<2024年 礼拝メッセージ>
2024年12月29日
大切だから
マタイの福音書18章10-14節 松倉善浩執事
100匹の羊を飼っている羊飼いが数を数えてみると99匹。 あれ!1匹足りません。そこで、99匹を置いて1匹がみつかるまで当然のように探しにいく、その1匹がみつかったら迷わなかった99匹の羊よりはるかに喜びが大きいというお話しです。
みなさまならどう考えますか?探すよりどこかで1匹を足して数をあわせればいい。探しに行って別の羊がいなくなるよりいい・また、探しに行っている間に残された羊が獣にでも襲われたらどうする・と私たちはいろいろと数や量で物事を考え行動してしまいがちです。
この羊飼いは、探し出した羊を見つけもどってきて、別の羊がいなくなっていると、当然のようにまた探しに行くでしょう。何度でも同じことを繰り返すでしょう。羊飼いにとってこの1匹が特別だったわけではなくすべての羊が特別であったに違いありません。
神様もこのように私たち一人一人を愛しておられます。数や量でなく目につきにくいところ、見落とし忘れてしまいそうなところに目をとめてとことん探してくださり最後まで大切にしてくださるのです。私たちは大した値打ちもない羊かもしれません。しかし、イエス様にとっては、あらゆるものを捨て置いても見つけ出さずにおれない大切なものなのです。イエス様からみて見失った人はいないのです。誰一人迷子にはなりません。イエス様は最後の最後まで私たちを探して出してくださいます。 私たちは、主の恵みによって探し出され大切にされている者です。イエス様に探し出された私たちは、イエス様に従っていくこと、イエス様の言葉に生かされて歩んでいきましょう。
2024年12月22日
シャローム
マタイの福音書2章1-12節 三宅真嗣牧師
クリスマスは美味しい物を食べ、プレゼントを貰い、家族や仲間たちと過ごす嬉しい日です。さて、最初のクリスマスにはいろんな人間模様が描かれています。新しい王誕生の知らせを聞いたヘロデ王は不安になり、一方、博士たちは喜びに溢れています。聖書は、心の平和を乱す原因と神が与える平和について語っています。
1.罪の表われ
人類最初の殺人であるカインによる弟アベル殺人事件がありました。カインは地を耕す者、アベルは羊を飼う者になり、二人は得た収穫の中から一部を神に供え物としていました。人の気持ちとしては、将来のためにできるだけ多くの物を確保しておきたいものですが、アベルは神の祝福を認める信仰があったので、最上の物を捧げることができたのでした。カインは弟が得た祝福を目の当たりにした時、神に対する不満を感じ、弟に対して嫉妬心が起こったのかと想像します。ヘロデ王は政治的策略を巡らし、ローマ帝国から王の称号を与えられトップに上り詰めた人物でした。彼の努力によりますが、カインと同じ罪の性質があり、嫉妬心、猜疑心、怒りによって、心の平和を保つことができませんでした。
2.捧げる喜び
東方の博士たちは、知恵があり、富や名誉がありましたが、この世における悲しみを感じており、新しいユダヤの王によってもたらされる平和を熱く切望していたのかと思います。博士たちは新しい王の謁見のために多大な犠牲を払いましたが、神が人の救いのために払った犠牲は、比較にならないほどです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)博士たちは、貧しい大工の子として産まれたイエス様の姿に神の偉大な愛を見出し、宝の箱を開けて捧げ、確かな心の平和と喜びに満たされていったのでした。
2024年12月15日
その御名
マタイの福音書1章18-25節 三宅真嗣牧師
心の平和はどこから来て、どのように保ってゆくことができるのでしょうか?さて、マタイ福音書に記されているクリスマスストーリーはヨセフの不安から始まってゆきます。彼はどのように心の平和を得ることができたのでしょうか?
