収穫物を一粒残らずとってしまうのではなく、畑を持たない人が拾えるようにするルールです。アハブ王の時代はこういうことでさえ、機能していなかったのでしょう。それで、ここに登場するやもめのように、あと一握りしか粉と油がないという人たちが存在してしまったのでしょう。

④最後には超自然的な神業によるものです。カラスに養われる、マナが降ってくる、油がなくならない壺などの方法で神に選ばれた者たちは養われました。人の文化圏の外、自然の法則の外におられる神様が、神に従う人をご自身の方法で養われるのです。「私の仕えている神は生きておられます」とエリヤは告白しています。

 

 神こそが養ってくださると信頼すると、私たちのうちにどんな変化が与えられるでしょうか。自分のことだけを考えて守りに入る必要も、明日の心配をする必要もなくなります。お金が中心ではなくなります。イエス様もこのように約束なさいました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」今日与えられた働きをなし、あとは神様にお任せしましょう。

2024年2月4日
七つの星を持つ方

ヨハネ黙示録3章1-6節 三宅真嗣牧師

 皆さんは、どのような切っ掛けで、クリスチャンになったのでしょうか?いずれにしても、「人生のパートナー・イエス様と生きるとはどういうことなのか?」と考え、バプテスマの日を迎えたことでしょう。さて、イエス様はサルディス教会にどんなことを語ったのでしょうか?

 

1.悔い改めの祝福

 サルディスという町は、丘の上にあり、高い城壁で囲まれ、難攻不落の城塞都市でした。ところが、ペルシャによって、あっけなく陥落され滅ぼされた歴史があります。理由は、どんなに大軍が襲ってきても、この城壁は絶対に破られることはないというおごり高ぶりがあったからでした。この教会は、間違った異端の教えが入り込んでいたわけでも、偶像礼拝が行われたわけでもありません。豊かな町の豊かな教会で、迫害もなく、何の問題もなく、平和な教会です。しかしながら、彼らの問題は、イエス様に対する愛や情熱を失い、神様から心が遠く離れてしまい、喜びや感謝を失っていました。イエス様が命じているのは救いの原点に立ち返り悔い改めることです。悔い改めは、神との交わりを再び回復する方法であり、祝福です。

 

2.神の御心を行う祝福

 サルディス教会の豊かさの中で、信仰が死にかけているという状態は、宗教改革時代の教会にもみられました。国民がクリスチャンであるのは、個人が主へ応答したからではなく、国王や諸侯により国教化されたからです。しかし少数ながら、信仰を政治問題ではなく、個人のこととしてゆこうとする運動が行われています。カルヴァン、ツヴィングリーたちの働きがあり、改革派、長老派が生まれ、幼児洗礼を受けた人に、再洗礼を受けるよう呼びかけました。つまり、心で信じて、口で告白する信仰を大切にする運動です。イエス様は、一切の権能で教会を治めておられる方であり、その方の御心を行うことは祝福です。

2024年1月28日
食事をしなさい

ヨハネによる福音書21章1~14節 三宅友子副牧師

 ここでの弟子たちは「イエス様も信じられない、自分たちの能力もあてにならない」状況でした。そこに復活のイエス様が現れ、「子たちよ」と呼びかけておられます。イエス様はいつも父なる神様と一つであられましたが、ここはまさにそのようなところです。

 

 「食べ物がない」そのことを確かめてから、イエス様は「舟の右側に網を下すよう」指示されます。彼らは従いました。神様の御業への参加方法は「イエス様のことばに従う」ということです。理解しきれず、信じ切れずにいる、その時にも「みことば通りにする」と、「主だ」と分かった弟子たちの姿があります。

イエス様は炭火を起こして待っておられました。パンも魚も食べるばかりになっています。火を囲んで、イエス様を囲んで、弟子たちはどんなに癒されたことでしょうか。イエス様が再臨なさるその時まで続ける象徴的な実体験である晩餐式を思い出させます。ご自分を差し出して、食べて、生きて欲しいとのイエス様の強い思いが伝わってきます。「さあ、来て、食べなさい」十字架の主は招いておられるのです。「命のパンであるわたしを食べれば、あなたがたは永遠にいきるのです」と。

 また黙示録3章のみ言葉も思い起こします。イエス様に心のドアを開いたら、共に時間を過ごすことを楽しむ時がやってきます。弟子たちは炭火を囲みながら、イエス様と食事をして、和解を受け取りました。イエス様の弟子であるという彼らの本来の立場が回復されるための時間となりました。

 

 信仰生活、教会生活には、礼拝と飲食が必要だということです。私たちは、イエス様に「子たちよ、食べるものがありませんね。」と心配して関わって頂ける存在です。その主の関わりの中で、私たちは「主だ!」とイエス様を確信するのです。弟子たちがバラバラにならずに一緒にいたように、主を愛する人たちとの交わりの中にいましょう。

2024年1月21日
目は燃え盛る炎

ヨハネ黙示録2章18-29節 三宅真嗣牧師

 イエス様に対するイメージとは言えば、幼子を抱き寄せる姿などを思い浮かべます。今日開かれたイエス様は、「目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている」(18)お姿をしています。ティアティラ教会へ語るイエス様のどんな性質が表われているでしょうか?