1.罪という根本原因を見つめる
ナザレ村にヨセフとマリアというカップルがおり、一年間、お互いに節操を守る大事な婚約期間を過ごしていました。ところがヨセフにとってマリアが自分には関わりのない方法で、妊娠したという衝撃的な事実を知ることになりました。聖霊によって処女が身ごもるなど前代未聞で、あり得ないことであり、ヨセフの頭は混乱し、深い悩みを抱えていました。天使が夢に現れ「この子は自分の民を罪から救うからである。」(21)とヨセフに語りました。聖書の中心テーマは罪から救いであり、罪こそすべての不幸の根本原因であるとしています。ヨセフは罪から救ってくださる神のご計画に委ねようという思いになったのでした。
2.神に信頼し未来へ向かう
私たちクリスチャンの幸いは神に祈ることができることであり、インマヌエルなる主を体験することができることです。しかもそれは宗教行事に参加している時だけではなく、日常生活の中で、神の恵みを感じることができるのです。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。(23) 不安と緊張の中にあったヨセフは、その約束を受け止め、起き上がって、マリアを妻として迎える行動をとることができました。インマヌエルなる主は私たちと共におられ、私たちの地上の生涯を共に生きて下さるお方です。ヨセフはこの方と共に生きることの安心感を覚え、恐れや迷いから覚め、立ち上がって、未来に向かうことができたのです。
2024年12月8日
平和の君の家系図
マタイの福音書1章1,11-25節 三宅友子副牧師
1節にアブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図とありますから、ユダヤ人社会では知らない人がいない代表的な先祖の名前が並ぶ家系です。ところが、聖書はそれぞれの人物の良いところだけを記していません。イエス様の家系が決して穏やかな、落ち着いたものではなかったことが分かります。バプテスマのヨハネの言葉を借りるなら、神様は石ころからでもアブラハムの末を起こすことがおできになるお方です。神様のご計画はいつも結果論ではなく、因果応報でもないのです。神様がアブラハムの家系に、そしてダビデの家系に、メシアを与えるという約束が先にあって、イエス様がお生まれになりました。神様主導で、事が運ばれたのです。神様は選ぶと決めたから、ご自身のご計画を成し遂げていかれます。この系図を見ると、アブラハム、ダビデを選ばれた神様の誠実さが伝わってきます。
次にこの系図を「だからこそ」という見方で受け止めてみましょう。多くの課題と、苦しみと痛みと、的外れな罪、戦いの歴史の中で、そこに神はおられました。私たちの理想の神よりもはるかに偉大な神はその全てから救い出すカギは「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」にあるとヨセフに語られました。これが、世界の答えです。数千年の歴史の答えです。私たちはこの神の恵みを体験しています。
アブラハムまで遡る約1900年間をご支配され、導かれた方が、ヨセフの心の中の決心のタイミングにピンポイントして、夢の中に天使を送らました。神様はマリヤが罪を犯していないことはもちろんのこと、正しいヨセフが神様の御業のために用いられるように、二人を導かれました。神様がイエス様を送られる目的は「その罪から救うため」です。その系図に残っている姦淫も、捕囚も、ヨセフたちが対面するヘロデ王の脅威も、もとはと言えば、自己中心な罪が原因です。民の長い歴史というホースに穴が開いて、あちこち水が漏れ出ている。神様はその大元の栓を閉める「罪から救う」という大事業をなさってくださったのです。
2024年12月1日
平和の光景
イザヤ書2章1-5節 三宅真嗣牧師
私たちの教会は聖書をどれだけ大切に思っているのでしょうか?どんなに優れた賢人の言葉よりも聖書以上に権威ある言葉はないとしています。ところで聖書は将来の見通しや目標について語っています。
1.神に委ねる信仰姿勢というゴール
預言者イザヤが活躍した2,700年前、世界帝国アッシリアの前で南ユダ王国は風前の灯火でした。46の町と村は破壊され、エルサレムがかろうじて残っていましたが、王宮の宝物庫は空っぽになり、金で覆われた聖所の扉、柱まで差し出すことになり、王の心は打ちひしがれていました。そんなヒゼキヤ王の前に現れたのがイザヤであり、今日の神から預言を語ったのでした。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう」(3)ここで言われている「その道」とは、神を認め、神に信頼し、委ねるという生き方です。礼拝する私たちの姿は平和の光景と言えます。神は神に委ねるヒゼキヤを守ってくださいました。
2.イエス様が王座に着座するというゴール
イザヤ書は、次のように未来を描いています。「主は国々の間を裁き/多くの民のために判決を下される。/彼らはその剣を鋤に/その槍を鎌に打ち直す。/国は国に向かって剣を上げず/もはや戦いを学ぶことはない。(4) ニューヨークの国連本部広場にこの御言葉をイメージするモニュメントがあります。しかし理想とする平和になかなか近づけないという現実があります。ところが、聖書はイエス様による完全な統治があり、平和な世界が実現すると語っています。サタンが縛られ、罪の誘惑もなく、人々が憎しみ、妬み、恨みなどの悪い感情を抱くことなく、争いのない完全な平和な世界がやって来るという約束です。未来に希望を抱き、「さあ、主の光の中を歩もう」と呼びかけ合うのが私たち教会の基本姿勢となっています。
2024年11月24日
取るべき地
ヨシュア記13章1-7節 三宅真嗣牧師
将来に対して不安を感じない人がいるでしょうか?神はヨシュアに「占領すべき土地はまだたくさん残っている」(1)と語っておられます。ここからどんなメッセージを受け取ることができるでしょうか?
1. 戦うべき領域
この時、ヨシュアは90才を超えていました。彼はモーセの従者として仕えて以来、常に戦場の現場で過ごしてきました。ヨシュア率いるイスラエル軍が主要都市を陥落させることができたわけですが、頑強な要塞にいるカナン人たちを追い出すことができずにいました。この戦いを私たちに当てはめるなら、どんなことが言えるでしょうか?イエス様を信じたことで、罪からの勝利が与えられ、救われました。天国の希望があるので安心感があります。しかし依然として、肉に挑んでくる戦いがあり、失敗もあり、敗北感にさいなまれることもあります。主の御前でへりくだり、自分の弱さを告白し、祈るなら、聖霊による変革が与えられ、勝利してゆくことができ、少しずつイエス様に似る者に変えられてゆくというのが聖書のメッセージです。
2.祝福の取り分
若い時には自我のため方向が定まらず力を発揮しにくいですが、老人になると、自分の限界に気づくようになるので、大切なものとそうではないものを判別し、意義深い時間の使い方をすることができるようになると言われています。詩編にこのようにあります。「力を捨てよ、知れ わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」(詩編46:11) 自分の力を捨ててこそ、得られるのが信仰の力です。老年になったヨシュアに、神が語った言葉は余りに酷ではないかと思われるかもしれません。しかし、信仰者ヨシュアは目を上げて、積極的な姿勢になったかと想像します。祝福を獲得するための秘訣とは、自分の力を捨て、神に委ねる信仰を働かせてゆくことにあります。
2024年11月17日
長服を着せられて
出エジプト28章1-5,39-43節 三宅友子副牧師
幕屋建設と共に、祭司という奉仕者について神様がモーセに指示された場面です。祭司は神と人とを仲介する代表的存在でした。
大祭司には「威厳と美しさを添える聖なる」祭服が用意されました。胸当てに宝石が12個もはめ込まれています。エフォドの両肩にも6つずつイスラエルの12部族の名前が刻まれていました。大祭司は両肩にも、胸にもいつでもイスラエルの名前を身につけて奉仕をしました。額には「神にとって聖」とかかれた金の札がありました。大祭司の働きは、選ばれた民を「神にとって聖」とする働きです。私たちにとって大祭司とはどなたでしょうか?私たちとささげものは、仲介者イエス様がいてくださり、イエス様のお名前によって受け入れて頂けるのです。「私たちは宝石のように覚えられている一人一人である」とイエス様を通して言うことができるのです。神様のビジョンのためには、荒野であっても、必要なものが揃うのです。私たちのために、町の外でなだめの供え物となってくださったのはどなたでしょうか?イエス様の十字架は、町の外のゴルゴダの丘の上にたてられたのです。
さて、長服というと父の特別な愛のしるしであったヨセフの長服を思い起こす方もおられるでしょうか。天の御国では白い衣を着せられている人たちがいます。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」父の赦し、父の愛、選ばれた祭司であることを明確に示している美しい衣です。神の目と人の目に「聖なるもの」と分かるキリストという服です。
選ばれた者として、キリストという服を着せられ、神の御前に立つなら、あなたは赦された者として、恥も引け目からも解放されます。永遠に主の祭司として、立たせてもらえるのです。祭司たちの中でひときわ目立つ大祭司イエス様に注目する礼拝共同体でありましょう。