 

1.燃え盛る炎のような目を持つ方

 ティアティラは工業の町であり、主要幹線道路とつながっていたので、貿易で栄えた豊かな町でした。ティアティラ教会は、最初よりもますます互いに愛する愛が深まってゆき、熱心に奉仕をし、生き生きしていた教会でした。ところが、偶像礼拝を持ち込む「イゼベルという女のすることを大目に見ている。」(20)ことが問題とされました。愛情が深くて、お行儀が良くて、忍耐強い場合、悪いことをしている人がいても、厳しく指摘できないことがあるのかもしれません。霊的姦淫をそのままにしたことで、内部から腐食が始まり、崩壊の危機がありました。イエス様は燃え盛る炎の目で教会を見つめ、教会が崩壊しないように、検察官のような立場で、取り扱うべき罪を明らかにしています。

 

2.しんちゅうの足で立つ神の子

 ティアティラを時代区分で言うなら、中世の教会を表します。その時代、ローマ教皇が絶対的な権威を持つようになり、暗黒時代と言われています。教皇をイザベルに例えて解釈するなら、その教えに従う者たちを「女の子供たち」とする比喩的な言い方で断罪しています。富が教会に集まり、教会の建物は大聖堂で、立派でしたが、教皇の声は、聖書のみ言葉より権威があるとされる間違いが行われました。ティアティラという言葉は、「継続された犠牲」という意味があります。「この女の教えを受け入れないあなたがたに別の重荷(犠牲)を負わせない。」(24)とあります。イエス様は、しんちゅうの足で立ち、裁判官のような立場で、権威をもって裁いてくださるお方です。

2024年1月14日
まだまだ広がる主の天幕

マルコの福音書16章15-18節 三宅友子副牧師

1.イエスを信じる者が広げていく

 神様は「天幕を広げる」ことを人類の歴史全てを通して実行なさってきました。最初はアブラハムを選び、イスラエル民族を通して、神様ご自身を世界に現わしておられました。そして直接イエス様が来られて、父なる神様をお伝えになりました。その後もクリスチャンを通して、教会を通して、神様の国を広めていこうとしておられます。伝道は、救いか裁きかを分ける働きですが、裁きの宣告によって「そうだったのか!」と気づくことにもなります。なんとかして、どうにかして、信じる方向へ、救われる方向へと導こうとされている主の思いがあります。

 

2.伝道にしるしが伴う

 イエス様は弟子たちが伝道していく時にしるしが伴うと約束されました。しるしによって、復活されたイエス様が生きて確かにご支配されていると肌で感じることができます。

人間に影響を与える霊の中には「悪い霊」と「良い霊」があります。イエス様だけを主と告白するのは「良い霊」であり、自分自身や他のものを神とするのは「悪い霊」です。悪い霊に支配されている人はそこからの解放が必要です。伝道現場では様々なことが起こります。青葉教会で馴染みのあるものは「病の癒しのためにお祈りする」ことです。主の癒しは現代も生きて働かれる神への信仰を呼び起こします。

 

 ぜひ、誰かに神様を伝えようとする時に、必要であれば主の癒しを祈ってもいいか尋ねてみましょう。もし心を開いてくだされば、その場で手を置いてお祈りしてください。それは主のみこころです。私たちはこれからも主の天幕を広げていきます。それが使徒言行録時代からの変わらない教会の使命です。主は共に働いて、私たちが語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになります。主は「わたしは復活して今も生きている神である」と告げたいのです。

2024年1月7日
真夜中の賛美

使徒言行録16章16-34節 三宅真嗣牧師

 聖書は、私たちに語り掛けている重要なテーマがあります。それは神の国に生きることです。今日、開かれた聖書箇所にも神の国が表されていますが、パウロとシラスはどのような行動をしたのでしょうか?

 

1.神の国を求める

 パウロたち宣教チームは、小アジアから海を渡り、フィリピにて伝道を開始しました。そこで、トラブルに巻き込まれ、当局に捕らえられました。鞭打たれ、足に木の足枷をはめられ、暗い牢に入れられました。いつ釈放されるか分からないし、明日、死刑になるかもしれない状況でした。通常なら、もだえ苦しみ、不平不満が口から出てくるはずです。ところが、パウロたちは次のように行動しました。「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」(25)いちばん奥の牢の空間が、神の国になり、主の平安と喜びを感じる場所になりました。神は見えませんが、今も生きておられます。その方に賛美を捧げ祈ることを通して神の国を求めることの大切さを聖書は語ります。

 

2.神の国を共に味わう

 人間には感情とは違う霊の領域があり、賛美によって霊が喜びに満たされるという経験をすることができます。牢の囚人たちは、暗闇の中で不思議な感覚、光や温かさを感じたのかもしれません。すると突然、大地震が起こり、牢の戸が開き、すべての囚人の鎖も外れました。看守たちは囚人たちが脱獄したと勘違いし、絶望し、剣で自害しようとした時、パウロは大声で、「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」(28)と叫びました。そして、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(31)と諭しました。主を信じるということを通して、神の支配領域に入ることができ、平安と喜びを味わうことができるのです。教会は神の国を感じ、味わい、共有しております。

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